先生やって何がわるい!

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(21) ただの後輩




 くま2組を覗くと、誰もいない教室の隅っこでモップを持ったまま、下を向いて動かない佐々木がいた。

「何落ち込んでんだよ」
 俺の声に振り向いてチラ見した佐々木は、返事もせずにまた顔をそむけた。
「お前さ、余計なものまで見るからそういうことになるんだよ」
「……さんざん馬鹿にされてた」
 聞こえないっつーの。入口の引き戸を閉め、佐々木から少し離れた子どもの椅子へ座る。
 今まで部屋の中をよく見たことなかったけど、壁面は年長児クラスらしく工夫してあって面白い。ああ、お当番表もあるのか。そういや、年少っていつからやるんだろ。
「でもそれ別に、名前書かれてたわけじゃないんだろ? ここの園だって証拠もないんだろうし」
 ようやく顔を上げた佐々木は、俺の方をぎっと睨んで言った。
「そんなもん読んでりゃわかるんだよ。俺が頭に来てるのは保育のことだけじゃなくて、俺個人のことまで書かれてたってことだよ、あることないこと!」
「どんな?」
 大きなため息を吐いた佐々木は、ぼそぼそと告白し始めた。それにしても変なTシャツ着てるな。何語が書いてあんだよ、それ。
「……絶対モテないだとか、私服は全身スーパーでやっすいの買ってるとか、きっと若いお母さん狙ってるだとか……ふざけんなっつーの!」
「ぶはははははっ! お前そんなん思われてんの!? 腹痛いわ、マジで!」
「お前だって書かれてたんだからな。馬鹿にすんなよ」
「え、なんて?」
「あの顔は絶対遊んでるってよ。水上らしいのが、いろんな場所で違う女連れてたってさ」
「お、俺が!?」
 こんなにも真面目なこの俺が!? 半年も彼女のいないこの俺が! そんな目に一度は遭ってみたいと妄想だけはしているこの俺が!? しばらく沈黙したあと、小さな声で佐々木が言った。
「……俺、ちゃんと彼女いるのに」
「え! いんの?」
「何だよ、水上まで。大学ん時からずっと付き合ってんだよ、悪いかよ」
「ふーん」
 唐突だけど、聞いてみたくなった。俺と同じことを経験したわけじゃないのか?
「お前、反対されなかった? 彼女に」
「何を?」
「幼稚園の先生になること」
「? されるわけないだろ」
「そうなんだ。……いい子じゃん」
 ここで初めて、佐々木に負けた気がした。結衣と比べるのもなんだけど、正直羨ましい。佐々木、そういう子は少ないんだ。大事にしろよ、本当に。と、やっぱり悔しいから心の中だけで呟く。
「まあ、とにかく気にすんなよ。どうせ一部の奴らなんだろ? 美利香先生のイライラがこっちに飛んでくんのも勘弁だからさ。俺んとこまでわざわざ来させんなよ」
「いいよな、年少は梨子先生で。優しいし、可愛いし、子どもからも人気あるし。美利香先生なんて鬼だよ、鬼」
 まーな。その点だけは、三歳児で良かったって心から思える。
「あれじゃ彼氏がいても仕方ないよなー」
「え?」
 あまりにもさらっと言うから、聞き間違えたのかと思ったんだ、俺。今までそんなこと、思いつきもしなかったから。
「梨子先生だよ」
「え、いんの? 彼氏」
「いるって言ってたけど、美利香先生が」
「……」
「何だよ?」
「別に。へー、ああそうなんだー、ふーん」
 軽くショックだ。いや、かなりショックかもしれない。
「俺、掃除まだったわ。じゃーな」
 急に佐々木のことはどうでもよくなって、くま2組の教室を出た。空はいつの間にか黒い雲が現れて、雷でも鳴りそうな雰囲気だ。
 当たり前なんだよ、当たり前。今佐々木が言ってたじゃん。可愛くて優しいいんだから彼氏がいるのなんて当たり前なんだよ。だからどうってことない。俺は梨子先生の後輩なんだし。そう、ただの先輩と後輩なんだから関係ない話なんだ。


