夜の庭 20万hitキリリク

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(3)永遠の安息




 目が覚めるとそこは暗闇だった。地下独特のすえた臭いが鼻を突く。冷たい床、窓の無い石の壁、鉄格子の向こう、通路の奥から人の足音と燭台に置かれた蝋燭の灯りが近付いて来た。手のひらで目を擦ろうとしても、両手は後ろ手に鎖で繋がれている。身体中の痛みは、まだ消えていない。

「君の一族は皆燃えたよ。やはり炎に弱いと言うのは本当だったんだな」
 格子の向こう側に立ち、一見優しそうに見える自分を見下ろしていた紳士は、突然声色を変えた。
「お前は一生ここで私の為に働いてもらう。逃げようなどと考える事すら罪だ。生かしておいてもらえただけ、有難いと思え」

 火の粉を被った髪の先は顎の下から溶けて落ち、縛る必要はなくなった。焦げた毛先を鋏で整え、用意された慣れない衣服へと着替える。
 次の日から庭師として夜の草花の中を徘徊した。グレンの手に触れた花々は一瞬で輝きを増し、枯れかかった緑もたちまち色を変えていく。ここへ人を呼び寄せる為の美しい道具の管理。屋敷の者と出会うことのないよう、誰かしらの気配が近付くと自分からそれを避けた。

 生き延びる為と、力を搾り出す為のぎりぎりの量を小瓶から与えられたその晩は、必ず主人の部屋へ呼ばれた。庭師の格好を脱ぎ捨て、どこから見ても怪しまれることの無いよう着替えをした。目隠しをし、客人の前へと連れて行かれる。テーブルの上には数々の契約書が並べられていた。不審に思った客人の前で、主人に言われるがまま目隠しを外し、瞳を見つめる。正気を失った途端、頷いた客人たちは皆、書類へ自分の名を書き入れ、ランバート家の主人に有益ないくつもの契約は、いつの間にか交わされていた。

 そして数ヶ月経った今も、客人が帰るとそれは決まって行なわれた。主人に逆らおうなどと、決して思いつくことのないようにと繰り返される、激しい痛みを伴う儀式。地下牢に居た時と同じ鎖で繋がれた両手は動かない。時に革靴の底で、時には側に置いてある椅子の足で身体を打ち付けられ、踏みつけられ、床に叩きのめされた。自分では外せない銀の枷が、這いずる足首を重く沈みこむように締め付けている。この枷のせいで、主人の命令に逆らう力を取り戻すことができない。

 声を出す事も許されない青年は、霞んでいく視界の先へ愛しい人を思った。夜の庭で彼女の気配だけは感じることのできなかった自分へ、たった一つの喜びを心の中で歌いながら。




 ◇◇◇◇




「グレン、その傷」
「何でもございません」
 アマベルへ温かいカップを差し出したグレンは、彼女から顔を逸らした。
「私、わかるわ。お父様に酷い目に遭わされているのでしょう? お父様の私欲の為に」
 冷たい壁に寄り添う硬いベッドへ青年は腰を掛けた。近くのテーブルにある椅子へ座るアマベルは、カップから手を離しグレンへ向き直る。外では、闇の中で飛ぶことの出来ない烏が眠ろうともせず、ただやかましく喚いていた。
「グレン、逃げて」
「お嬢様」
「私の血をもっとあげるわ。そうしたらきっと力も戻って、ここから逃げられる」
「お優しいお嬢様、よくお聞きになってください。私のことなど気になさらなくてもいい。こうしてただあなたと過ごす時間を持てるだけで、私は満足なのです」
 優しく微笑んだ口元には、以前よりも治りの悪くなった傷口が見えている。痛々しさに胸を詰まらせたアマベルは涙ぐんだ。
「駄目よ。これ以上ここにいたら、利用されるだけされて、あなた……死んでしまう。それだけはいや」
 椅子から立ち上がったアマベルはグレンの隣へ身を寄せた。少しでも身動きすれば触れてしまいそうなほど、近くに。
「もうすぐ、お別れなの」
「……」
「正式に婚約が決まったの。来月私はここを出るわ」
 ここでは何の力も持たないただの庭師の自分に、一体何ができるというのか。当たり前のことなのだと、グレンは繰り返し頭の中で自分へ言い聞かせた。アマベルの幸せを願うことが自分の喜びでもあるのだと。
「お父様の決めた人なの」
「きっと素晴らしい方なのでしょう」
「三十も上の方よ。……嫌な性癖をお持ちだと、メイド達から幾たびも聞かされたわ」
 赤い唇を噛み締めたアマベルは、胸の前で組んだ両手を小刻みに震わせた。グレンに出逢ったあの晩、人の多い庭で自分のことを上から下まで舐めるように見詰める男の目から、逃れるように飛び出した。
「お母様は亡くなったって教えたでしょう?」
「……ええ」
「父の遺産を受け継いでいた母は、お父様と再婚した。お母様はね、病気で亡くなったのではないの」
 グレンの胸の内を何かが掠めた。それは酷い強さを持って、いつの間にか狂ったように鐘を打ち鳴らしていく。
「お母様の次に邪魔なのは、この私」
「!」
「ずっと怯えていたわ。私もいつかきっと、って。ずっと……ずっと一人で」
 利用される為にここへ来た母子を陰で笑っていた使用人たち。母が亡くなってから、信用できる者は誰一人いなかった。形だけの心配をする者たちは、時にアマベルへ冷たい言葉を投げかけ、たくさんの孤独へと陥れた。
「それでも、そうするしか私は生きられない。たとえ恋しい人が傍にいたとしても」
 小さく震える肩をグレンがそっと抱く。優しく包み込むその温もりに、少女はすがりついて涙を零した。
「グレン、好きよ。たとえあなたが何者でも……!」
 黙ったままアマベルを強く抱き締める灰色の瞳は、次に呼ばれるその時を初めて心待ちにした。主人に呼ばれる、あの忌まわしい時間を。



