「はあ……」
職員室の隣の席で、梨子先生が大きな溜息を吐いた。
いや、梨子先生だけじゃない。皆神妙な顔をして、机の上に置いたノートやプリントをチェックしている。今日は午後から学年最後の保護者会だ。
「なーんか、やだよね。あたし、今からもう既に泣きそうだもん」
梨子先生の溜息を聞いたうさぎ組の茂美先生が、同じように大きく息を吐いて資料に手を伸ばした。
「ですよね。私、去年も号泣しちゃって」
「泣かないって思ってても、お母さん達につられて泣いちゃうんだよねえ」
なんと、あの美利香先生ですら泣くらしい。
「裕介先生、ハンカチ持って行った方がいいよ? 嘘みたいかもしれないけど、多分泣くから」
「わかりました。持っていきます」
俺の顔を覗き込んだ梨子先生の言うことをきき、ミニタオルをジャージのポケットに突っ込んで、席を立った。そういうもんかねえ。まあ梨子先生は絶対泣くだろうな。この前俺の胸で泣いたみたいに。……って、今は余計なこと考えるな!
相変わらず保護者会の雰囲気が苦手だ。何回やっても慣れないんだよなーこれ。輪になりずらりと椅子に座ったお母さん達は、学年最後の保護者会ということで、全員が出席していた。
「本日は、本年度最後の保護者会に出席いただきましてありがとうございます。この一年を振り返り、子どもたちの成長、そして反省点、年中へ上がるまでに覚えておきたいことなどを、お話していきたいと思います。今週末の終業式についてもご説明していきます」
資料を配り、目を通してもらう。
「最後に、皆さんから一言ずつ賜りたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします」
これでいいんだよな? 清香先生と目を合わせて確認する。お母さん達はこれを知っていたのか、うんうんと頷いたり、隣の人と目を合わせて苦笑いしていた。
一通り説明と質問も終わり、いよいよ挨拶をしてもらう時が来た。察した母親たちはバッグの中から一斉にハンカチを取り出している。え、なんなの? 暗黙の了解なの? 泣く気満々てこと?
「それでは、こちらから順にお願いします。武井さん、よろしいですか?」
はいと返事をしたまゆちゃんのお母さんは、立ち上がって皆にお辞儀をした。
「まゆの母です。わ、私はっ……!」
おいおいおい、いきなり涙声かよ。なぜか俺が焦ってしまった。
「娘はひとりっこで、生まれた時から体も弱く、幼稚園へ入れるのも心配でたまりませんでした。正直、裕介先生が新人の先生だと知った時、とてもじゃないけれど任せておけないと思っていました」
全員の前で心の告白ありがとうございます。って、なにこういう雰囲気で進んでくの? 周りのお母さん達は、まゆちゃんのお母さんの言葉に何度も頷いている。
「でも、娘が毎日楽しく幼稚園へ行って、少しずつ、親離れ、して……っ。す、すみません」
まゆちゃんのお母さんはハンカチで涙を拭った。
「さ、寂しかったんですけど、これで良かったんだって、裕介先生にお願いして本当に良かったんだと……。私、先生にひどいことを言ってしまって申し訳ありませんでした」
「いや、そんな……。僕が至らなかったんですから」
と言った途端、つられて泣き出す人が現れた。やべえ、こんな雰囲気慣れてないから、どうしたらいいかわかんねーよ。
再び深々とお辞儀をしたまゆちゃんのお母さんは、次の人へバトンタッチした。
「さちこの母です。娘は気難しくて、頑固なところがあるので、私もあの子が幼稚園でやっていけるのか心配していました。でも入園してからずっと、家に帰ってくると裕介先生の話しをしていて、先生がとても好きだというのがわかりました。それからは安心して通わせることができました。ありがとうございます」
マジで!? しばらくは嫌われてたかと思ってたのに。
「ひかるの母です。うちは本当にやんちゃで、母親の言うこともろくに聞かないんですが、裕介先生に言うよって叱ると途端に大人しくなっていました」
皆からどっと笑い声が起きた。
「先生が運動会のリレーで一位になったことがとてもカッコ良かったらしくて、未だに話しています。来年の運動会でかけっこをもっと頑張るんだそうです。一年間ありがとうございました」
明るい声でひかるくんのお母さんが挨拶を終えた。
「ともあきの母です。息子は三月生まれで、入園した時はまだ言葉もうまく出なくて、先生にも皆さんにもご迷惑をたくさんおかけしたかと思います」
ともくんにそっくりな、小柄なお母さんだ。
「でも、ともあき自身は、先生と話をするのが大好きだったようで、いつも園でのことを家に帰ってから教えてくれました。私は……」
ともくんのお母さんは声を詰まらせ、ハンカチを口元へあてた。
「三月生まれだから仕方のないことなんですけど、つい他のお子さんと比べてしまって、うちの子ばかり成長が遅く感じて、イライラしたこともありました。でも、裕介先生はともあきのそういうところを叱るんじゃなく、優しく話を聞いて下さったようで、本当に感謝しています。私もぴりぴりしないで、育児ができるようになりました」
そう言って、ともあきくんのお母さんは深々と頭を下げた。
しんみりしたムードはこのまま続き、泣いたり笑ったり、俺に感謝してくれたり、お母さん達は自分の気持ちを思い思いに話していった。
全員の挨拶が終わり、清香先生が簡単に挨拶をし、俺の番になった。
「皆さん、ありがとうございました。子どもたちの意外な姿を知ることができて、嬉しかったです」
お母さん達の子どもに対する思いも知ることができた。
「僕が年少の担任になった時、皆さんは僕以上に不安を感じられたんじゃないかと思います。僕も初めての担任で不安でした。でも子どもたちが本当にいい子ばかりで、僕自身が子どもに励まされて教えられてここまで来ることができました。それは保護者の皆さんのご理解があったからだと心から感謝しております。一年間、至らないところばかりでしたが、ありがとうございました」
大きな拍手がお母さん達から起こった。また泣き始めた人もいる。俺は……あれ? おかしいな。
「先生、来年度やめたりしませんよね!?」
「え! っとそれはですね……」
いやこれは言ってはいけないはずだ。清香先生に助けを求める。って、清香先生、目真っ赤じゃないすか! 俺の話で泣いちゃったの? いや、ちょっと驚きだ。
「お母様すみません。終了式まではお教えすることが出来ないんですよ。でも裕介先生は入ったばかりですし……ね?」
清香先生の目配せに、お母さん達がホッとした表情へと変わった。安心しました、とまで言われ、俺も嬉しくなって笑顔で頷いた。
でも、結局俺は泣かなかった。何でだろう。お母さん達から聞いた、知らなかった子どもたちの姿に感動したのは本当だ。だけど、なぜか涙は出なかった。俺って意外と冷めてんのかな? 何だか拍子抜けした感じだ。
家で子どもたちに最後のプレゼントとして渡す予定の折り紙を作りながら、この一年を振り返った。
子どもたちにはいろんなことを教えてもらった。俺が教えたのなんて、ほんの僅かなことにすぎない。親父に言われた意味がやっとわかった。教師は子どもに教えられて、そこで初めて一歩を踏み出すんだ。一年やってみて、ようやく気付くことができた。
三日、三か月、三年、か。三年後の自分を想像した時、折り紙の最後の一個を作り終えた。
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