ぎんいろ 安弘編

5 ふたり




 また7時半を過ぎてしまった。

 外灯の下にあるピンク色のペンキで塗られた鉄の門に手を掛け、急いで開けて中に入った。広い玄関で靴を脱ぎ、階段を上がって教室へ向かう。
「まひるちゃーん、パパおむかえに来たよ〜」
 黄色いエプロンを着けた保育士さんが、俺に気付いてお辞儀をしたあと、まひるが寝ている布団へ声を掛けた。他の子はいない。今日もクラスで最後のお迎えか。
「すみません、遅れて」
「大丈夫ですよ。それよりも、また泣き疲れて眠ってしまったみたいで。昼間は元気でご機嫌なんですが……。なかなか上手くいかなくて、こちらこそすみません」
 申し訳なさそうに担任の先生が再び頭を下げた。
「いや、いいんです」
 腕の中にいるまひるの柔らかい頬には、確かに涙の跡がうっすらと残っていた。
「まひる、帰ろう」
 鞄から抱っこひもを取り出し、眠ったままのまひるを乗せた。担任の保育士さんから今日一日の様子をメモしてくれたノートを受け取り、保育園をあとにする。

 夜道は昼に比べてずっと風が冷たい。まひるに風がなるべく当たらないように、彼女が着ているダウンのフードを深めに被らせた。
 十か月のまひるは他の子に比べて小さい。食も細く、体重もなかなか増えなかった。

 マンションへ帰りつき、すぐに部屋を暖め、敷きっぱなしの小さな布団へ、そっとまひるを下ろした。途端に目を覚ましたまひるが、再び抱っこをせがむ。同時に後ろで電話が鳴った。むずがるまひるを片手で抱っこし、受話器を取る。
「もしもし」
『安弘? あんた何回電話しても出ないから、心配するじゃないの』
「今保育園から帰って来たんだよ」
『大丈夫なの? まひるちゃんは?』
「大丈夫だよ。だいぶ落ち着いたし、何とかやってる。大変になったらまた頼むから」
『日曜日、お母さん行こうか?』
「いや、いいよ。月末の土日に朋美のお母さんに来てもらったから」
『あんた一人で無理しちゃ駄目よ? 毎日のことなんだし、疲れも溜まってくる頃なんだから』
「わかってるよ」
 本音を言えば母の言う通り、とても疲れていた。心も体も頭も全部。でも、それでいい。
『夕方は、まひるちゃんどうしてる? 相変わらずなの?』
 お義母さんにも、俺の母親にも、ここ数か月は随分お世話になった。二人ともまだ現役で働いているし、家を空けさせることは親父にもお義父さんにも申し訳ない。いずれは俺一人でどうにかしなきゃいけないことなんだから、いつまでも頼らずに、なるべく早く慣れてしまった方がいい。
 でも何よりも、今はただ、まひる以外の人間と一緒に家で過ごすことを、とても面倒に感じていた。何も話したくはない。言葉には、したくなかった。


 土曜の朝も何もあったもんじゃない。
 顔をぺちぺちと叩かれて目を覚ました。朝方も同じように起こされた気がする。目覚まし時計に手を伸ばして眠い目を擦った。
「おいおいまひる、二時間しか経ってないぞ……。お父さん眠いよ。休みなんだから寝せてくれよ〜……」
 お座りをして、容赦なく俺の顔を叩き続けるまひるに根負けした。起き上がって彼女を抱っこひもに乗せ、仕方なくそのまま洗濯を始める。まひるは手足をぶんぶんさせてご機嫌だ。
「寒いけど、抱っこしてるとあったかいな」
 俺を見上げたまひるがにっこり笑った。天使の微笑みに、こっちも自然と顔が綻んでしまう。その瞬間、胸がキリキリと痛んだ。見たことのある、少し泣いているような、困ったような笑顔。
 その感情を無理やりどこかへ押しやって、何もない振りをしてキッチンへ行き、シンク上の扉を開けた。小さな箱に入っている色とりどりの離乳食へ手を掛ける。同じ場所に瓶詰のもある。
「まひる、今日は何が食べたい?」
 多分。
「そうかそうか、トマト味がいいか」
 考えないようにすればいい。
 泣きそうな笑顔も、優しい声も、甘い匂いも。
 時間が足りないせいか、恐ろしいくらいに次から次へとやってくる仕事の中に紛れ込ませて、日々を過ごしていけばいい。
 早く帰ることに最初は同情してくれていた同僚の、今はやっかいな奴だという視線を受け止めることにも慣れてきた。
 やらなければいけないことを、淡々とこなしていけばいい。
 疲れれば疲れるほどいい。
 疲れ果てても眠れなくていい。
 眠ってしまっても夢を見さえしなければいい。
 目の前にあることに集中すれば、そうすれば……。


 これ何? って朋美が聞いたんだ。
 だから答えたはずなんだけど、それが何だったのかを思い出せない。


 鳴き声がうるさいな。泣き声か? 何だか肌寒い。
「あ……いけね。って、もう夕方?」
 日が傾きかけた窓の外ではカラスが鳴いていた。こっちじゃ、横でまひるが泣いている。何かの夢を見た気がする。
 昼飯を食べた後、布団に寝ていたまひるの隣で、俺もいつの間にか一緒に眠っていた。
「腹減ったか? おむつか? 寒いのかな?」
 お尻拭きを手にして、ビニールパックの中からおむつを取り出した。下を脱がせて替えようとしても、嫌がるまひるが暴れてなかなか上手くできない。
「ちょっと待ってろな。すぐできっから」
 替え終わって、まだひくひくと泣いているまひるを布団へ横たわらせ、その間に粉ミルクを哺乳瓶へ入れ、調乳ポットを持ち上げてお湯を注いだ。そろそろフォローアップってのに切り替えた方がいいとか、保育士さんに言われたっけな。
「できたぞー」
 後追いしてきたまひるを抱き上げて哺乳瓶を向けた途端、小さな手で思いきり払いのけられた。ごとん、と床に落ちた哺乳瓶が転がっていく。白い液体が茶色の床板に数滴はみ出した。
「あーあーあー……。零れちゃったじゃんか」
 拾い上げるのも虚しく感じて、まひるを抱きかかえながら、哺乳瓶から目を逸らした。
 まひるは大きな声で泣き続けた。顔を真っ赤にし、体を逸らし、口を大きく開け、両手を握りしめて、嫌なんだと、違うんだと、そうじゃないんだと、全身で訴えている。小さな体の、どこにこんな力があるんだろう。
「……散歩でも行くか?」

 夕暮れになると、まひるは泣く。
 何度か病院で調べてもらっても、どこにも異常は見つからなかった。
 朋美が逝ってしまってから数ヶ月、保育園でも家でも毎日のように、まひるは同じ時間を泣き続けていた。




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