泥濘−ぬかるみ−
(19)飴
「俺と一緒に帰る? 二人で」
壁に背を付ける春田へ問いかける。
驚いた彼女は首を横に振り、掠れる声で返事をした。
「そんなこと、葉山くんがいるのにできない」
当たり前とはいえ葉山を庇うその言葉に、さっき感じた奴への嫉妬が加わり、ますますあの表情が見たくなる。
「じゃあ、葉山のとこ戻って二人で帰れば」
「え、」
意外に思ったのか、彼女は俺を見つめた。その足はまるで床に貼り付いてしまったかの様に動かない。……動こうとしない。
「教えてやろうか?」
「何を?」
「図書室での答え。覚えてる?」
少しの間があった。
「……覚えてる」
「今、お前がここから離れない理由も」
「……」
「何で俺に勉強教えて欲しいのか、どうして俺と二人で帰りたいのか、何で今ここにいるのか……知りたい?」
ゆっくりと諭すように話しかける。急に落ち着きの無くなった春田は視線を落とし、自分の手を組み握り締め、言った。
「帰らせる為に、私のこと呼んだの?」
知りたいとは答えずに話を逸らした彼女のお陰で、頭の片隅に残る自分を抑えつけていた迷いも躊躇いも、消えた。
「これ、やろうと思って」
ズボンのポケットに入っていた、帰りに誰かからもらった飴とガムを取り出す。飴は甘ったるそうなミルク味。ガムは香りのきついイブルーベリー味。どちらも好きじゃない。
手のひらへ乗せ、春田の顔の前に差し出た。
「少し早いけどチョコのお返し。どっちがいい?」
「……」
戸惑っているのか返事をしようとしない彼女へ、尚もしつこく突き出す。
「どっち」
「あ……飴」
「飴でいいんだ?」
「?」
ガムはもう一度ポケットに入れ、飴を包みからゆっくり取り出し、自分の口へ放り込んだ。春田はそれを不思議そうに見つめている。その瞳を右の手のひらで正面から両方とも塞いだ。
「三島く、何?」
「逃げるなら、今」
苦しい。この思いから逃れたいのは自分だ。なのに今それを彼女へ突きつけ、少しでも慰めを得ようとしている。
「俺から逃げないなら、口開けて」
懇願にも似た俺の声へ応えるように、与えられた暗闇の中で、春田は微かに震える唇をゆっくりとひらいた。彼女の真意などお構いなしに、焦り逸る気持ちを抑えながら形の良い顎に左手を添える。親指で半開きの唇をさらにこじ開け、顔を寄せて濡れた飴を入れた。
「……甘い?」
まだ両目を覆ったまま、すぐ傍で問いかけると、彼女の口の中で飴が転がった。その音を確認した後、甘い匂いに包まれた身体から離れ、目の前の彼女を見下ろし自分のポケットを探る。
満たされることなく、春田へ次々と愚劣な思いの湧き上がる自分の胸の内を、無理やり引き剥がしながら。
「大事に舐めろよな」
「……」
「こっちは葉山にやれば?」
茫然と立ち尽くす彼女の右手に、青い包み紙にくるまれたガムを乗せ握らせた。見たかった表情をその顔に乗せた春田に、愉悦を含んだ笑みを渡し、言葉を続ける。
「その飴」
「……」
「誰にどうやってもらったか、ちゃんと葉山に言えよ?」
「……」
「俺、帰るから」
声も出せずにいる彼女に背を向け、自分達がいた部屋へ本来の目的を果たす為に、今起きた事を何も知らずにいる葉山の元へ、戻った。
知ることを拒みつつも俺を受け入れる春田に、泣き出したい程の報われない思いを抱えながら。
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