そこは山手のお邸に吹く風とは違う、潮の香りのする街だった。
自動車からから降り立った私たちに、運転手の河合さんが言った。
「それでは後程、馬車道の西洋料理店へお迎えに上がりますので」
「ああ、四時頃でいいかな。夕飯は軽めのものだけでよいと、ツネに伝えておいてくれ」
「かしこまりました。行ってらっしゃいませ」
河合さんはその場で丁寧にお辞儀をし、笑顔で見送って下さった。
「さあ、行きましょう。蓉子さん」
「はい」
ここは横浜の港町。
本来ならば先週に港へ行こうと約束していたものを、直之様は私の体調を気遣い、熱を出してから二週間後の今日にしてくださった。
六月下旬の最終日曜日。梅雨の最中ではあるけれど、今日は薄日の差す、雨の心配の無いお天気だった。
周りは赤い煉瓦造りの建物が多い。東京とはまた別の洗練された雰囲気が漂っていた。街を歩く人々もどこか垢抜けている。元町と同じく、この辺りも欧州出と思われる外国人を多く見かけた。
「何とか天気は良さそうで安心しました。その服、とても似合っていますよ」
一歩下がって歩く私を直之様が振り返る。彼は涼しげな水色のシャツに紺色のベスト、揃いの腰の細いおズボンを穿かれ、上着は脱いで手に持っていらした。カフスに付いた青い石が陽の光に、きらりと反射している。
私は白地に薄い水色の細い縦縞が入ったワンピイス。袖はすっきりとした七分丈で、腰のリボンを後ろで結んでいる。襟元は小さな真珠のネックレスを飾り、頭は下げ髪に大きなリボンをひとつ。
「靴は痛くありませんか?」
「ええ。だいぶ慣れました」
着物より採寸が楽だということで着てはみたものの、外でこのように足を出したワンピイスでいるのは心許なく、ましてや殿方と二人で街を歩くなど初めてで、恥ずかしさからいっそどこかに隠れてしまいたいくらいだった。周りの人が皆、私をはしたない女性だと思ってはいないかしら。
直之様が立ち止まったのは、石造りの立派なお店の前。ガラス越しに、お帽子やバッグ、お洋服などが飾られている。重厚な扉が開いた。
「いらっしゃいませ、西島様。お待ちしておりました」
「ああ。今日はよろしくね」
「こちらこそよろしくお願いいたします。どうぞこちらへ」
女性の店員の方が、私たちを案内してくれた。美しい店内に置いてあるお洋服は花が咲いたように、たくさんの色でひしめきあっていた。お客さんたちが店員さんとお洋服について相談している。
私と直之様は、その奥の場所の個室へ案内された。木製の調度品が並び、窓辺にかかったレエスのカーテンがお部屋の中に柔らかな光を取り入れていた。
ふかふかとした椅子に座ると、冷たい飲み物を出された。
「お口に合うかわかりませんが、よろしければどうぞお召し上がりください」
「冷やし珈琲かな?」
「そうでございます。ご令嬢様もどうぞ」
「ありがとう。いただきます」
珈琲の好い香りと美味しい冷たさが、喉を潤してくれた。
「早速ですが、こちらが夏用のお洋服の見本帳になります。今流行のものが、こちらのシフォンスカート、同じくシフォンのブラウス、そしてワンピイスがこちらですね。夏らしい爽やかな青と白のマリンルックや薄紫の小花柄が人気です。それから……」
お店の方がパラパラと見本帳を捲って説明してくださった。素敵なものばかりだけれど、私に着こなせるのだろうか? 元より、私には贅沢過ぎないだろうか。
「蓉子さんいかがです?」
お隣に座る直之様が私の顔を覗き込んだ。
「ええ。どれも皆、可愛らしいです」
美代子さんたちが、これをお召しになったら似合うだろうな、と想像してみる。微笑ましい気持ちでいると、頷いた直之様が店員の方に言った。
「では、ここに載っているの全部と、秋の服を三十着ほど欲しいんだが」
その言葉に私と店員さんで顔を見合わせてしまう。お互いに言葉を失っていると、直之様が咳払いを一つした。
「……ま、まぁ、全部でいらっしゃいますか? ありがとうございます。昨日初秋のカタログが届きましたので、今お持ちいたしますわね……!」
「ああ、あとはナイトウェアを十着。夏用と秋用それぞれね。それから下着と……帽子と靴も、ここで揃えてしまうか」
「ええ、ええ、かしこまりました! それではご令嬢様、こちらへ。早速採寸いたしますので」
