代官山駅のおとなり、中目黒の駅で降りると、そこは大勢の人でごった返していた。
「晃ちゃん、すごい人だね」
「蒼恋、はぐれるなよ?」
「うん」
私の手をしっかりと握った晃ちゃんが、人ごみを進んでいく。
桜が盛りを迎えた三月の最終日。私は旦那様の晃ちゃんと目黒川のお花見に来た。
ライトアップされているということで夕方過ぎにきたのだけれど、平日でもこれだけ人がいることに驚いた。
しばらく進んでいくと淡いピンク色の提灯が見える。それが近づくころ、ぼんやりと照らされた桜の木々が現れた。
「わぁ、綺麗!」
「ああ、すごいな」
目黒川沿いの桜並木は満開を迎えていた。露天が並ぶ川沿いは、客でごった返している。
「このへんが一番混んでるんじゃないか? もっと進んでみよう」
「うん」
池尻大橋方面へ向かう。桜は狭い川幅を覆うようにどこまでも続いていた。時折、花びらがひらりと舞い、客の肩先や頭に乗ってはまたどこかへ飛んでいった。
おいしそうな匂いがしてくる。夕飯前のお腹がぐうと鳴ってしまった。
サンドイッチや焼きそばパン、イカ焼きにソーセージ、三色団子やアイスクリームのスイーツも売っている。親子連れにはクレープが人気のようだ。
「何か食べたいんじゃないのか、蒼恋」
「えっ」
「そんな顔してるぞ?」
晃ちゃんが顔をのぞき込んでくる。おいしそうな香りに我慢ができず、きょろきょろしていたことは否定はできない。
「うん、お腹空いたけど、喉も渇いちゃった」
えへへと笑うと、晃ちゃんも笑った。花より団子、って思われちゃったかな。
「俺も喉が渇いたな。何か買おう」
「私は、あれ」
「ん?」
私は人が並んでいる露店を指さした。さっきからちょっと気になっていたお店なんだ。
「私、あの苺のシャンパンが飲んでみたいな」
「じゃあ俺はビールにしよう」
アルコールを買った私たちは、比較的人の少ない場所に立ち止まって乾杯をした。川沿いの柵の前だ。
「これおいしい〜! 晃ちゃん、飲む?」
舌の上でしゅわしゅわと弾けるシャンパンは、ふんわりと甘い桜風味。ピンク色のシャンパンに苺が丸ごと入っている。
「ああ、飲みたいな」
私からシャンパンを受け取った晃ちゃんは、ひと口飲んで驚いた顔をする。
「ん? 本格的だな、うまい」
「でしょ?」
うなずいた晃ちゃんがビールをくれた。こちらは見たことのない地ビールだ。コクがあり、飲みやすい。
「蒼恋は何が食べたい? 買ってくるよ」
「えっとね、桜餅が食べたいな。あと、玉こんにゃくとソーセージも」
いいよ、と晃ちゃんが笑う。
その笑顔に胸がきゅんとしたから……もう少しだけ、彼のとなりで桜を見たくなった。
「ここで、もうっちょっとお花見してからでもいい?」
「ああ、もちろん」
欄干のそばで振り向くと、川の上にアーチ状に覆いかぶさった桜の木から、ちらちらと花びらが舞落ちていた。
「花びらがあんなに浮かんでる……!」
舞落ちたたくさんの花びらが川面に浮かび、花筏を作っている。川沿いの提灯に照らされて、淡く光っているように見えた。幻想的な光景だ。
「都会にいる気がしないな」
「うん」
柵に寄りかかって川を見つめる晃ちゃんの横顔に視線をやった。
露店の明かりが彼の瞳に反射している。グレーのパンツに紺色のスプリングコートを羽織る彼の、季節の変わり目の装いが私の胸をときめかせた。何でもないことなのに、晃ちゃんの服装や髪形にに少しでも変化があると、いつもドキドキしてしまう。
結婚してから、あと数か月で一年が経つ。でもまだ、晃ちゃんの奥さんになったことが信じられないときがある。
小さな頃から憧れていた晃ちゃん。カッコよくて優しくて大人の男の人。こんなに素敵な人が私の旦那様……
「ん?」
「う、ううん、何でも」
振り向かれて、どきんとする。
俯いた私は、ベージュのトレンチコートからのぞいているワンピースの裾を見つめた。
晃ちゃんも私のこと……素敵な奥さんだって思ってくれていたらいいな。晃ちゃんの隣にいると、とても幸せ。でもたまに心の中にちくりと自信のなさが現れてしまう。
「どうした、蒼恋」
優しい声に心配の色をのせた晃ちゃんが尋ねてくる。
「ううん。去年の今ごろは私、どうしてたんだろうって思い出してただけ」
私は首を横に振り、彼の顔を見上げた。
「去年の今ごろ、か。俺はあともう少しで東京に帰れる頃だった。なんだか、ずいぶん前のことに感じるよ」
「大変そうだったよね」
懐かしそうに語る彼に相づちを打つ。
「蒼恋は大学を卒業して……俺との結婚準備をしてくれていたんだよな」
名古屋に転勤していた晃ちゃんは、貴重な休みを使って結婚準備のために東京にきていた。でも途中から仕事がとても忙しくなり、家の中のこまごましたことは全部私がひとりで準備したんだ。
「あのころの私、まだ不安だったなぁ……」
