ぎんいろ まひる編

15 きせき




 十一月の最終土曜日。
 夕暮れを過ぎた頃、仕事を早めに切り上げてきたお父さんは帰ってくるなり、自分の部屋とリビングを何度も往復していた。歩きながら、ぶつぶつと何かを言っているのが私の部屋まで聞こえる。

 私は部屋を出て、ウォーキングクローゼットに入ったお父さんを追いかけた。
「あー俺、芳子おばさんに連絡入れといたっけかな? もう一回メールしとくか。いや、電話のが早いかな」
 開けっ放しのドアから私も入る。お父さんはスーツが並んでいるポールの前で、落ち着きなく、うろうろしていた。
「いかん! 俺のモーニングってどうしたんだっけ? ネクタイがないんだけど!」
「もー、お父さんうるさい」
「ああ、まひる、すまん。お前、あれか? お前は忘れもんないのか?」
「ないよ。お父さんのモーニングは私のドレスと一緒にレンタルしたんだから、明日式場に行けばあるの。靴もネクタイも一式全部借りたんだから大丈夫でしょ」
「あーそうだった、そうだった。焦ったわ。じゃあ俺は普通の服で行けばいいんだよな?」
「そうだけど、早めに出るよ? 私は向こうで支度があるから」
 ポールの前に散らかった、お父さんが引っ張り出した洋服や鞄を一緒に片付ける。
 お父さんは廊下に出た途端、今度は大きな溜息を吐いた。
「引き出物、あれで良かったかなあ? あー胃が痛いわ、俺」
「何でお父さんが悩むのよ。私たちが決めたんだから、あれでいいの。蒼太のご両親だって賛成してたでしょ」
「料理は、もうひとランク上が良かったんじゃないか?」
「最高額なんて無理でしょ。お金なくなっちゃうよ。それより最後の挨拶考えてくれた?」
「か、考えました。あとでもう一回部屋で練習する」
 大学を卒業して二年。蒼太は約束通り、私に改めてプロポーズをしてくれた。彼の両親は何の反対をするでもなく、むしろ喜んでこの話を受け容れてくれた。
 明日の結婚式を控えて、お父さんと話しておきたいことがある。
「ねえお父さん、散歩行かない?」
「散歩?」
「土手まで」
 私の言葉にお父さんは黙って、そして微笑んだ。
「そうだな。行くか」


 蒼太と一緒に伝説の葉を探し続けた、あの時と同じ夕暮れの中を、今お父さんと二人で歩いている。土手の上から見る川は、夕焼けと群青色を吸い込んで夜の色合いを作り出しながら静かに流れていた。
 大きな銀杏の樹の傍で立ち止まると、お父さんも私の隣で足を止めた。一気に言ってしまおう。恥ずかしいから、遠くを見つめたままで。
「お父さん」
「ん?」
「ありがとね。今まで」
「何だよ、急に」
 お母さんにも聞いて欲しい。お父さんのこと。私のこと。
「ずっと大変だったでしょ? ずいぶん前だけど、蒼太に言われたことがあるの。お前のお父さんは偉いなって」
「別に……当たり前のことしてきただけだよ。大変だなんて思う暇もなかったな」
 ズボンのポケットに手を入れたお父さんは、銀杏の樹を仰いだ。一枚、二枚と黄色い葉が落ちてくる。
「私、お父さんの荷物になってないかなーって、ずっと思ってた。再婚もしないし、さ」
 泣くつもりはなかったのに、お父さんと二人で過ごした思い出が胸に溢れて、涙が浮かんでしまった。私、たくさんたくさん、お父さんを困らせてきた。
 三つ編みが綺麗になってなくて登園前に泣いた。
 クッキーを作りたいと言って自転車の後ろで駄々をこねた。
 お父さんが私に買ってきた洋服が気に入らなくて、一日口を利かなかった。
 蒼太と二人で迷子になった時、交番に飛び込んできたお父さんの顔。林間学校に行く直前、忘れたお弁当を届けてくれたお父さんの額の汗。いつも私のために会社を抜け出して学校に来てくれた。
 どんなに反抗しても、可愛くないことを言っても、勝手なことをしても、お父さんは笑って許してくれた。
「馬鹿だな、まひるは。荷物があるから目的地まで行けるんだ。それが重ければ重いほど、嬉しくて有難い荷物なんじゃないか」
 涙を拭く私の頭を、お父さんが優しく撫でてくれた。
「……お父さん」
「ん?」
「寂しい?」
「寂しいさ、そりゃ」
 風が吹いた。
「寂しいけど……幸せだよ」
 寒いはずなのに、温かな風。いい匂いがする。どこか懐かしくて、切ない気持ちが私を包んだ。
「お父さん。私、高校の時……ここでお母さんに会ったよ」
「朋美に?」
「うん」
「そうか」
 ひらひらと、私たちの前に一枚の葉が舞い降りた。
「お父さんは声を聴いたな。お前が赤ん坊の頃、ここで」
 足元に落ちた銀杏の葉を拾って、お父さんに見せた。
「伝説、知ってたの?」
「ああ」
 それは、いつもと変わらない色。
「ね、普通だったよね? これ」
「ああ、普通に黄色いのな」
 二人で目を合わせて笑った。

 奇跡は、ない。
 でも奇跡は、ここにある。
 優しい伝説を胸に、吹いてくるどこか温かい風を纏いながら、私たちは家路を歩き始めた。










〜了〜


長い間お付き合い下さいましてありがとうございました! またいつの日か、番外編など書けたらと思っております。
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葉嶋ナノハ



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