深い緑に閉ざされた、光の差さない森の奥深くのはずなのに、今そこは昼よりも明るく輝いている。燃え盛る熱い炎に包まれた豪奢な衣装を纏うその姿は、湿った黒い土に吸い込まれることなく、いくつもの大きな叫び声と共に視界の隅へと転がった。
いつの間にか横たえていた痛みを抱える身体を引き摺り、頬を地面に擦りつけ緩慢な動作で身を縮めながら自分の足下に視線を送った。眩しさに目を凝らしその造りを受け入れる。
光り輝く銀の枷には、力を失う為の刻印が施されていた。
◇◇◇◇◇
ランバート家の庭は、夜の帳が下りても花が眠らない。噂を聞きつけた人々が集まり、近頃屋敷では頻繁に晩餐会が開かれるようになった。
夜の花を楽しむ為の屋敷に一番近い華やいだ庭を飛び出したアマベルは、人気の無い奥の庭へと逃げるように足を速めた。ねっとりと自分へ絡みついた、あの視線を振り払いたい。赤い下唇を噛み締め肩を震わせた少女は、手入れの施された草木の間をすり抜けた。昼間は暑くさえ感じる初夏の陽気も、日が落ちれば瞬く間に冷ややかな空気が露な肌を刺していく。屋敷から聞こえてくるワルツは、いまだドレスの裾を掴んで離さない。
「まだよ。もっと遠くへ」
生き生きと咲き誇る花たちが仄かに明かりを添えているせいか、月が隠れた暗闇の中でも歩き回るのは容易く思えた。
庭の奥の奥、その外れに辿り着くと、金属の擦り合わせる音が耳に届いた。軽い何かが落ちていくのがわかる。少女の視線の先、茂みの向こうには葉を整えている一人の青年がいた。
「あなたが、新しい人?」
少女の呟きに振り向いた痩身の青年は、灯りを置いてある足下へ大きな鋏を並べ、頭を下げた。
「庭師のグレンと申します」
「やっと会えたわ。仲良くしてね。私、庭が大好きなの。あなたが来てから夜の庭に花が咲くようになって、とても嬉しいのよ」
庭師の名を聞いた途端目を輝かせた少女から、庭師は視線を外した。
「私はアマベル」
「存じております」
「髪をどうしたの? とても短いのね」
縛られることのない顎にかかる不揃いな髪は、一番長い場所でも白い開襟シャツの襟に影を落とす程度にしかない。無邪気な質問に口を閉ざしたグレンへ、アマベルは済まなそうに眉を下げた。
「ごめんなさい。聞かれたくないこともあるわよね。でも、とても綺麗な金髪だわ」
「ありがとうございます」
「お嬢様! こちらにいらっしゃるのですか?」
ふいにメイドの甲高い声が響き渡ると、肩を縮めたアマベルは何かを思い出したかのように顔を曇らせた。血色の良い頬はたちまち青ざめ、明るく言葉を紡ぎ出していたその声は微かに震えた。
「今は戻りたくないの。少しの間だけ私を隠して」
「……」
「お願い」
「こちらへ」
足下の灯りを落とした青年は、立ち並ぶコニファーと背の高い葉が覆い茂る草花の間へ少女を座らせ、自分も膝を折った。
「お静かに」
しゃがむアマベルの頭上から、包み込むようにグレンは両手を幹へ押し付けた。メイドから見つかることのないよう忠実に自分の言うことを聞き、この身を庇っているだけだ。どこも決して触れてはいない。しかし、すぐ傍にあるグレンの息遣いを感じた途端、アマベルは胸を打つ自分の鼓動に支配された。同時に咽返る緑の中で何故か青年の匂いに懐かしさを覚えた。作り出されたものではない、その者が放つ独特の香り。明かりの全く無い草花の中で、嗅覚だけがますます鋭くなっていくアマベルの小さな呼吸は乱された。
メイドの足音が遠のき静寂が訪れると、庭師はアマベルから離れ、立ち上がりながら肘で草を掻き分けた。
「もう大丈夫でしょう」
「礼を言うわ、グレン。ありがとう」
「とんでもございません」
しゃがみ込んだままのアマベルは、ペールグリーンの生地で出来ているドレスにウェーヴがかかった艶のある鳶色の長い髪を垂らしていた。
「もう少ししたら、自分で戻るから」