 職員用の下駄箱で、運の悪いことに、帰り支度を終えた梨子先生と一緒になった。
「裕介先生は自転車だっけ?」
「そうなんですけど、今日は駅の方に用事があるんで、そっちから帰ります」
「じゃあ、途中まで一緒に帰ろ?」
「……はい」
 何となく複雑だけど断る理由もない。園を出て、自転車を引っ張る俺の横を梨子先生が並んで歩いている。まだ雨は降っていない。蒸し暑さが肌に纏わりついて不快だ。
「もうすぐ夏休みだね」
「はい。梨子先生は、どっか行かれます?」
「うん。先生たちと旅行!」
「え、皆で?」
「うーんとね、全員じゃないけど、主任以外の女子。男子チームはないの?」
「いや、何も聞いてませんけど」
「毎年園長先生が男の先生たち連れてどっか行くみたいだよ。今年はないのかな?」
 マジでか! ……ああ、そうか。俺が入ったから今年はないのか。どこでバレるかわかんないもんな。親父のその処置は懸命だよ。
 住宅街の中をしばらく歩いていると、俺の携帯が鳴った。
「いいよ、出ても」
「すみません」
 大学で仲良かった奴からのメールだ。前から先生たちと合コンさせろと、しつこく言われている。


『誘ってくれた? 先生たち』
『そっちは可愛い子用意してくれんの?』
『OLでマジかわ。でもさ、お前は先生が相手じゃなくていいわけ? 普段から選び放題じゃん』
『先生は絶対やだ。お前ら実態知らねーからそういうこと言えんだよ』
『そうか? 優しそうだし、仕事も楽そうだから早く帰れるんだろ?』
『はあああ? めちゃくちゃ忙しいし! 先生なめんな!』
『何だよ急に』
『うるせー! お気楽サラリーマンめが!』
『お前がうるせんだよ、死ね!』
『あ? うぜーよ、お前が死ね!』
『教育者がそういうことを言っていいのか! 訴えんぞ!』
『子どもの前で言うわけねーだろ! ボケ! 消えろカスが!!』


「どうしたの裕介先生、大丈夫?」
 俺の顔を覗き込んだ梨子先生が心配そうに言った。
「え? はい。ははは、こいつ、しつこいんですよ、ほんと。すみません」
 やべーやべー、多分今すごい表情してたな、俺。携帯をポケットへしまい、片手で押してた自転車を両手に変えて歩く。梨子先生には関係ないだろうけど、一応聞いてみるか。
「あの、先生たちって合コンとかします?」
「合コン?」
「俺の友達が幼稚園の先生たちと合コンしてみたいって言ってて」
 梨子先生は細かい水玉模様の傘を持っていた。色は綺麗な空色だ。
「そいつら、普通に社会人とか院生なんですけど、幼稚園の先生って人気あるんですよ。向こうも女の子連れてくるみたいなんで、男ばっかりじゃないんですけど」
「裕介先生も行くの?」
「まあ、一応」
「じゃあ私も行くよ」
 即答した梨子先生を振り返った。今、なんてった?
「いや、だって梨子先生は」
 彼氏いるんだろ? 無理して合わせてくれてんのか?
「美利香先生とか、絶対行きたがるだろうから誘ってみるね。あ、あと睦美先生も」
「あの、梨子先生……いいんですか?」
「いいよ。楽しそうだし」
 ……彼氏にバレても俺は知らないからな。意外だ。梨子先生がそういう人だったとは。
「向こうが今忙しい時期らしいんで、多分9月になってからの金曜の夜になると思うんですけど、決まったら教えます」
「うん。私も他の先生とか誘ってみるね」
「あ、じゃあ俺ここで」
「うん。お疲れ様ー」

 駅の改札へ入っていく梨子先生の背中を見送る。
 気が抜けたような、何だか変な気持ちだった。さっきメールしたように、俺は先生同士で恋愛なんて有り得ないと思ってる。仕事に就く前に親父にも宣言した通りだ。

 角を曲がって自転車を止め、百均の店に入る。足りない日用品を見に来たのに、何を買いたかったのか……まるで思い出せなかった。





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