泥濘−ぬかるみ−

(16)妄執




 一瞬何のことかわからないというように眉を潜めた春田が、弱々しく言った。

「手は、繋ぐよ」
「こういう風に?」
 握っていた手を外し、彼女の指の間に自分の指を絡ませて摺り合わせた。
「……そんなことしない」
 さっきとは違い従順に応える春田を見ても、頭の中に起きた考えは覆らず、萎えるどころかかえって膨らんでいく。
「じゃあ、これは?」
 今度は彼女の手首をそっと掴んでそのまま腕に滑らせる。春田は身をよじり、壁にぴったりとその身体を貼り付けた。
「変だよ、三島くん」
「変って何が?」
 二の腕から肩に触れ、冷たい耳朶をつまんで引っ張る。春田は息を吸い込み小さく首を振った。
「なんか、変」
「嫌なら俺から離れれば? 無理に押さえつけてるわけじゃないんだし」
「だって髪、」
「気がついてんだろ? とっくに外れてるの」
「……!」
 言い当てられた恥ずかしさからか、顔を赤くし黒目を潤ませて俺を睨みつける彼女の唇に、身をかがませ自分の顔を寄せた。動揺した春田は両肩を上げ、きつく瞼を閉じる。あと少しの触れそうな場所で留まらせ、口を開いた。
「あいつと、したんだ?」
「え」
 春田の息が俺の唇に伝わった。恐る恐る瞼を開き、その瞳は俺と視線を合わせてくる。
「こういうこと」
「し、してないよ」
 春田が顔を逸らすと、その髪は俺の鼻先を掠めた。
「……ふうん」
 つまらなそうに言ってはみるけれど、もし彼女が頷いていたら何をしていたかわからない。

 目の前に現れた白い首筋が動かないよう、腰を落とし春田の足の間に
自分の膝を入れ、押し付けた。
「!」
 一瞬引いた彼女の腰を逃げられないよう左手で引き止める。
「……わかる?」
「……え?」
 ほとんど吐息にまみれた彼女の声が吐き出された。
「お前も後で確かめれば? 俺とおんなじだから」
「……」
「今俺が確かめてやろうか?」
 鼻で笑うと、彼女の瞳にあっという間に水が溜まっていく。
「……そんなに私のこと」
「……」
「そんなに、嫌い?」
「……嫌い?」
 ここまでしても見当違いな事を口にする彼女に、呆れを通り越して身勝手な憤りを感じずにはいられなかった。あの葉山に同情すら覚える。
 一人、自己完結させようとしている春田へ全てをぶつけて何もかも終わらせてやりたい。愉しんでいる余裕など全く無くなった俺は、奥まで突き進んでいきたい欲望に何とか歯止めをかけた。

「だって私の顔見たくないって、この前」
「ああ、あれね」
 彼女を見下ろし、さっきとは打って変わって淡々と返事をする。
「前にも言わなかったっけ? 大嫌いだって。覚えてないならもう一度言うけど」
「……覚えてるよ。好きでもないのに、葉山くんと一緒にいるからでしょ?」
「わかってんなら聞くなよ」
 押しやるように俺の胸元を右手で小さく掴んでいる春田の声は、震えていた。
「お前も俺のこと嫌いなんだろ」
「……」
「勉強教えて欲しいから、あれこれ言ってくるだけなんだろ」
「……ちが、」
「言えよ。嫌いだって」
「痛い。三島くん」
 いつの間にかその左手首を掴んでいた。痕が残るかもしれないくらいにきつく。
「……痛いよ」
 胸を突かれるその声に、春田から身体を離し背を向けた。
 葉山との関係を確認したいという愚かな焦燥が裏目に出た事へ自嘲したくなる。結局またこの前と同じ様に、虚しさが目の前にある染みの様に自分の中へと残るだけだった。何度彼女と視線を交えても、結局は同じなんだと思い知らされたに過ぎない。
「三島くんが私を嫌いでも」
 踊り場から階段へ一歩踏み出すと同時に、掠れた声が背中に届いた。

「私は三島くんのこと、嫌いになれないよ」

 俺の横を通り過ぎ、階段を駆け下りて行くその背中へ目を向け、彼女の言葉を引き摺ったまま、ぼんやりとその場に立ちすくむ。

 春田の心が、読めない。





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