じじじ、という音が遠くから聞こえた。
 眠い目を擦って瞼を上げると、火の点いた蝋燭の下で兄が本を読んでいる。そういえば嵐のせいか停電になり、眠る前に電灯が消えてしまったのだった。
 今月に尋常小学校を卒業する彼は、中学入学に備えて毎晩のように遅くまで勉強に励んでいた。今夜もそうなのだろう。座卓の前で正座をする薫の背中に問いかけた。
「お兄様、まだ眠らないの?」
 糸子の声に驚いた薫は、本を閉じでこちらを振り向いた。
「ごめん、糸子。起こしてしまったね」
「よいの。糸子、その音が好きだから」
「音?」
「蝋燭の芯が燃える音」
 そうか、と言って薫が微笑んだ。
 本当は蝋燭の音よりも、お勉強をなさっているお兄様の姿勢正しい背中が好き。優しく笑いかけてくれるお兄様が……と言おうとして目が覚めた。

 離れた場所に蝋燭が灯っている。
 目を擦ろうとしても両手が動かない。糸子が横たわっている場所は畳の上のようだった。勉強をしていたはずの兄の姿はない。いや、違う。今のは夢だ。彼は中学などではなく大學に通い、そして夏の休暇だと言って家に帰ってきたばかりだ。直後に母が亡くなり……私たちは人魚の肉を食べた――
 そこまで思い出した糸子は目を見開き、辺りを見回した。建物の中だということはわかるが、あまりに薄暗く、隅々まではよく見えない。堂島家の洋館とは全く違う、かび臭さと、すえたような臭いが漂っていた。頭はがんがんと痛み、喉はからからに乾いている。食堂で倒れた薫はどうしただろう。傍にいるのかもしれない。
「お兄様? お兄様……!」
 呟いてみるが何の返事もなかった。後ろ手にされた手首は縄か何かで縛られているらしく、動かす度に擦れて痛みが走る。
「どうして、こんな、ことに……! んっ!」
 力をこめても外れなかった。両足首も同じように縛られていることに気付いた。畳の上を体を動かし、ずりずりと寝返りを打とうとした時だった。
「お目が覚められたようで」
 後ろから掛けられた低い声に、糸子は思わず、ひっ、と肩を縮ませた。足音が近づく。声の主であろう者が糸子の前に回り込んで正座をした。薄鼠色の着物が目に入る。
「このまま眠り続けられるのかと肝を冷やしましたが、ようございました」
「だ、誰……!?」
 顔を上げると、腰の曲がった髪の白い老婆がこちらを見下ろしていた。微かな灯りに照らされた、笑うでもなく怒るでもない無表情の顔は、深い皺に覆われている。
「マサと申します」
 しわがれ声が室内に響いた。堂島家では見たことのない老婆である。
 人魚の肉、と言われたものを食べて眠気が起こった糸子は薫とともに食堂で倒れた。執事の大野が自分を抱き上げ、歩き出したところまでは覚えているが、そのあとの記憶が全くない。
 とにかくここを出て、兄のもとへ急がねばならない。勝太郎に何をされるか、わかったものではない。
 糸子は老婆の顔を睨み付けた。
「ほどいて」
「……」
「どういうことなの? これをほどきなさい……!」
「大きなお声を出さぬように。旦那様に、ご迷惑が掛かります」
 マサは全く動じない様子で答えた。旦那様、というのは堂島男爵のことであろうか。
 格子窓から生温い風が入り、蝋燭の火が揺れた。
「ここは、堂島家の中なの」
「いいえ。ここは男爵様のお邸から遠く離れた漁村にございます」
「漁村?」
「あなたは人魚さまだ……!」
 老婆は突然、かっと大きく目を見開いた。驚いた糸子は息を吸い込み、マサの言葉を否定するために首を横に振った。
「何を言っているの? 私は人魚さまなどではありません。私は」
「あなたは人魚さまです。人魚の肉を口にされたのでしょう」
「……」
 何故そのようなことを、この老婆が知っているのか。
 意識を失う直前、正妻の八重子は、人魚の肉の在処を母が教えなかったと言っていた。あの呟きが本当であれば、糸子は人魚の肉を食べてはいないことになるが、糸子は答えず、ただ体を左右に動かし続けた。