呆気にとられていた私は、新たに現れた三人の店員さん共々、さらに別室の採寸室へ連れて行かれた。
採寸の間、直之様は秋物の洋服、靴やバッグもお店の方と相談しながら決め、私が彼の元へ戻った時には、既に支払いまで済ませていらした。
注文書の控えを受け取りながら、彼が店員さんに訊ねる。
「どれくらいの時間でできる?」
「大体二週間くらいは、いただくことになるかと」
「二週間? それは困るな」
「い、いえ……! 一週間で作らせますわね。大変失礼いたしました」
その後、店員の方のほとんどが、お店の外までお見送りに出て、私たちへ丁寧に何度もお辞儀をした。
「それでは一週間後、お宅様へお届けに参ります」
「ああ、ありがとう。悪いね、いろいろと無理を言って」
「とんでもございませんわ。それに、そんなお優しいお顔をされたら、どんなお願いでも皆様お引き受けしてしまうでしょうに」
「それはないよ」
苦笑した直之様が私の背中をそっと押す。
「ありがとうございました! 蓉子様に気に入っていただけますよう、精一杯作らせていただきますので。ぜひまたお越しくださいませね」
いつまでも続く彼女らの声は、大通りを過ぎる馬車の音に紛れていった。
「さあ、次は呉服屋です。着物を誂えましょう」
そこから少し歩いた場所の呉服屋へ入った。直之様が店内で声を掛けた途端、私の元へ次から次へと反物が運ばれ、大変な騒ぎになってしまった。
「今からですと夏着物は間に合いませんので、初秋のものになりますが、よろしいですか?」
お洋服の上から私の寸法を測りながら、店員さんが直之様に伺う。
「ああ、もちろん。学校用の袴もお願いします。袴は十枚もあれば足りるだろう」
「そんなに必要ありません」
「俺がいいと言っているのですから、いいんです。あとは……俺も何か揃いで作ってもらおうか」
私の言葉を軽く受け流す直之様に、寸法を測って下さっている年配の女性が笑った。私の顔を見上げ、優しい口調で話しかけてくれる。
「今流行の兆しがある、大柄の西洋花などいかがでしょう。お若くていらっしゃいますし、色がお白いですから、きっとお似合いですわよ」
「ありがとうございます。お任せいたします」
直之様は決断が早く、洋服のお店と同じように、全てを素早く決めておしまいになった。
「それでは注文書を作って参りますので、少々お待ちくださいませ」
「ああ、頼みます」
お店の入口付近に並んでいたおリボンや、縮緬のお財布を見ていると、直之様が隣にいらっしゃった。
「リボンが欲しいのですか?」
「いえ。こちらの女学校の皆さんは、いつも綺麗なお色のおリボンを着けていらっしゃると思いまして。前の女学校は白や紺ばかりでしたから」
羨ましくはない、と言ったら嘘になる。ばあやが厳しく、綺麗な色のおリボンなど、持っていないに等しかった。
「あなたがいつも学校に着けていく、白いリボンも好きですよ」
「……」
「清楚な色が、あなたにとても良く似合っている」
目を細めた彼が、私のリボンを弄びながら言った。
今までとは何かが違う、とても優しいお顔に胸が締め付けられた。どうしてそんな表情をなさるの……? 心の平穏が乱されてしまうような、そんな視線。
「とはいえ、学校のお友達との兼ね合いもあるでしょうし、女性は可愛らしいものの方がお好きなのはわかります。学校用の着物に合うリボンを買いましょう」
「よろしいの?」
「今さら何です。洋服や着物を買ったんですから同じことですよ。遠慮せずに」
「では……これを」
格子と花の模様が美しい赤いおリボン。学校に着けていったら、皆さんに気付いてもらえるだろうか。
「もっとですよ。これとこれですか? それともこれとこれですか?」
「では、こちらで」
水玉の柄を手にした私に、直之様が大きな溜息を吐いた。
「全くもどかしい方でいらっしゃる。ああ、すみません」
「はい」
呼ばれた店員さんが、こちらへやって来た。
「ここからここまで、この上段のを全部包んでもらえますか。あとこれと、これも」
「あらまあ、かしこまりました。ありがとうございます」
「直之様、そんなには」
「またいつ来れるともわからないのですから、今買ってしまいましょう」