幼い少女から大人の女へと移り変わる時期に差し掛かった、閉じ込めようとしてもなお唇から零れ落ちていく若さの実をアマベルは持ち合わせている。グレンは彼女の膝に置かれた手首を見詰めた。暗がりの中でそれは白く輝き、浮き上がる血管からは若い女特有の甘い匂いが立ちこめていた。
「綺麗に咲いているわね。グレンが来る前よりも、ずっと色鮮やかに見えるわ」
灰色の瞳で凝視されていたことに気付かないまま、アマベルは目の前にある水色の花弁に指を置いた。すべすべとした柔らく頼りない肌触りが、胸を締めつける。
「お部屋へお持ちするよう手配いたしましょうか」
「そうね」
グレンを見上げたアマベルは、大きな黒目を輝かせ悪戯っぽく微笑んだ。
「どんな庭師が来たのかと思っていたの。誰もあなたを見たことがないって、メイドたちも言っていたわ」
「……」
「グレンが来るまでは、いつもしかめっ面のニックだったから、まさかこんなに若い人だとは思わなかった」
立ち上がり、ドレスを整え言葉を続けていく。何も聞かずに、咎めずに、メイドから身を隠してくれたこの庭師へ、ほんの少しだけ心を許したのかもしれない。けれど、それとは全く違う何かが心の片隅で渦を巻き、喜びの歌をうたい始めたのもアマベルは知っていた。
「ずっと庭師のお仕事をしていたの?」
「ええ」
「本当に?」
「本当、とは?」
眉をしかめたグレンへの質問は流し、髪に葉が付いてはいないか確認する。
「また、お話してもいい?」
「あまり、このような場所へいらっしゃるのはいかがなものかと」
「私のことなんて本当は誰も気に留めてはいないのよ」
苦笑したアマベルは庭のさらに奥を見詰めた。その視線の先にはレンガ造りの古い小屋が建っている。庭師はそこを住処とされていた。
「あそこを使っているの?」
「そうです」
「見つからないように今度お邪魔するわ」
「……」
「ね、いいでしょう?」
「お嬢様の、お慰めになるのでしたら」
一瞬の躊躇いを見せた後、口元に薄い笑みを浮かべたグレンの表情に、アマベルはその身の全てを吸い込まれそうな感覚へと陥った。今初めて、月明かりと共にはっきりと現れた青年の顔。柔らかな金髪はその白い肌と溶け合い、すべらかな花びらの手触りを思い出させた。あまりにも整った憂いを帯びる顔立ちと、金糸の睫をはべらせた、碧から角度によって灰色に変わる瞳に息を呑む。怖いとさえ、思った。
「どうなさいました?」
先ほどから耳元へ届くその声すらも。幼い頃に読み聞かせられた、闇に住まう者のよう。縛り付けられるのに、その心地良さから逃れたいとは思わない。
「いいえ」
愚かな考えを振り切るようにアマベルは小さく首を振った。この辺りに振りまかれている蜜の香りに酔ったせいだ。ただの庭師に何を思うことがあるだろう。
「どんな魔法を使ってこの庭を輝かせているのか、私にだけ教えてね?」
ドレスを翻した少女の背中を見送り、グレンは再び明かりを灯して大きな剪定ばさみを持ち上げた。屋敷から絶えず聞こえる楽器の音は、どこまでも続く切りそろえられた低い樹木の終まで染み込み広がっていく。
◇◇◇◇
真鍮の燭台に灯る蝋燭の明かりは、部屋にある物全てに揺れる影を落としていた。ベッドへ座るアマベルの瞳もまた、鈍い光を受けている。差し出した左手の細い小指の付け根は、痛みよりも熱を感じていた。
「お父様」
「ランバート家の為に祈りを捧げているんだ。何も恐れることはない」
彼女の左手を取り、注意深くそこを見詰める父の口からは、幾たびも繰り返し聞かされた同じ言葉しか吐き出されることはない。
「……いつまで、続くの?」
流れ出る赤い雫は、小指を伝い爪の先から四角い小瓶へと吸い込まれていく。朦朧とした意識の中で、少女は幾重にも置かれた羽根枕へゆっくりと長い髪を沈ませた。
夜の庭が眠らなくなり、その頃から行なわれた何度目かの儀式を終えたアマベルは、言葉を交わした庭師の美しい髪と立ち昇る匂いを記憶の淵に呼び覚まし、長い睫を携えた瞼を静かに閉じた。
2011/1/7 up
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