「サワ、見て。八重桜が咲き始めてる」
「あら、お綺麗ですわねぇ」
 近所にある、お茶のお稽古からの帰り道。お付きの女中、サワと一緒に路地沿いの木を見上げた。大きくふんわりとした桃色の花がたくさん付いている。
「ねえ、サワ」
「はい、何でございましょう」
「何か困ったことはない?」
 風呂敷包みを握る手に力を籠める。八重桜の花がひと房、足元へ落ちた。
「何もございませんよ。どうなさったのです?」
「何もないなら、いいわ。今言った事は忘れて」
 もしも、このサワが……私に付いている女中までもが辞めることになったら、その時はどうにか家のことを調べてみるつもりだった。お父様はもちろん、ばあやも家令も、そういった家の事情を何ひとつ教えてはくれない。私が小さな疑問を口にするたび、女子はそのようなことを知らなくていいのだと幼い頃から言われてきた。そうして愚かな私は疑うことも知らずに今日まで生きてきてしまったのだ。
 友人たちとの会話を思い出す。
 富豪の平民と結婚をした級友。周りから気の毒だと憐れまれ、その生活を勘繰られるなんて……私だったら耐えられない。友人の胸の内を思うと心が痛んだ。
 私の家もまた傾きかけているのだとしたら、他人事では済まされない。このままで良い筈がない。


「お帰りなさいませ、蓉子さま。さきほど御前様がお戻りになられました」
 玄関に迎えに来たばあやが、緊張した面持ちで私に言った。
「お父様が?」
「光一郎(こういちろう)様と光二(こうじ)様も、寄宿舎からお戻りになられて御前様の元にいらっしゃいます。皆さまでご一緒に早めのお夕食を、とのことですので、姫様もお急ぎくださいませ」
 ばあやが焦るのも無理はない。お父様はこちらへ一瞬帰って来ても、それは洋館でお客様とお会いになるご用事があるからというだけで、皆と食事を取られることなんて久しくなかったのだから。
 それにしても、弟たちまで呼び出していたなんて……何か余程のことがあるのだろうか。
 中等科の年子の弟たちは、自分からお父様に話しかけることはなく、お父様の方から親しげになさることも少ない。緊張感の漂う食事風景を想像するだけで憂鬱になってしまう。

 荷物を置いて髪を整えてから食堂へ向かった。
 母屋は畳のお部屋が続いていたかと思うと、飴色の床板が突如現れる洋室がいくつかある。和と洋の混ざり合う造りは、私が生まれるずっと以前に改装を重ねていたらしい。食堂もまた広い洋室の造り。
 大きなテーブルの上座に着いている着物姿の父の傍へ静かに近付き、お辞儀をする。
「お帰りなさいませ、お父様」
「蓉子か」
 返事をした父から煙草の匂いがした。その香りが久しぶり過ぎて、父がここにいることに違和感を覚えてしまうほどだった。
「お茶のお稽古に行っておりました。遅くなりまして申し訳ありません」
「いいから座りなさい。食事をしながら話そう」
 父に促されて弟たちの正面に座り、白いナプキンを膝の上に広げた。
「光一郎も光二も、お帰りなさい」
「ただいま戻りました」
「お元気そうですね」
 光一郎はお勉強が良くでき、運動もそつなくこなす優等生。光二は末っ子らしく、少々甘えん坊だけれど真面目で頑張り屋。彼らは成長するにつれて、それぞれの母に似た面差しを受け継いでいた。
 二人は何故父が家に帰ってこないのか、と私に訊いたことがある。半年ほど前だったろうか。口ごもる私を見て何かを察した二人は、その話題を二度と訊ねてくることはなかった。