「不安って、俺との結婚が?」
「……だって晃ちゃん、何もしてくれなかったんだもん」
結婚直前だというのに晃ちゃんはキスすらしてくれない。そのことを友人たちに相談した。
でもそれは私を大切に思ってくれていたからこその、晃ちゃんの行動だった。そのことを知ったのは新婚旅行先で、晃ちゃんに愛の告白された時。
「そういえば新婚旅行の朝に、蒼恋がすごい怒ってたよな。『旅行しない』って。布団かぶって、カタツムリみたいになってさ」
「そ、それはもう忘れて晃ちゃん。……恥ずかしい」
クスクスと笑う晃ちゃんの腕をつかむ。彼は表情に笑みを残しながら、顔を近づけてきた。
「何もしないって、俺に何をしてほしかったの?」
「な、何をって」
「もういいだろ? 時効だ」
こういう時の晃ちゃんは実に楽しそうだ。私が困るような質問を浴びせては、からかって喜ぶんだから。
「キ、キスとか」
「それだけじゃないよな。あとは?」
「こっ、こんなところで言えないよ……!」
「ははっ、可愛いなぁ、蒼恋は」
笑う晃ちゃんと、また桜を見上げた。いくら見ても見飽きないくらいに、その姿は美しい。
「綺麗すぎて、ため息が出ちゃうね」
「蒼恋は花より団子じゃないのか?」
「もう。晃ちゃんだってそうでしょ?」
晃ちゃんの腕にげんこつをあてる。大げさに痛いと笑った彼は、次の瞬間、真面目な顔をした。
「俺は、花を愛でるほうが好きだな」
「そ、そうなの」
意外な晃ちゃんの言葉に驚く。私だってお団子は大好きだけど、この妖艶な色をまとっている桜のほうが、もっと好きなんだから。……もっとじゃなくて同じくらい、かな。
そう言おうとして口をひらくと、晃ちゃんの手が伸びてきた。彼は目を細めて私を見つめている。
「……じっとして」
額に触れられて、思わず目を閉じた。心臓が大きな音を立て始める。
「いいよ」
まぶたを上げると、花びらを手にした晃ちゃんが微笑んでいた。
「蒼恋の前髪にくっついてたよ」
「あ、ありがと」
ひとりでドキドキしてバカみたいだ。
私が前髪をいじっている横で、晃ちゃんはその花びらを川へ落とす。小さな花びらはちらちらと舞い、どこかへ見えなくなってしまった。
「花って言っても……桜じゃなくて、俺の花のほうだけどね」
「え……?」
つぶやいた晃ちゃんに肩を強く抱かれる。
「桜よりも綺麗な花だよ、蒼恋は」
晃ちゃんの甘く低い声が耳から入りこんだ。かっと顔中が熱くなる。
こんなところで、そんなことを言うなんて、ずるい。晃ちゃんの言葉が、私の小さな自信のなさを、あっという間に溶かしてくれる。
「あ、晃ちゃ――きゃっ」
夜風が吹き、桜の花びらが舞い上がった。私のワンピースもひらりと揺れる。
気まぐれな春の風が私たちを別世界に連れていくようだった。薄淡い桜色に包まれた私たちは、体をぴったりと寄せ合い、風がすぎるのを待った。
まるで雨が降るかのように、桜の花びらが一斉に川面へ落ちていく。誰もが口をつぐんでその様子を見守っていた。
夢のように美しい世界だ。
風が収まると、そこはもとのお花見の世界に戻った。人々の明るい笑い声、露天の人のやり取り、街のざわめきが耳に入ってくる。
でも、晃ちゃんはそこを動こうとしない。そして一層強く、私の肩を抱く。
「寒くない?」
「うん、大丈夫」
うなずいた私を晃ちゃんがじっと見つめる。彼の黒い瞳に私が映っていた。
「晃ちゃん? どうしたの?」
「この花もひらひら飛んでいかないように、しっかり抱いていないとな」
「あ……」
そっと耳もとに唇を押しつけられる。
「好きだよ、蒼恋」
熱い吐息と愛しい言葉が送りこまれた。
「……私も、晃ちゃんが好き」
お返しに背伸びをして彼の耳もとに囁く。
晃ちゃんが、好き。奥さんになっても、結婚して時間が経っても、この思いは増してゆくばかりだ。
その気持ちを、私を見つめる晃ちゃんに宣言する。
「私が花びらだったら、晃ちゃんにぴったりくっついて絶対に離れないから、心配しないで」
「そうか。俺も絶対に離さないから、大丈夫だよ」
ふたりで微笑み合うと、私の心のなかまで淡い桜色に包まれていくようだった。
「もう少し歩いていこうか」
「うん」
ぎゅっと手をつなぎ、晃ちゃんに連れられて人の波に戻る。
また来年も、その次も、その先もずっと……彼と一緒に桜を見にこられますように。
美しい光景を目に焼きつけながら、心の中でつぶやいた。
ただいま(株)アルファポリスさまより書籍化のお話が進んでおります。
決定いたしましたら、2017年3月20日(月)21:00頃に
1〜5話と番外編を残して削除をさせていただきますので
よろしくお願いいたします。
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