職員室の中は緊張に包まれ、静まり返っている。一年前のあの時と同じだ。給湯室から繋がれているガスストーブのコーという音だけが響いていた。
「それでは年少クラスから順に発表していく。年少学年主任、ひよこ1組担任」
頼む……!
「戸田美利香先生」
「え、ええーーーーっ!?」
「静かに」
園長が全員を制した。そりゃ叫ぶわ! あの美利香先生が年少だって!? じゃあ梨子先生は年中? いやちょっと待て。1組が美利香先生ということは、2組が梨子先生という可能性もまだ十分あり得る。
か、神様……!!
「ひよこ2組、佐々木孝俊先生」
え。
「えーーーーっ!!」
今度は佐々木が一人で叫んだ。うわははは、ざまあああああ!! 美利香先生と二人で年少かよ! 二年間一緒とかマジ腹痛えええええ!! 笑っちゃ駄目だ、笑っちゃ駄目だ、笑っちゃ駄目だ。吹き出しそうになるのを必死で堪える。
あ、ということは……。
「年中学年主任、うさぎ1組担任、斉藤梨子先生」
「……はい!」
や、やったああああ! 梨子先生がうさぎ組。子どもたちと一緒に年中へ上がれる! なんか、自分のことのように嬉しい!
「うさぎ2組、赤羽将也先生」
「はい」
おお、彼は年中になったのか。
「うさぎ3組、太田麻鈴先生」
「あ、はい」
太田が年中に残った。てっきり年長にそのまま上がるかと思ってたのに。え? ということは俺は……。
「年長学年主任、全学年主任、くま1組担任、足立睦美先生」
「はい」
「くま2組、安達美宏先生」
「はい」
「くま3組、水上裕介先生」
「あ、は、はい!」
俺が年長担任……。夢みたいだ。でも、子どもたちとは離れてしまった。梨子先生とも。何だろ、年長担任をあんなにも望んでたというのに、複雑な気持ちだ。
「年長の先生は、『あだち』先生が二人いますので、間違えないように。下の名前で呼んでいるから大丈夫だろうが、子どもたちが混乱しないように注意して下さい」
「はい」
「年少組の補助は今まで通り、清香先生と浅子先生に入ってもらう。浅子先生が1組、清香先生は2組」
やべえ、年少最強じゃん。佐々木の補助が清香先生か。駄目だ、また笑いが込み上げてきた。
園長が咳払いをひとつし、俺と梨子先生がいるこちらへ向き直った。……何だ?
「今年度から初めて年少に男性の職員を取り入れた。最初は裕介先生に風当たりも強かっただろうが、今は年少の男性職員を受け容れる声が保護者からも上がっている。二人ともよくやってくれたと思う。特に梨子先生」
「はい」
「年少に残り、指導に当たってくれたこと、感謝しています」
園長が頭を下げた。皆、うんうんと梨子先生を見て嬉しそうに頷いている。園長はまた元の位置へと体の向きを戻した。
「来年度もさらに力を入れるべく、美利香先生と孝俊先生に入ってもらうことにした。年少組へ力を入れるということは、入園児が一層増える努力を怠ってはいけないということでもある」
美利香先生が園長に向かって何度も頷いていた。自分が年少に行くこと、もしかしてわかってたんだろうか?
