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セロリのスープ





 この香りが大好きなのよ。
 クリームにしてもいいけど今夜はシンプルにコンソメ仕立て。透明な薄い金色のスープの底には、少しの玉ねぎと柔らかいベーコンと、白く上品な春色の野菜。

「これ何」
 仕事から帰り、着替えて夕飯のテーブルに座った彼が、眉を寄せてお皿を覗き込んだ。
「ん? スープだよ」
「いや、この沈んでるやつ」
「ベーコンと玉ねぎと、セロリ」
 私の言葉に彼は口を大きく開けながらスープを指差した。
「……あのさ、俺セロリ苦手だって、ずーっと前から言ってなかったっけ? 何回も言ってなかったっけ? むしろ出会った時から言ってなかったっけ?」
「絶対美味しいから。身体にもすっごくいいんだよ」
 にっこり笑ってお皿を押してみる。同時に彼は後ろへのけぞった。
「いやいやいや絶対不味いって」
「食べてから言ってよ。好き嫌い多すぎ」
「無理。匂いがやだ」
「食わず嫌いは良くないよ。一回も食べた事ないんでしょ?」
「だからマジ無理っつってんだけど。あと何があんの?」
 私から視線を逸らした彼はキッチンへ目を向けた。身を乗り出してその頬へ手を伸ばし、もう一度こちらへ向かせる。
「ないよ。これだけ」
「はあ!?」
「これ飲んだら出してあげる」
「疲れて帰って来てんのに、いきなり喧嘩売ってんのかよ、お前は」
「……ちょっとだけ、ね? ひとくちでいいから。頑張って作ったんだよ?」
「食わないっつーの。下げろ」
「そんな言い方しなくてもいいじゃん」
「棚にカップラーメンあったよな。あれでいいや」
 私の手を払いのけて立ち上がった彼は、鼻歌を歌いながら、やかんに水を入れてお湯を沸かし始めた。

 三分が経ち、美味しそうにラーメンをすする彼を、テーブルに両肘を付いて両手で頬を押さえながらじっと見つめる。胸の中は目の前の湯気みたいに、いやーなモヤモヤで一杯になってる。

「私たちってさ、合わないんだよね。何もかも」
「知ってる。星座も、血液型も、四柱推命も最悪だしな、相性」
「男のくせに占い好きってどうなのよ」
「お前だって風水とか好きじゃん。玄関に置いてある、あの変な置物やめれ」
「変じゃないもん。シンくんの仕事運とか良くなるようにだもん」
「全然効果ねーし。捨てろっつってんのに、あちこち無駄なもんが多すぎるんだよ」
「無駄なものなんかないってば!」
「大量に取ってある紙袋とか、読まない雑誌とか、何にも入れない小瓶とか、大瓶とか中瓶とか、全部いらないだろ」
「いつか使うかもしんないじゃん」
「いつかなんて来ないの。フミコのそれは、ただのもったいない病。俺がいつも綺麗にしてやってんだから、素直に感謝しろよ」
 彼はカップを斜めにして、ラーメンの汁をごくごく飲んだ。
「シンくんのは、ただ大きさ揃えて並べてるだけじゃん。使い勝手悪いんだよね、すっごく」
「あーそうですか」
「そうですよ」
 顔を上げてお箸の手を止めた彼がぼそっと言った。
「せっかくのメシが不味くなるから、あっち行ってくんない?」
「!」
「邪魔」
 冷たく言い放ち、再び麺を食べ始めた彼にカチンと来て、テーブルを離れてそのままお風呂へ直行した。
 狭い2DKだから顔を合わせないわけにはいかないけど、お風呂から上がって側を通り過ぎても、絶対目を合わせてやらなかった。彼も私とおんなじこと考えてるのか、無言で不機嫌オーラが全身から出てる。

 後片付けをしてベッドにもぐりこむと、既に布団へ入っていた彼は私に背中を向けていた。寝た振りだってわかってたから、背中をつついてみたのに知らん顔。いつもだったら、何だよーって笑いながらノッてくれるのに。パジャマの背中におでこをコツンと当てても、振り向いてくれない。
 ふんだ、ふんだ、ふーんだ! 私だって知らない。絶対謝んない。悪いことしてないもん。身体にいいと思って一生懸命作ったのに。ほんのひとくちぐらい、食べてくれたっていいじゃない。結婚する前はあんな言い方、絶対しなかったくせに。報われなかったスープも私も可哀想。
 ぐるんと寝返って自分の背中を彼の背中へ向けた。お布団被ってるのに後ろがスースーして、何だか寒い。


 朝になっても彼の機嫌はそのまんま。ひとことも口を利いてくれない。行ってくるねのキスもない。
 お昼休みもメールくれない。夕方になっても、帰るよって電話くれない。悔しくて、いつもよりちょっぴり高いビールの缶を開けて飲んでみたけど、ちっとも美味しくない。一人で食べてやる! って好きなものたくさん買って来たのに、あんまり食べたくない。テレビを見ても、芸人の人たちレベル下がった? って勘違いするほどつまんない。

 遅いのに帰って来ない。
 どこにいるのかわかんない。
 誰と一緒にいるのか知らない。
 時計を見てたら、二本の針がぼやけて滲んでぐんにゃり曲がった。急に目が悪くなったわけじゃなくて、超能力が備わったわけでもない。そんなこと、よーくわかってる。

 きっと嫌われたんだ。片付けが下手で、苦手なメニュー作って、いちいち反抗して、ちっとも可愛くない妻なんて誰だっていらない。いらないんだ、きっと。私だって嫌い。あんな言い方する人嫌い。嫌い嫌い嫌い。
 狭い2DKなのに、広くて寂しい。そう思った時、がちゃがちゃとドアノブの回る音がした。立ち上がりもしないで、玄関から入って来たその人を見上げる。

「何泣いてんの」
 チラリと私を見て鞄を乱暴に床へ置いた彼は、スーツの上着を脱いでダイニングテーブルへ向かった。
「ごはん」
「え」
「外で食べても美味くないんだよ」
 ネクタイを外しながら椅子に座った彼は、ふてくされたように頬杖をついた。少しだけ待たせたあと、温めたスープをお皿に乗せて彼の前に差し出した。昨夜とおんなじに。
「……はい」
「ふつー今ここで、それ出すか?」
「……」
「スプーン!」
 舌打ちをしながら呆れ顔で右手を出した彼に、大き目のスプーンを渡す。ひったくった彼はスプーンを金色のスープで満たし、セロリを乗せて口へ運んだ。
「あー美味しい! ほんっとマジで美味しいね、これ!」
「だから美味しいって、言ったでしょ……!」
 眉をしかめて不味そうな顔で頬張る彼に、涙を拭いて負けじと大きな声を出した。
「フミコってほんと可愛くない」
「知ってる」
「……でも好きなんだけど」
「それも、知ってる」
 彼はスピードを緩めずに、スープを口へ入れ続けている。
「私だってシンくん、大好き」
「……知ってるし」

 テーブルの上に残ったのは、がちゃんとスプーンを置かれたカラのお皿だけ。食べ終わった途端、私を離してくれない彼の腕の中で次のメニューを考える。
 ピーマンのサラダ、アスパラのフリッター、茄子のカレー。
「全部食べてね?」
「? もう食べたけど」
 ふふふと笑ってストライプのYシャツに顔を押し付けると、何も知らない彼は一緒に笑って、おでこをコツンと私の額へぶつけてきた。

 二日ぶりのキスは、優しいセロリの味がした。








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