「友里恵(ゆりえ)、蒼恋をお願いね。夜には帰るけど、しっかり戸締りするのよ」
「はいはい」
玄関でお姉ちゃんにお金を渡したお母さんは、私を振り向いた。
「蒼恋、お姉ちゃんと晃ちゃんの言うこと、よく聞いてね。明日パーティーしようね」
「はーい」
ぽんぽんとお母さんに頭を撫でられる。
「晃ちゃん、悪いね。忙しいのに」
「全然ヒマだから構わないって。おじさんもおばさんも、安心して行ってきてよ」
そこには晃ちゃんもいた。
「あきちゃんも一緒に遊園地行くの?」
「おう。皆で遊ぼうな」
「うん!」
あれは小学校一年生の夏休み。
私のお誕生日に遊園地へ行く約束をしていた父母は、急きょ親戚の家に行かなければならなくなった。何の用事だったのかはもう覚えていない。
晃ちゃんと姉はそのとき高校二年生で、父母の代わりに私を遊園地へ連れて行くことになったのだ。
「落合(おちあい)さん、こっち!」
「あ! ちょっとそこで待っててね〜!」
遊園地に着いた途端、誰かに呼ばれたお姉ちゃんが手を振る。入り口から少し離れたところにいた男の子が、笑って手を振り返していた。
「ということで、晃ちゃんごめーん。私、カレシと回るからさ。蒼恋のことお願い!」
「はあ!?」
晃ちゃんの呆れ声が響いた。
「今度何かオゴるから許して」
「お前なぁ、最初からそのつもりかよ」
「だってお父さんが厳しくて、なかなかデートできないんだもん」
「蒼恋が可哀想だろ」
「大丈夫よ。蒼恋は晃ちゃん大好きだもんね?」
笑ったお姉ちゃんは半分こだよ、と言って、お母さんからもらったお金を晃ちゃんに渡した。
「蒼恋、晃ちゃんと遊んでもらってね」
「……うん」
「じゃ、晃ちゃんよろしく! 蒼恋、帰りにね〜」
お姉ちゃんとバイバイしていると、頭上からため息が聞こえた。
「ったく、何なんだよ、あいつは」
帽子のつばの向こうにいる晃ちゃんを、そっと見上げた。
「あきちゃん、帰る……?」
困ったように頭を掻いている彼に、恐る恐る尋ねてみる。子どもと二人なんて、きっと彼はつまらないだろうと思ったから。
「え、いや、帰らないよ。こうなったら二人で思いっきり遊ぶか! 乗り放題のチケットあるしな」
「いいの?」
「いいに決まってるだろ。遊園地なんて久しぶりだから、俺も楽しみにしてたんだ。蒼恋は何乗りたい?」
彼の笑顔と明るい声にホッとする。
「えーと、くるくる回るカップがいいな」
「コーヒーカップか。よし、それ行こう!」
私の手を握る晃ちゃんの手が大きくて、とても温かかったのを覚えてる。
三つ連続で乗り物に乗ったあと、木陰のベンチでジュースを飲んだ。私はオレンジ、晃ちゃんはコーラ。私は被っていた帽子を取り、ミニタオルで汗を拭いた。耳の下でツインテールにした髪がさらりと風になびく。空は青く、ソフトクリームのような入道雲が遠くに見える。
ジュースを飲み終わった途端、急に下腹がむずむずした。
「次はどこ行こうか? お化け屋敷でも入るか? 怖いぞ〜」
「……」
晃ちゃんが楽しそうに笑ったのに、返事ができない。
「どうした? 蒼恋」
「う、うん」
もじもじしている私の顔を、晃ちゃんが覗き込む。
お姉ちゃんが傍にいれば、きっとそんなことはなかったはず。家で晃ちゃんと一緒にいるのとは違って、何だかとても恥ずかしくなり、どうしてもトイレに行きたいと言い出せない。
「あ、あの」
「ん?」
「ううん、何でも、ない」
何とか我慢できる気がして、首を横に振った。
けれど、ベンチを後にし、彼に手を取られて十歩も行かないところで、我慢が限界を超えた。足がぶるぶるして、あっという間にお漏らししてしまった。今でも思い出すと、死にそうになるほど恥ずかしい。でも晃ちゃんは……優しかった。
「あ、あきちゃ、ごめん、なさい……!」
「いいよ、いいよ。大丈夫。それよりまだ我慢してるんじゃないのか?」
しゃがんだ彼が、泣き出す私に優しく問いかける。
「う、ううん。も、もう、全部、出ちゃっ、た」
「じゃあ、すっきりしたな。泣かなくて平気だよ」
「き、嫌わないで」
「バカだなぁ。俺が蒼恋を嫌いになるわけないだろ」
「ほんと……?」
「ほんと。これからもずーっとずーっと嫌いになんかならない。だから安心しな」
「……ん、うん」
私の涙をハンカチで拭いた晃ちゃんが、周りを見回す。
「着替えは持ってきてないよな。確かどこかに、お土産の店があるはずだ。そこに子ども用の服があるかもしれない。それまで我慢できる?」
「うん」
背中にしょっていた斜め掛けのバッグをベンチに置いた晃ちゃんは、タオルを出して、私の濡れた足を拭いてくれた。
