椎名と口を利かなくなって、二週間が過ぎようとしていた。
毎日同じ教室で、同じ講義で、なのにこんなの苦しすぎるよ。きっかけも上手く掴めないし、こういうの経験したことないからわからない。周りの皆も何気に心配してくれてるのが伝わって、いたたまれない。
就活も上手くいかなかった。そんなの当たり前だけど。
講義を受けながら、前の方へ座っている椎名の背中を遠くから見つめる。椎名って背、高いな。何センチあるんだろう。彼の好きな食べ物とか、好きな音楽とか、どんな本を読むのか、家で何してるのかとか、私あんまり知らない。
彼に言われたことを、ノートにシャーペンで書き出した。
ありありと、わかる。ありありとわかる。ありありと……。思い出しただけで胸が痛くなって涙が滲む。私も椎名に大切な事、きちんと言ってない。彼の話、ちゃんと聞いてない。
お昼を皆と食べ終わって戻ろうとした時、後ろから声を掛けられた。
この前と同じ、外のカフェテーブルのずっとずっと上には青い空が広がってる。皆は気を遣って先に行ってしまった。いつの間にか周りの人も、講義が始まるのを気にしてか、構内へ戻ってる。
椎名は鞄を肩に掛け直して低い声で言った。
「あれからいろいろ考えたんだけど」
私の顔を見てはくれない彼の言葉の続きが怖い。
「俺たちやっぱり、」
ダメだよ、その先は言わないで。そう思った時には大きな声を出していた。
「私は椎名が好きなの!」
震える手を握って、泣きそうになるのを堪えて、椎名へぶつけた。
「だから、まだ付き合ったばっかりなのに、もう別れるなんていや」
こちらを向いた椎名が私の顔を見つめてる。
「そりゃ、私だって椎名が言ってくれるまでそういうの意識したことなかったけど、でも、一緒にいたいなって」
「……」
「一緒にいたら居心地いいなって、段々……。少しずつ好きになるのは駄目なの? 上手く言えないけど、もっと椎名のこと知りたいって思ったのに、もう駄目なんて、やだよ」
彼は何も言ってはくれない。もう、無理なのかもしれない。今度は私の方が俯いて椎名の視線を避けていた。私の好きな彼のスニーカーは古着のデニムによく合ってる。
「あのさ、ちゃんと最後まで人の話聞くべきだと思うんだけど」
「話?」
「俺たちやっぱり、の続き」
頭に手をやった椎名は溜息を吐いた。
「俺たちやっぱり、もっと一緒にいなきゃ駄目だって思ったんだ。それに俺、富田と約束したくせに全然直ってなかったから」
「何を?」
「わかりやすくする、って」
春の公園のベンチの上で、彼が握ってくれた手の温かさを思い出す。
「ただ、嫌がられるの、やだったからさ。急に馴れ馴れしくするのとか、俺の彼女だから、みたいの富田嫌だろうって思って。本当は……」
言いかけて黙った椎名は、空を見上げて言った。
「公園いこ。高台にあるやつ」
「……はい?」
聞き返した途端、椎名は私の手首を掴んで歩き出した。
小高い丘を登りきると、広い国立の公園がある。平日の昼間は人も少ない。荷物を足下へ置き、大きな樹の下へ二人で立ち、そのまま幹へ寄りかかった。目の前にある柵の向こう側には、眼下に広がる街が一望でき、遠くには海が小さく見えた。二人の間にはまだほんの少しだけ距離がある。
「ねえ、なんで公園?」
「ここ嫌い?」
「ううん、好きだけど。でも急になんで?」
「富田とキスしにきた」
「え!」
相変わらずしれっとした表情で、ポケットに手を突っ込んだままの椎名が言った。
「だって学校じゃ無理だし」
「そう、だけど」
「何となくここならいいじゃん。海も見えるし」
「はあ……」
混乱する頭の中をよく整理してみる。やっぱり椎名の考えてることはよくわからないよ。学校サボって、わざわざ電車に乗って? それで到着した途端、そういうこと言う?
彼の視線の先にある遠くの海は、きらきら輝いて眩しい光が波間に浮かんでは消えた。
「椎名、キスしたいの?」
「したいからわざわざここまで来たんでしょ」
前を向いたまま淡々と答える椎名の横顔を見つめる。今言ったこと、聞き間違い? っていうくらい、ちっともそんな風には見えなかった。
「そんな言い方じゃわかんない」
「ああ、そうか。ごめん」
椎名は黒縁眼鏡を外して、それをデニムのポケットへ突っ込んだ。その意味を何となく気付いてしまうのが恥ずかしくて、わざと椎名の手元を見て話を逸らした。
「割れちゃわない?」
「平気だよ」
少しずつ近くなる彼の気配に緊張して肩を縮ませながら、それでもまだ普通を装って話を続けてみる。
「外したとこ、初めて見たかも」
「そうだっけ?」
すぐ傍に来た椎名は私の肩を抱いて顔を寄せてきた。おでこに柔らかい感触が当たったと思ったら、すぐに離れてしまった。
「今、したの?」
「した」
「あ、そう」
勝手だけど想像してたのと違うみたい、なんてがっかりした瞬間、かがんだ椎名が私の頬に自分の頬を当てて頬ずりしてきた。突然そんなことされて、身体中が固まってしまう。
「富田もして」
「え……どこに?」
「どこでもいいよ」
耳まで熱くなった私は、そっと椎名の頬に唇を寄せた。本当はこんなこと何でもないんだから、って顔したいけど、心臓も苦しいくらいに大きく高鳴って、そんなことは全然無理。恥ずかしくて、でも触れた椎名があったかくて、私にも触れて欲しいって、今きっとそんな顔してる。
目の前の椎名は、今まで見たこと無いほど優しい表情で私を見つめていた。
好きだよ、って言われる度に私も答えようとするけれど、すぐに何度も彼の唇に邪魔されてしまう。
それは力をこめる彼の左手から、優しく髪を撫でる右手から、言葉だけじゃなくて、もっともっとたくさんの気持ちが私へ注がれていた。私も椎名の背中へそっと両手を回して、Tシャツをぎゅっと握る。彼の呼吸が大きくなるのがわかって、それがなんだか嬉しかった。
身体を離した私たちは、また樹の幹へと寄りかかる。今度は少しだけ腕が触れる距離で。
「結構いいもんだね」
「何が?」
「わかりやすくするってこと」
「……そうだね」
「付き合ってるって感じになった?」
椎名は笑って私の顔を覗きこんだ。
「うん、なったよ。恋人同士って感じした」
「もっとして欲しいことある?」
「たくさんあるよ。私も、椎名にしてあげたいこと、たくさんあるよ」
応えてもらうだけじゃなくて、私から伝えたかったことも。
「私、椎名の言葉に泣けたの。セーターのこと。たった一言だけど、すごく嬉しかった」
「うん」
椎名は何度も頷いて、聞いてくれた。
「あのさ、知ってた?」
「なにを?」
「約束してないのに、俺たちいつも似たようなの穿いてたって」
彼は私の古着のデニムを指差した。
「うん、気付いてたよ。私たち、すごく合ってるんだよね?」
目の前を大きな蝶が飛んでいく。初夏の日差しに輝いて、その羽根は虹色に見えた。キラキラと青い空へ吸い込まれそうになる蝶を捕まえたくて伸ばした手は、あっという間に彼へと取られて、優しい胸にまた抱き寄せられた。
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