「私は、お兄様のところへ行かなければ。これをほどきなさい。ここから出して!」
「なりませぬ。これより三月三晩が経ち、お務めを終えられるまでは、この村を出ることは叶いませぬ。終われば、あなた様の大切な方とお会いできましょう」
「お務めとは何? 何故、私がこんな目に遭わなくてはならないの」
「翌朝、日が昇ってからゆっくりお話しいたしましょう。あなた様がお逃げにならないとお約束なされば、今すぐその縄をほどいて差し上げます。その後、皆で大切に扱わせていただきますが、如何か」
 糸子は返事の代わりに口を引き結んだ。
「ではそのままに。お休みなさいませ」
 畳から降りたマサは草履を履き、蔵の中を歩き出す。横たわる糸子の背後で、扉を開閉する滑りの悪い音がした。
 静まり返った蔵の中で響くのは、夢の中で聴いた、じじじ、と蝋燭の芯が燃える音だけである。
 人魚の肉が見つからないからと、何故こんな目に遭わされなければいけないのか。母は堂島家の犠牲になったのか。そして薫は。
「お兄様……」
 兄がどうしているのだろうと思うだけで、糸子の目には涙が溢れた。頬を流れる涙の温度は薫の温かい手を思い出させた。糸子の涙を拭ってくれた……愛しい指を。
 小さな格子窓の向こうに、墨色の雲から現れた月が煌々と輝き、蔵の中へ淡い光を落した。


 ひやりとした空気に体が震え、糸子は目覚めた。
 蔵の中が薄明るい。元気な小鳥の鳴き声が耳に届く。朝が来たのだとわかった。
 蝋燭は消えていたが、昨夜とは違い、蔵の隅々までよく見える。糸子が横たわっているのは二枚並べて敷かれた畳の上だった。壁際に巨大な階段箪笥があり、その横には古い桐箪笥が四棹、埃を被る大きな長持ちが五つ置かれていた。紐でくくられた、数えきれないほどたくさんの木箱が、所狭しと積まれている。その他に古い衣紋掛けや、使われていない平机などがあった。高い天井近くの小窓には雀が二羽とまっている。
 八重子は薫の食事に痺れ薬を入れていた。糸子には眠り薬だったのだろう。薬の作用が抜けきらなかったらしく、昨夜老婆が出ていったあと、糸子は再び眠りに引きずり込まれていた。
 ようやく眠気が取れ、心も体も意識がはっきりした糸子は下半身をもぞもぞとさせた。
「どうすればよいと言うの。手も足も使えないのに……」
 蔵の中には用を足す場所などない。ここに来るまでの間、そしてここに来てから何時間経っているのもわからないが、長時間ご不浄を訪れていないのは確かだ。
 我慢が限界に近づいた糸子は目に涙を溜めて堪えた。マサと名乗った老婆は朝にここへ来るのではなかったか。
「だ、誰か」
 マサが旦那様と呼んだ人物が、この蔵の所有者ということは、母屋はお邸のはずだ。老婆の他にも使用人がいるであろう。
「誰か……!」
 糸子の大きな声と同時に、ぎぎい、と蔵の扉が開いた。朝日が入り、蔵の中は眩いばかりに照らされた。
「朝飯にございます」
 盆の上に茶碗を乗せたマサが入ってきた。
「いらないわ。それより早くここから出して」
「なかなか強情でいらっしゃる」
 明るい中で見る老婆の顔は、やはり無表情に見えた。
「ご不浄へ行きたいのよ。このままでは、ここで粗相をしてしまいます」
「なさればよろしい」
「!」
「逃げ出さないとお約束いただければ、縄を解いて、ご不浄までお連れいたします」
 この老婆だけならば何とかなるかもしれない。糸子は頷き、顔を伏せた。
「……わかりました」

 縄をほどかれた糸子は老婆と共に蔵を出た。先導するマサと共に大きな日本家屋へ通される。正面玄関ではなく、裏の使用人が使う玄関だった。土間から上がり、板張りの狭い廊下を進む。両側は女中部屋のようだ。糸子は廊下の突き当りにあるご不浄に入った。マサは入口で待っている。
 用を足し終えた糸子は元来た廊下をマサと戻った。裏玄関で草履を履いた、その瞬間。
 着物の裾をまくった糸子は駆け出した。どこへ行ったらよいかはわからないが、逃げ出すならば今しかない。
「待て!」