 ランバート家の主人の部屋で椅子に座り、目隠しをしたまま差し出された小瓶をいつもの様に口へと運ぶ。舌先にアマベルを感じる度に、グレンの胸は締め付けられた。同時に身体の奥からは、人では無いものの力が蘇る。暫くすると扉の開く音と共に、主人に連れて来られたであろう、今夜の犠牲者が部屋へと案内された。
「グレン」
 楽しそうな主人の、自分を呼ぶ声。何度も頭の中へ植えつけられた命令を下すその声を、今夜初めて振り払う。
「お客様、この部屋から出てください」
 グレンの呟きに戸惑いながらも何かを察知した客人は、真っ直ぐ部屋の扉へと向かった。焦るランバート家の主人は、男を行かせないようにと大きな声でグレンを縛り付ける。
「何をしているんだ、グレン! 早く止めろ!」
「旦那様。私はもう、このようなことに協力は出来ません」
 目隠しをしたまま静かに言い放ったグレンへ、主人は乱暴に歩み寄り低い声で囁いた。部屋を出た客人の足音が遠ざかる。
「……アマベルがどうなっても?」
 庭師の肩が微かに震えたのを主人は見逃さない。
「お前の元へアマベルが通っていることなど、屋敷中の者が知っている。そんなことは最初から計算済みだ。あの娘はお前を逃がさない為の餌だ」
「……」
「自分の立場をわきまえずに生意気な口を利くようであれば、今すぐアマベルを流行り病ということにして、母親と同じ目に遭わせてもいい。どうする、グレン?」
「お命を狙われているのが、わかりませんか?」
「何を訳のわからないことを。いいからさっさと、あの男をここへ連れ戻して来い」
「今夜、今この時も」
 グレンはそっと目隠しを外し、床へ布を落とした。
「誰の許可を得てそんなことをしている! 目を隠せ!」
 引き攣った顔で後ずさりする主人の両目を、碧の瞳は灰色へと変化しながら静かに捕らえた。怯えるランバート家の主人は、そこから顔を逸らすことができない。
「何故だ。何故私に逆らうことができる。いつそんな力を取り戻した」
「じっとして下さい。動かず、私の目を見て」
「あ、あ……」
 人差し指で指示を出すグレンの思うまま、椅子に座らされたランバート家の主人は、いつの間にかその手にペンを持たされていた。グレンはポケットから布にくるまれた銀の枷と鍵を出し、テーブルの上へごとりと置いた。
「ア、マベル、か」
 目の前に座る主人が家令に枷の話をしているのをアマベルは盗み聞いていた。慣れない知恵を振り絞り、彼女はたった一人でこの部屋から鍵を取り戻した。自分では直接触れることの出来ない、グレンの足へ食い込む枷を外したのも、全てあの愛しい少女だった。
「そこへサインを。あなたの全ての権利が、お嬢様へ受け継がれるように」
 一枚の書類を差し出すと、男は自分の意思とは反対に手を動かし始めた。それを確認したグレンは窓辺へ移動し、ドレープが連なる重たいカーテンを開いて外を見詰めた。
「聞こえますか? 先ほどいらした客人が屋敷へ火を放ちました。私の暗示のせいなどではありません。元々彼はあなたへ恨みを晴らそうと、ここまでやってきた数人の内の一人に過ぎない」
 カーテンを掴むその手に力がこめられる。月を背にした青年の瞳は、庭を横切る猫のように灰色の光を鋭く宿らせた。
「思い出してください。ひっそりと暮らしていた私たち一族へ、何の躊躇いもなく刃を向けたあなたの行いを。狩りという名の下に、堂々とその力を手に入れるために行なった醜い終焉を……!」
 サインのされた契約書を手にしたグレンは、椅子に座ったまま微動だにできない男を部屋に残し、扉を閉めた。

