昨日の卒園式も無事終わり、今日は年少、年中の終業式だ。
教室の隅にある水道の前に行く。大きな鏡に映った自分の姿を見た。スーツの胸元には園から配布された花が飾られている。紅白のぺらぺらしたやつな。両頬をぴしゃっと叩いて気合を入れた。やっぱり緊張するなー。入園式の時を思い出しながら屈伸をした。
そういやあの時は、ずいぶんと早い時間にかいとくんが来たんだっけ。デカい声で挨拶が聴こえてさ。
「おっはよーございまっす!」
「え!」
振り向くと、教室の入り口には今まさに思い出していた男の子が立っている。
「あ、ああ、おはようございます! かいとくん」
「おっはよーっす」
「先生、おはようございます」
彼に続いて、かいとくんの両親も入って来た。
「本日はおめでとうございます。あの、入園式も一番でしたよね、そういえば」
「そうなんですよ。もう、早く行くってきかなくて。今日も先生とお友達と遊ぶんだって言って早起きしたんです」
両親の笑顔に、俺も緊張が和らいだ。あれからもう、一年か。
全員が集まったところで、子どもたちが先に講堂へ入る。保護者は年長や補助の先生たちに連れられて、あとから入場した。
椅子へ座った子どもたちの脇に立ち、園長の話を聞きながら皆の顔を眺めた。入園式の時は何にもわかってなくて、保護者と一緒の子もいたし、泣き出す子もいた。今はしっかり壇上へ顔を向けて、おしゃべりもせず、立ち歩きもせず、泣きもせず、園長の話を聞いている。立派になったよ。これなら年中になっても大丈夫だな。
一時間ほどの式を終え、記念写真を撮ったあと、教室へ戻った。まだまだすることはたくさんある。まずは、これ。
「裕介先生から、皆にプレゼントがあります」
子どもたちから、きゃーという歓声が起こった。ひとりずつ名前を呼び、手作りしたクマの折り紙を渡した。大事そうにポケットへ入れる子、いつまでも眺めている子、保護者へ預けに行く子、皆様々で、いつも通りだ。なのに俺一人が、さっきから浮いているような気がする。講堂で子どもたちの成長した姿を見た時から、何か変なんだよ。
どうしたんだ、裕介。別に子どもたちは卒園するわけじゃない。俺だって辞めないし、学年は違うけど四月からも普通に会えるじゃんか。
園からの記念品やプリントなどを子どもへ配り、そのまま保護者へ渡してもらった。事務的なことを全て終わらせ、もう一度子どもたちを集めた。床へ体操座りをした皆の前に、ピアノの椅子を置いた。気付かれないように小さな深呼吸をしてから、その椅子に座る。皆が俺を見上げた。
「今日で、ひよこ組は終わりです」
「はーい」
「みんな、四月からは何組になるのかな?」
「うさぎー」
「うさぎだ、うさぎだ」
嬉しそうに喜んでいる。両手を頭の上に置いてうさぎの真似までしてる。そりゃ、俺も嬉しいさ。病気も事故もなく、転園する子もいない。皆無事に年中へ上がれるんだから、こんなに喜ばしくて幸せなことはない。けど、けどさ、何だよ。
「そうだね、もうすぐうさぎ組だ。みんなはひよこ組、楽しかった?」
「うんー」
何でそんなに、普通なんだよ。
「ゆいこ、今日じーじとおひるごはん食べ行くの」
「ちかちゃんもー」
わかってんのか? また、わかってないんだな? 四月からは一緒にいられないんだぞ? 朝の挨拶も、お団子作りも、みんなでフルーツバスケットも、お絵描きだって、おもらししたって、間違えて全部水をこぼしたって、お当番も、お弁当も、遠足も、何もかももう全部、俺とは一緒にできないんだぞ? 今さっきも言ったけど、ひよこ2組は今日で終わりなんだ。今日で……。
「せ、先生は……」
あれ。
「先生は、この幼稚園に入って、初めて先生になりました」
なんだ? これ。
「みんなと同じで、わからないことが、たくさんあって」
子どもたちはきょとんとした表情で俺の顔を見ている。ひとりひとりの顔をじっくり見つめ返したけど、だんだんぼやけて見えにくくなってしまった。
「先生なのに知らないことも、いっぱいいっぱいあって、皆と一緒に困ったり、泣いたり、先生らしくなくて……ごめん」
皆、大きくなったなぁ。最初は幼くて小さくて、赤ちゃんみたいだったのに。
「でも、すごく楽しかった。裕介先生、先生になって良かったと思う」
鼻をすすって、涙を拭く。
「ひよこ2組のみんなの担任ができて、よ、よかっ……」
駄目だ。止まらない。
「よかった、です。ありがとう……。ありが、とう」
子どもたちの、いつもと変わらない、何もわかってない様子を見てたら、泣けて仕方がなかった。寂しくて悲しくてたまらなくなった。
今、わかったんだよ、俺。
保護者会で泣かなかったのは、まだあの時は実感が湧かなかったからなんだ。子どもたちを前にして、やっと、今日で最後なんだってことが身に染みてわかった。このひよこ2組の担任でいられるのは、今この時で最後なんだってことが。
「せんせー、また泣いてる」
ともくんが立ち上がって俺の傍に来た。釣られて子どもたち全員が俺を囲んだ。椅子を降りて泣きながらしゃがむと、皆が頭や背中を小さな手で撫でてくれた。俺が先生を辞めたいと思った時と同じ、優しい温かさで。
「発表会の時も泣いてたんだよ、ゆーすけせんせい」
「よしよし」
「せんせー、いい子いい子」
「うれしくても、涙がでるんだよね?」
「赤ちゃんみたい」
顔を上げると周りにいたお母さん達も皆泣いていた。反対に子どもたちは楽しそうだ。そのギャップが可笑しくて、俺も途中から泣き笑いに変わった。そして子どもたちをいっぺんに抱き締めた。
皆ありがとう。本当に本当に、ありがとう。
Copyright(c) 2012 nanoha all rights reserved.