「それには年少に限らず、年中、年長もそれぞれの学年の役割を忘れず、先生たちは今以上に力を合わせて頑張ってほしい。新人二人の先生は先輩の言うことをよく聞いて、何でも吸収していくように。それではこれで、担任発表並びに終礼は終わり! お疲れ様でした!」
「お疲れ様でした!!」
全員でお辞儀をして、それぞれの席へ着いた。皆ざわざわと興奮気味に来年度のクラスについて話している。なかなか座らない梨子先生に声を掛けようとした途端、彼女は走って職員室から出て行ってしまった。
俺も慌てて職員室を出る。梨子先生は多分自分の教室へ行ったはずだ。俺は男子更衣室へ飛び込み、自分のロッカーからアレを取り出し、ジャージのズボンのポケットへ突っ込んだ。誰もいない廊下を走り、ひよこ1組へ向かう。
ドアの上のガラスから中を覗くと、梨子先生がピアノの横でしゃがんでいるのが見えた。背中をこちらに向けている。トントンと叩き、名前を呼んだ。
「梨子先生、入りますね」
梨子先生は、丸くなって自分の膝に顔を押し付け、泣いていた。俺も彼女の隣でしゃがむ。ぐすぐすと鼻をすする彼女の背中に手のひらを置いた。
「良かったですね」
そっと背中を撫でる。
「園長先生も言ってたけど、梨子先生頑張ったから」
まだ泣き止まない。
「あの子たちも、きっとすごく喜ぶと思います」
「ゆ、ひっく」
「ん?」
「裕介先生……!!」
「わ」
彼女が抱きついて来たから、尻餅をついてしまった。
梨子先生は俺の胸でわんわんと泣いた。ずっと、思い詰めてたもんな。最近は忙しかったし、俺にそんな素振りも見せてなかったけど。……見せないようにしてたのか。
そうだ、俺は梨子先生のこういうところが好きなんだよ。じっと我慢して、何でもないって顔して、心配させないようにしてさ。
急に愛しい気持ちが湧き上がり、そっと彼女を抱き締めて頭を撫でた。ほんと、よく頑張ったよ。足手まといになる一年目の俺を助けて、自分だってまだ二年目なのにさ。年少の学年主任なんてやって。いつもいつも俺のこと応援してくれて。
「……苦しい」
「あ、すみません」
いつの間にか力が入ってたみたいだ。手を離すと、彼女も体を離して顔を上げ涙を拭いた。
「裕介先生、本当にありがとう。本当に」
「や、俺は何にもしてないですよ」
「ううん。裕介先生のお陰だよ。私……」
また彼女の瞳から涙が零れ落ちた。今なら、渡せるかな。無理に泣き止んでもらう必要はないけど、でも少しでも笑って欲しいから。
「あの、おめでとうございます」
ポケットをまさぐり、それを掴んで彼女の前へと差し出した。
「え?」
「えっと、年中担任おめでとうございます。あと、一年間ありがとうございました。俺、梨子先生に本当にお世話になったから、その、プレゼントなんです」
クリスマスに渡し損ねたアレね。梨子先生は驚いた顔をして、俺の手元を見つめていた。
「たいしたものじゃないんですけど、クリスマス梨子先生にもらったし、お返しっていうか」
もう一度差し出すと、彼女はそっと両手で受け取ってくれた。
「ありがとう。素敵なラッピング。可愛い」
「ピアスなんです。梨子先生、小さいのいつもしてるから」
「嬉しい。……ごめんね、気を遣わせて」
少しだけ笑ってくれた目の前の彼女に頭を下げる。
「梨子先生、あの子たちのこと、よろしくお願いします」
梨子先生になら、子どもたちを安心して任せられる。俺がそこにいなくても。寂しいけどさ。
「うん、大丈夫だよ。あと、おめでとう裕介先生も」
「え?」
「年長児、本当はずっとやりたかったでしょ?」
今度は俺が驚いた。そんなこと、一度も話したことはないのに。
「……どうして」
「何となく、そう思ってた。裕介先生無理してるんじゃないかなって。去年、私に挨拶しに来てくれた時から」
「最初はそうでしたけど、今は全然そんなことありません。俺、年少担任で本当に良かったと思ってます。それに梨子先生がいたから、ここまでやってこれたんです」
入園式で頭が真っ白になった時も、何もかもうまくいかなくて辞めたいと思った時も、子どもに怪我をさせてしまった時も、梨子先生がいてくれたから立ち直ることができたんだ。
「私、年中に上がれたこと本当に嬉しい。でも、裕介先生と一緒に上がりたかった」
ぽつんと呟いた彼女が俺の顔を見た。また瞳が潤み始めている。
「裕介先生と、一緒にまた」
「梨子先生……」
裕介、言っちゃえよ。好きだって。梨子先生が大好きだって。今言わないで、いつ言うんだ。今がその時だろ!!
「梨子先生、俺。梨子先生のこ」
『梨子先生お電話です。梨子先生、ひよこ1組の保護者からお電話です』
何この園内放送、絶妙タイミングううう! 保護者誰ええええ!?
「あ、電話」
彼女は振り向き、クラスの端に設置された保留が光っている電話を見た。
「裕介先生、本当にありがとう。何度も言っちゃうけど」
「いえ、こちらこそ、ありがとうございました」
「あと二週間、頑張ろうね」
「はい。よろしくお願いします」
立ち上がって電話へ向かう梨子先生を背に、俺も教室から出た。
あと二週間……。春休みになれば、すぐに来年度の仕事が始まってしまう。それまでには、何とか思いを伝えられないだろうか。
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