呉服屋のあとは夜会服を作るドレスのお店へ行き、見本に載っていた五着のドレスを注文した。
お買い物だけで、もうすぐ二時になろうとしていた。四時間も、お店を回っていたことになる。
「疲れたでしょう。ずいぶん時間を食ってしまった」
「いえ。ありがとうございました。あんなにたくさん、申し訳ありません」
「あれは俺の見栄でもありますから、あなたはお気になさらずに。食事に行きましょう。ここからすぐですので」
ふと横を歩く彼を見上げて、初めて逢った時のことを思い出した。
失礼な人だと思いつつも、見目の好さに目がいった。今もつい、道行く人と比べてしまう。直之様の背は普通の男性よりも少し高く、体型はすらりとしていて、洋装がとても似合っている。すれ違う女性が恥ずかしげもなく彼を目で追い、連れ立つ人と目配せする光景を何度か見てしまった。こちらの女学校へ編入した時の皆さんの反応が嘘ではないと証明しているかのようだった。
「いらっしゃいませ、西島様。お待ちしておりました」
こちらも赤い煉瓦の建物。扉は厚い木製で、取っ手がとても大きい。
「遅くなって申し訳ないが、すぐに用意してもらえますか?」
「それはもう。個室をお取りしてありますので、こちらへどうぞ」
「ありがとう」
三階建の西洋料理店。二階に案内された私たちは、いくつかある個室の一番奥のお部屋へ通された。
真紅の絨毯が敷かれた十畳ほどある洋室。テーブルに着席し、彼がメニュウを決めた。
テーブル横には、カーテンの開いた大きな格子窓。真向かいに連なる建物、大通りを通る自動車や俥がよく見えた。
ワインに続き、お魚をほぐして蒸したようなものや、ハム、半分に切られた赤く丸いトマトという、見たこともないお野菜が、それぞれ小さく飾られて、お皿に載って運ばれた。
どこからか音楽が流れてくる。一階に置いあったピアノを誰かが奏でているのだろう。
メインはビーフシチュウ。とろみのついたソースのようなお色のスウプの中から、ごろごろとした人参や、じゃがいも、そして大きな牛肉が顔を覗かせていた。
ナイフなどを使わなくても、お肉がほろほろと崩れていく。
「お肉が柔らかくて溶けてしまいます。とても美味しい。このようなものは初めてです」
「美味しいですね。外国人向けに作られた店ではありますが、日本人にもよく合う味に仕上げてあって、気に入りの店なんですよ」
しばらくそうして、生のお野菜やパンなどをビーフシチュウと一緒に、ゆっくりいただいた。
「あなたが横浜へいらしてから、三週間近くが経ちますが、こちらの暮らしには慣れていただけましたか?」
「学校はだいぶ慣れました」
お祈りのお時間があることや、外国語の授業が多いことに驚いたけれど、慣れてくればとても楽しい。
「家はどうでしょう」
「まだ、戸惑うことが多いです。皆様優しいお方で、助けられてばかりです」
「焦らず、ゆっくりなさればいい」
「あなたは?」
同じ質問を彼に返した。
「俺ですか?」
「他人の私が家に入ったのですから、生活にご不便などあるのでは」
「ありませんよ、ちっとも」
直之様は澄ました顔で、ワインをお飲みになった。
「毎日、あなたが家にいることが楽しみになっています。あなたを見ていると、実に面白い」
ワイングラスを置いた彼は、肘を着き、両手を前で組んで私を真っ直ぐに見つめた。
「俺は華族のお姫様というのは、もっと高慢で高飛車なものだと思っていました。家に迎えてからもきっと、あなたに反発され続けるだろうと覚悟しておりましたしね。ですが、あなたは違った。いや……本物の姫というものはそうなんでしょう、俺が知らなかっただけで」
私も手を止めて、彼の瞳に視線を合わせた。
「こうと決めたらそれに従い、俺の家に一生懸命馴染もうとしてくださっている。その高貴な潔さに……感動しています」
彼の口から放たれた真摯な言葉に、私の方が胸を打たれた。
これは、何? さっきから胸を締め付けられるような、この気持ちは、一体……。
「やはり、あなたを選んで良かった。見つけた甲斐がありました」
「見つけた、とは?」
「……」
一度口を噤んだ彼が、窓の外へ目をやり、小さな声で呟いた。
「俺の結婚相手の条件に合う方を見つけた、ということです」