 鶏肉の入った蜂蜜色のスープをおさじで掬って口へ運ぶ。瞬く間に良い香りが口中に広がった。
「蓉子、喜びなさい。お前の結婚相手の候補が決まったぞ」
 父の声に驚いて顔を上げ、急いでナプキンで口元を拭う。
「私の……?」
 そうだ、と頷いた父は、口髭を撫でながら、もう一方の手でワイングラスを持ち上げた。赤い液体が揺れる。
「候補は数人いるのだが、わしは西島の次男坊殿をお前に勧める。あちらから是非にと言われたのだ」
 上機嫌な声色だった。
 ワインを口へ流し込んだお父様のお顔を見つめた。西島……? 聞いたことの無いお名前。こっそり覗き見した華族会館の名簿には父が付けたしるしがいくつかあった。きっと婚約者候補の方だと思い、何となくお名前を記憶していたけれど、今父が告げたものを覚えていない。
 嫌な予感が胸を掠めた。
「お父様」
「何だ?」
「もしや、華族ではないお方でいらっしゃるの?」
「そうだ」
 間髪入れずに答える父に言葉を失った。
「……」
 呆然とする私の沈黙に気付いた父が眉をしかめる。
「何が不満か。いずれお前は、この薗田家を出なくてはならない身だ。相手の家柄どうのと贅沢を言える身ではない」
 また、どきどきと心臓が鳴り始めた。
「とはいえ、これ以上の相手はなかなか見つからんぞ。今を時めく西島財閥の息子だ。くだらない誇り故か、皆口にしたがらないが、あの財を持つ平民を手の内に入れたい華族は多くいる。その意味は……説明せずともわかるな?」
「!」
 昨日から胸に抱えていた不安を、まさかこの場で、それもお父様から直々に知らされるとは。弟たちが父と私の顔を交互に見ている。聡い彼らは父の言った意味を同時に理解したのか、私と目が合うと何も言わずに再びスープ皿へ視線を落とした。
 財を手の内に入れたいから私を平民の家に……? 薗田家はそこまで落ちぶれていたというの? 
「近々お見えになるから、そのつもりでいなさい」
 動揺した私に父は慰めるでもなく淡々と言った。
「……はい、お父様」
 お皿に載せられた丸いパンを見つめて、呟くように答えた。食欲は失せ、血の気が引き、ただひたすら食事の時間が過ぎるのを待った。

 自室に戻り、明かりも点けずに畳の上に泣き崩れた。嗚咽を漏らさないよう着物の袖を噛んで涙を流す。
 ――はい、お父様。
 それ以外にお返事のしようがなかった。他に言葉があったのなら、誰でもいい。教えてほしい。
 お父様には逆らえない。それは絶対なことだとわかっている。でも。
 級友に感じた憐れみを、今度は自分が受けることになるとは思ってもみなかった。
 幼い時から、自分と同じ立場の方に嫁ぐ為の教育を受けてきた。そうなることを信じて疑わず過ごしてきた。友人たちが話していた自由恋愛などという憧れは元々持っていない。お互いの家を繁栄させる為に結婚することに異議は唱えない。だからといって平民の方と結婚するなんて……それが私の役目なの? 弟たちを呼び出したのは、彼らが継ぐ薗田家を潰さない為の役割を、私に有無を言わさず納得させたかったから?


 ほとんど眠れずに、ひと晩を過ごした。
 障子から朝の柔らかな光が入り込んでいる。憂鬱な気分は、いささか和らいだけれど、まだ胸に苦しさが残っていた。布団から起き上がり、寝巻のまま部屋の角にある小さな本棚の前に立つ。
 こんなふうに悲しい気持ちが続く時、自然と手にする本があった。
 いつだったか、葉山の別荘で過ごした日。退屈していたまだ幼い私に、どなたかがくださった外国の本。その方のお顔を詳しくは思い出せないけれど、歳は中等科よりも上くらいの男性という印象が残っていた。
 表紙には一人の少女と、彼女の周りに小さな花が描かれている。日本のものとは印象が違う美しい色の絵柄を目にすれば、どんな時も心が軽くなった。
 ページを捲ると英文が現れる。その英文の下には日本語訳が書きこまれていた。全部、というわけではないけれど、読めば幼い頃の私にも大体の意味がわかった。これを私にくださった方が書き綴ったものだろう、その綺麗な日本語訳の文字と丁寧な解釈、そして物語そのものに、私は何度も救われていた。
 最後の数ページは訳が全く書き込まれていない。もう少し英語が堪能になったら続きの訳を自分で書き入れてみたい、そんなふうに思っている。