 月の輝く夜の庭には、花の中で待つようにと指示されたアマベルが青年を待っていた。初めて逢った時と同じペールグリーンのドレスを纏った少女は、青年へ両手を差し出した。
「グレン!」
「旦那様は中においでです。お許し下さい。私は……」
 アマベルの手を取り、グレンは頭を深く下げた。
「いいのよ、グレン。謝ったりしないで」
「これを」
 持ち出した契約書を、グレンはアマベルの手のひらへ乗せた。
「旦那様以外の方々は屋敷の外で眠っていただきました。草花にあなた方のことを護らせます。ここまで火が回ることは決してありません。安心なさって下さい」
「……グレン?」
「お嬢様」
 今まで目にしたことのない穏やかなグレンの微笑みが、アマベルを切なく包み込んだ。彼の背のずっと向こうにある夜空には、月が煌煌と輝いていた。
「この数ヶ月間、私はとても幸せでした。私が生きてきた長い時の中で、お嬢さまと過ごした日々は最も幸せな時間でした」
「何を、言っているの?」
「お幸せに」
 グレンはアマベルの黒い瞳へ暗示をかけた。ここへ留まり、自分の全てを忘れ眠りへつくように。出逢った夜も、手渡した薔薇も、踊ったワルツも、忌まわしい儀式も。二人で過ごした穏やかで優しい時間も。自分に関わること全てを。
「……」
 アマベルが黙り込んだのを合図に、グレンは彼女へ背を向け、仲間と同じ運命を辿る為に屋敷へと足を速めた。たとえ身を切られるほどこの別れがつらくとも、あの晩狭い小屋の中で誓ったのだ。アマベルの為にこの身を惜しむこと無く捧げようと。


 屋敷の窓が激しい衝撃音と共に、次々と壊れ散らばった。割れた窓ガラスから溢れ出す、自分を誘う炎へ吸い込まれるように近付いていく。
 もう、苦しまなくて済むのだ。元は人として生きていた自分は、変化した身体と血を求める呪わしい行動へ、常に疑問と後ろめたさを抱えてきた。何故もっと早くこうしなかったのかと、口元に後悔の笑みが浮かぶ。

 熱い空気に身を委ねようとしたその時、突然シャツの背中に違和感を覚えた。有り得ない感触に足が止まり、気付いた身体が震え出す。
「お嬢様、何故……!」
 背中にしがみつく少女の手を取り、振り向いた。
「私にはあなたの力は効かない。あなたは私よ。この数ヶ月、私の血を啜って生きてきたのだもの。そうでしょう? 私の匂いがするグレン……!」
 涙を流し自分を見詰める瞳から、グレンは目を逸らした。胸の奥から湧き上がる苦しい思いに翻弄される。ごうごうと燃え広がる屋敷の熱が、すぐそこまで手を伸ばしていた。
 ――あの時と同じだ。屋敷を追い出され、森を追われ、杭を打たれた仲間は瞬く間に炎で焼かれ、視界の隅へ転がっていった、あの時と同じ音。
「私もあなたと同じにして。もう私を一人にしないで」
 そこには自分と同じ少女がいた。何十年もの間一人で過ごし、ようやく見つけた仲間は帰らぬ者となり、捕らえられた自分と同じ、孤独に苛まれ怯える者の姿が。

 赤い光が反射した鳶色の髪へ、グレンは手を入れる。
「お嬢様」
「アマベルよ」
「後悔は、赦されません」
 腕の中に抱いた少女へ告げると、躊躇いも無く彼女は濡れた瞳で青年へ告げた。
「あなたと離れることが私の後悔なの。グレン」
「アマベル……!」

 屋敷は大きな音を立て崩れていく。身も心も互いの熱に焦がされた二人は唇を重ねた。金髪の柔らかな髪はアマベルの頬を掠め、グレンの優しい唇は白い首筋へ移動した。触れた途端悦びに震えるアマベルへ、尚もグレンはすがりつく。唇から覗かせた白く尖った切っ先を、なめらかな肌へ少しずつ埋め込んでいく。小指の先から慈悲を分け与えてくれたあの晩のように、全てを差し出す愛しい少女へ。

 揺らめく炎の中で、新しく闇に生まれ変わろうとしている二人の身へ、永遠の安息が静かに訪れた。
 眠らない夜の庭に咲く美しい花たちのように、いつまでも枯れることなく月の光に照らされながら。











 〜end〜





 

 最後までお付き合い下さいまして、ありがとうございました。拍手や感想などいただけると大変励みになります。お返事はブログにて。
 ナノハ 2011/1/17




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