それ以上は何も語ろうとなさらず、ワインをまたひと口、飲まれた。
食後に出された、綺麗に切られた枇杷をフォークに刺していただく。優しい薄橙色の果実はとても甘く、後味は今の気持ちのような、ほんの少しの渋みを舌に残すものだった。
「この後、鉄桟橋へ行きましょう。蓉子さんに、お見せしたいものがあります」
お店を出たところで、運転手の河合さんが時間通りに自動車を停めて、私たちを待っていた。
海の方へ向かっていく。大きな煉瓦造りの建物が何棟も連なる場所を通り、その端の建物にあたる場所で自動車が停まった。
河合さんにドアを開けてもらい、車から降りて一歩踏み出すと、目の前は海。潮風が頬を強く撫でていく。波の音が幼い日の郷愁を呼び覚ました。
「少し散歩がしたい。海岸通りの仏蘭西波止場で待っていてくれ」
「オリエンタルホテルの前辺りでよろしいでしょうか」
「ああ、そうだね」
「かしこまりました。お気をつけて、行ってらっしゃいませ」
河合さんに挨拶をして、建物沿いを歩く。曲がり角の手前に来た時、直之様が立ち止まり、雲の晴れた空を仰いだ。
「見せたいものというのは、ここに?」
「そうですよ。あちらを見てください」
私の後ろに回り込んだ彼は両肩を掴み、私の体をくるりと反転させ、建物の角を曲がらせた。急に視界がひらけ、空と海が尚間近に迫り、そして……初めて見るその光景に声を上げた。
「まぁ……! すごい!」
視線のずっと先には、外国の巨大な大型客船が停泊していた。
桟橋を少しずつ進み、客船の近くまで歩いた。とてつもない高さのある船。一体何人の人がこの船で世界を旅しているのだろう。
私たちのように船を見学に来た人々や、この地に降り立つ外国人の方が、桟橋を行き来していた。
「こちらでも外国の客船に負けないような、国産の豪華客船を造る計画があるんですよ。日本から欧州行のね」
「欧州へ?」
英吉利や仏蘭西、独逸。お伽噺のように遠い世界の国へ思いを馳せる。
「あなたも行ってみたいですか?」
「いつかこの目で見てみたいという気持ちはあります。夢のようなお話ですけれど」
「じゃあ、行きましょう」
「……あなたと?」
彼の顔を見上げると、呆れた様な表情をされた。
「俺とですよ。他に誰がいるって言うんです。ツネとでも行きますか?」
「それは、あの……ご遠慮いたします」
「ははっ、ツネが訊いたら怒りそうだ」
「違うの。ツネさんのことは大好きですけど、私がご一緒だとツネさんを疲れさせてしまいそうですし……」
「それでは俺と行きましょう。いいですね?」
笑いながら再び空を見上げた彼は、しばらくそうしてから、遠くの海へと視線を送った。
波の音と潮風と広い海の前に佇んでいると、自分がとても小さな存在に思えた。華族であること、家柄、身分、私の内にある頑なな拘り。それが一体何だというのだろう。全ては取るに足らない、些細なことだったのではないだろうか。そんなふうに思えてしまう。
果ての見えない海の向こうからやってきた、大きな客船。いつか私も、国産の客船に乗って直之様と……?
「今日は、しないのですか?」
「何をでしょう」
「約束の指切りです。いつも、そうおっしゃるから」
私の言葉に一瞬驚いた直之様は、小さく頷きながら右手を差し出した。
「……しましょう。指を出して」
私の差し出した小指を絡めて三度揺さぶる。離そうとした時、彼が言った。
「この手をよく見てください、蓉子さん」
「?」
上にあげられた指切りで繋がる手を、言われた通りに見上げた。別に何もおかしい所はないと思うのだけれど……
その瞬間、かがんだ彼に接吻をされた。額や頬ではない……唇に。素早く顔を離した彼が私に微笑んだ。途端に顔全体が、かっと熱くなり、声が震えた。
「何をなさるのです、こんな場所で、こんな……!」
「順番が逆になってしまいましたが」
慌てる私のことなど構わず、彼が目を細めた。おリボンを買っていただいた時と同じ表情に、再び胸が痛くなる。
「あなたが好きです」
「え……」
「蓉子さん、俺はあなたが好きですよ。信じてはもらえないかもしれませんが」
夏の色に染まる直前の長くなりかけた日は、夕暮れに向けて水平線へ近付き始めていた。
※鉄桟橋は現在の大さん橋。海岸通りは山下公園通りです。