 朝の支度を終えて母のいる離れに向かった。
 今日は日曜日で女学校はお休み。ゆっくりできるけれど、お食事の前に母の顔を見たかった。外国の本が慰めになったとはいえ、まだ大分心細さが残っていたから。
 お付きの女中に母が起きていることを確かめ、襖の前で声を掛ける。
「お母様、おはようございます。そちらへ行ってもよろしい?」
「蓉子? お入りなさい」
 襖を開けてお部屋に入る。
「今日はとても良いお天気よ。お加減いかが?」
「たくさん眠ったわ。夢も、たくさん見た」
 掠れた声で母が弱々しく呟いた。部屋の隅に置いてある鏡台。そこに載った櫛を取りに行く。傍に座って母の黒い髪を櫛でそっと梳いた。
 しばらくそうしていた私に母が訊ねた。
「お父様は蓉子に何とおっしゃっていた?」
「え?」
「昨日お帰りになって、母屋の方にまだいらっしゃるのでしょう。お顔を見てはいないけれど」
「お母様のお体に障らないようにと、お気を遣われているのよ。だから、ここへはいらっしゃらないのだと思うわ」

 母の具合を気にも留めていない父の行動に、私は嫌悪していた。
 昨夜、お父様は光二の母を呼び、共に自室へ入って行った。それを目の当たりにした私は、途端に目配せをする女中たちと、ばあやの苦いお顔に気付いた。離れた場所からこちらを見ていた光一郎の母の視線にも。この全ての意味がわかってしまう今では、私ですら母屋にいることがつらく感じた。
 家を継ぐ男子を途絶えさせない為、妻妾同居の家が数多くあるのは知っている。薗田家に限ったことではない。
 けれど、この状況に心を痛めない女なんて、この世にいるとは思えない。母と彼女たちを見る度に、その思いが私の中で膨れ上がっていた。

 庭を見たいと言う母に頷き、立ち上がって障子を開けに行く。広縁にあるガラス窓の向こうの空は青く、私の姿に驚いた鳥が庭から飛び去った。
「蓉子、どうしてもお嫌なら、お断りしたって構わないのよ?」
 意外な言葉に緊張した。
「……何の、お話?」
 どこまで知っているのかと、恐る恐る母を振り向く。
「誤魔化さなくてよいの。本意ではないと、あなたのお顔に書いてあります。縁談のお話があるのでしょう?」
 瞼の腫れを隠そうと冷水で何度も顔を洗ったというのに、無駄に終わってしまった。それでも、何でもないという顔をしていたい。お母様の言葉を無視して明るい声を出した。
「お父様が勧めて下さる方ですもの。きっと素敵な殿方よ」
「何というお方なの?」
「……ごめんなさい。お名前を忘れてしまったわ。お父様ったら一度しかお言いにならないんですもの」
「そう」
「近いうちにいらっしゃるのですって。楽しみだわ」
 相手が華族ではないと知ったら、母を傷つけてしまうかもしれない。まだ本決まりではないのだから余計なことは言わない方がいい。

 一人で早めに朝食をとっていた父は、既に出掛ける準備を終えていた。玄関に向かった父のあとを女中たちと共に追う。その中の二人は弟たちの母親。彼女たちは父が別の女性の元へ向かうのを何度も見ている。そしてお母様は、この女中たちよりも、もっと悲しい思いをしてきたはず。
 堪えきれなくなって、父の背中に声を掛けた。
「お出かけの前に、お母様に会ってさしあげて、お父様」
 父のお帽子を手にして懇願する。振り向いた父は、眉間にしわを寄せながら帽子に手を伸ばした。
「淑子(よしこ)は、わしの顔を見ると余計に具合が悪くなるからな。それよりも蓉子。昨夜の話……心づもりは良いな?」
「……ええ」
「昨夜、他の婚約者候補も今一度考えたが、やはり西島の家が一番良いだろう。近いうちに会わせるから、そのつもりでいなさい」
 帽子を被り、ステッキを握ったお父様は、次はいつお帰りになるかも告げずに玄関を後にした。

 お金の為に私を結婚させる。
 それなのにまだ、女性相手のお遊びは止められないのだ。お母様をないがしろにしても、弟の母である女中を部屋に招き入れることはするのだ。男の人というのは皆……このようなものなの?
 尊敬していたはずの父へ、日に日に湧き上がってくる失望を抑えるのは、私にとって難しいことのように思えた。