「パンツ脱ぐか。って言っても恥ずかしいよな。そうだ、これ巻いてみよう」
晃ちゃんはTシャツの上に羽織っていた半袖のシャツを脱ぎ、私のスカートの腰に巻き付けた。
「ちょっと我慢しろよ?」
晃ちゃんは、さっと私のパンツを脱がせ、近くにあった水道で汚れたパンツを洗ってくれた。
「よし、買いに行こう。もしパンツが無くても大丈夫。ズボン買って履けばパンツ代わりになる」
「おズボンで?」
「俺も蒼恋ぐらいの頃、何回か漏らしたんだ。どこにも売ってなくてズボン買って穿いて、一日過ごしてたよ」
晃ちゃんが楽しそうに笑うから、私も釣られて泣き笑いになった。
「あきちゃんもなの?」
「そうだよ。蒼恋だけじゃないから心配するな。ていうか、言えなかったんだよな? 気付かなくてごめん」
「ううん、ううん」
その後、晃ちゃんはスカートの中が見えないように私を抱っこして、お土産屋さんに行ってくれた。店員さんに事情を話し、売っていた下着とズボン、サンダルを買って、私に身につけさせ、一件落着した。そのときだけお姉ちゃんを呼び出したような気もするけど、曖昧な記憶の中にくっきりと浮かぶのは晃ちゃんのことだけだ。
今思えば高校二年の男子がこんな目に遭って、とても困っただろうと申し訳なくなる。でも当時の晃ちゃんはとても落ち着いていて、その行動は幼い私の恥ずかしさや不安だと思う気持ちまでも救ってくれていた。
「あきちゃん、これ何!?」
「サボテンだよ。でっかいなぁ」
「蝶々がいる!」
「あ、本当だ。蒼恋、こっちにもいるぞ」
「わぁ……!」
昼食後に訪れた遊園地の片隅にある植物園の中は、不思議な匂いがした。
生い茂る樹々と甘い花の蜜の湿った香りが混ざって、私たちを包んでいる。鮮やかな色彩の中を数匹の黒い蝶がひらひらと飛び、まるで別の世界に迷い込んだようだった。
「私、ここ好き。見たことない木がたくさんあって、お花も綺麗な色で、いい匂いがして」
「南の国の匂いだな」
「そうなの?」
日差しの強さを凌げるせいか、屋外のような温室はそれほど厳しい暑さはない。川も流れている。
「行ったことないけど、多分。俺も、こういう場所は好きだなぁ」
「一緒だね」
「ああ」
そうだ、と言って晃ちゃんが立ち止まった。斜め掛けのバッグから、紙袋を取り出す。
「蒼恋、誕生日おめでとう」
「え」
「これプレゼント。開けてみ」
「ありがとう」
リボンのシールがついた包みを開けると、ピンク色の猫のぬいぐるみが、こちらを見つめていた。
「わぁ、かわいい!」
「蒼恋、そのキャラクター好きだったろ」
「うん! あきちゃん、ありがとう! いつ買ったの?」
「さっきの店で蒼恋が着替えてるときに買ったんだ」
「あきちゃん、あの」
「ん?」
嬉しくてたまらないのに、私の喉は何かが詰まったように、上手く言葉を吐き出してくれない。
「……えっと、ありがと」
「そんな何回もいいって。喜んでくれて俺も嬉しいよ。また買ってやるから。な?」
いつもみたいに、晃ちゃん大好きって言いたかったのに、何だかそれがとても恥ずかしくて、胸がドキドキして……言えなかった。
お姉ちゃんがいなくて私と二人きりになっても、私がお漏らしをして汚しても、晃ちゃんは何一つ嫌な顔をしなかった。それどころか、私の好きなキャラクターを覚えていて、それをプレゼントまでしてくれた。晃ちゃんの優しさが私の体の隅々まで行き渡ったような気がして、幼い私の目に涙が浮かぶ。
そのときから私にとって晃ちゃんは、お隣のお兄ちゃんというだけではない、特別な人になってしまったんだ。
小学校六年間、中学の三年間、バレンタインのチョコを渡していたけれど、ずっと義理だと思われていた。ありがとな、って微笑む晃ちゃんに、本気で好きだと告げたのは去年のこと。
気持ちだけ受け取っておくよ、と優しく拒否されたけれど、前より少し大人になれば、もしかしたらなんて思ってまた告白してしまった。小さい頃と変わらず、晃ちゃんの優しさに甘え過ぎている自分が恥ずかしい。
初恋は叶わないって聞いたことあるけど、本当だね。
ピンク色の猫のぬいぐるみを、ぎゅっと胸に抱きしめる。
晃ちゃんと離れれば、忘れられるのかな。大学へ通う間に、たくさんの男の人と出会えば、わかるのかな。晃ちゃんが言うように、これは本当の恋じゃないって……
高校卒業の日。
ホワイトデーのお返しにと、私宛てのクッキーとキャンディーを置いて行った晃ちゃんは、名古屋へ出発した。
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