泥濘−ぬかるみ−
(25)秘密
図書室はヒーターのせいで、暖かい空気に満たされていた。
後ろから回り込み、以前の様に机の正面へ座ると春田が顔を上げた。一瞬目が合い、今度は自分から逸らす。
「勉強してんの?」
「……うん」
「何の?」
「す、数学と物理」
答えるとまた彼女は下を向き、問題を解き始めた。
春田の手元を見つめる。何度もやり直したのか、ノートには消しゴムをかけた跡がいくつも残っていた。
「教えてやろうか?」
「……いい」
俺の顔も見ずに首を横に振る彼女をよく見ると、答案用紙と見比べながら問題を解いている。
「それ、この前の期末の?」
「……」
「やり方、わかんの?」
「一人がいいの。だから、」
俯いたまま強い口調で言った春田のノートに雫がこぼれ、紙を濡らした。
ここまではっきりと拒絶されれば、認めざるを得ない。泣くほど嫌だというなら。
「春田」
久しぶりに彼女の名を呼ぶ。
「悪かったよ。……もう、」
途中まで言って胸に何かがつかえ、喉の奥を塞がれた。
顔を上げない春田を見つめる。
何度も傍を掠めた髪を、震える肩を、セーター越しに掴んだ腕を。必死に数字を書くその白い手には、俺と同じシャーペンが握られている。
「もう、何もしないから」
「……」
「俺の携番、消して」
立ち上がり、その場を去った。声を聞くことも叶わない。廊下へ出ると、たちまち冷たい空気に晒された身体が、痛い。
「いいものって、これかよ」
右手で顔を覆い呟く。もうどうにもならない、それを確認させる為だけに葉山にここへ来させられたのかと思うと、笑うしかなかった。
あれから三日が経ち、修了式の日を迎えた。
春田に自分の携番を消して欲しいと言いながら、彼女の番号は消せずにいる。クラスが変われば、もう何の繋がりも持てない。
帰りに飯島達にどこかへ行こうと誘われた。悪いと思いながらも断り、一人家路へ急ぐ。
駅に着く直前に雨が降り出した。黒い雲を睨みつけ、構内へ走りこみ、傘を手にしていないことを後悔する。
地下鉄を降り、階段を上り外へ出る。それほど強くない雨は、このまま足早に急げば傘を買う必要も無さそうだ。
大通りを抜け路地へ入りしばらく行くと、あまり人通りも無く静かな道が続く。角にある桜の樹は、蕾を付けまだ花は開いていない。
雨足が強くなりそうな気配がし、走り出そうとした時、一瞬雨が止んだような気がした。
見上げると無いはずの傘がそこに広がっている。振り向いた途端心臓が踊り、身体中の血が騒いだ。
そこには、春田がいた。
手を伸ばし俺に傘を差しかけ、肩で息をし、黙って立っている。
「なに、してんだよ……お前」
声が震えたのを悟られたかもしれない。
イヤホンを耳から抜き、ポケットへ突っ込む。音楽を聴いていた為か、彼女が後ろにいることに全く気付かなかった。
「三島くん、傘無かったから」
「……」
「追いかけて来たの」
「……」
「歩くの早いね」
囁くような声に、あんなにも焦がれていた姿に、何も言葉が出ない。
しばらく彼女を見つめた後、静かに息を吸い込み、やっとの思いで吐き出した。
「いいよ別に。たいして降ってないし、走って帰るから」
「……うん。でも、」
俯いている彼女は、傘の柄を強く握り締めた。
「でも、聞いて欲しいの。三島くんに」
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