 マサの声が糸子を追いかける。しかし老婆の足では追いつけないであろう。糸子は蔵の方向とは反対へ走った。屋敷の裏に茂る雑木の間を抜け、外に繋がりそうな垣根を見つけた。あそこまで走れば恐らく、この敷地内から出られるはず。息を切らして垣根に手を触れた。しかし安堵の息を吐くまでもなく。
「あ!」
 ぐいと二の腕を掴まれ、後ろへ倒れそうになった。
「いけませんな。お務めまでは大人しくされていませんと」
 その声は老婆ではなく、知らない男性のものであった。掴まれた大きな手を振りほどこうとしても、びくともしない。
「いや!!」
「これ、暴れるでない」
 振り向いて男を押しのけようとしたが、かえって体を引き寄せられてしまう。顔を上げると、髭の濃い毛むくじゃらの男が糸子の両腕を掴んでいた。全身に鳥肌が立ち、糸子は大声を上げた。
「放して!! 誰か助けて!!」
「やれやれ、威勢の良い人魚さまだのう。うるさい口は塞いで差し上げなさい」
 追いついたマサだった。糸子は男の手拭いで猿ぐつわをされ、後ろから両腕を押さえつけられた。突き飛ばされながら草の上に腰を下ろす。息が苦しく、叫びたくとも呻き声しか発することはできない。マサが糸子の前にしゃがむ。形のよい糸子の顎を、しわくちゃの手で持ち上げながら言った。
「ここにあなたの味方など誰一人いない。それをよくよく心に留めておくことですな」
「!」
「蔵へ戻しなさい。お前も一緒に行っておやり」
 マサは傍に来ていたもう一人の男にも声を掛けた。

 男らに連れられ、蔵に戻った糸子は両手両足を再び縛られた。昨夜と同じように畳の上に寝転がる。一人になった糸子は考えた。
 ここを出る為には、自分の置かれた状況をよく知らなければならない。
 昨夜マサが言っていたことを思い出す。老婆は堂島家のことを知っていた。糸子が人魚の肉を食べさせられたことも。一体誰がこのような場所まで自分を連れてきたのか。兄はどこにいるのか。自分と同じように、この敷地内のどこかにいるのだろうか……
 ひたすら頭の中で考え、うたた寝をする、を何度か繰り返しているうちに数時間が経ち、いつの間にやら部屋が薄暗くなっていた。
 朝と同じように軋んだ音をさせて扉がひらく。
「夕飯にございます。今度こそお召し上がりください」
「教えて。何故私はこのような場所にいるの。そして人魚さまのお務めとは一体何のことなの」
「お食事をされながらお聞きください。衰弱されてはかないませぬ」
 盆を置き、蝋燭へ火をつけたマサに向かって糸子が小さな声で申し出た。
「逃げられないのは……今朝のことでよくわかったわ。だから縄をほどいて。ご飯が食べられません」
「よろしいでしょう」
 マサは懐に手を入れ、小刀で糸子を縛っている縄を切り、ほどいた。起き上がった糸子は正座をして、差し出された茶碗を手に持った。粥の香りが空腹を刺激する。「お務め」をする私に死なれては困るのだろうから、毒が入っているようなことはないだろう。糸子は心の中で呟き、箸で粥を口に入れた。
「あなた様の母、純子は、この村から逃げ出した者」
 味のない粥を啜っていた糸子は、マサの呟きに箸の手を止めた。
「純子の父親、あなた様の祖父にあたる弥一(やいち)が人魚さまを捕まえ、肉を手にした。この地には遠い昔、人魚さまが現れ、その肉を口にした者が不老長寿になったとの言い伝えがある。現に、人魚さまに関係するものが残されております」
 母がこの村から逃げ出した……?
 堂島家の正妻、八重子も、母が村から出て野垂れ死にしそうになったと言っていた。
「人魚さまの肉は大変価値のあるものだ。売れば相当の値段が付くだろう。弥一はまず、身近な知り合いに人魚さまの肉を食べさせ、不老長寿になれるかどうかを確かめようとした。だが、皆死んでしまった」
「死んで……? 人魚さまの肉は不老長寿の妙薬なのでは?」
「強い薬は毒にもなると聞くが、そもそも弥一が手にしたものは本当に人魚さまの肉だったのだろうか。そのような疑問が村人の間に起きた。何しろ、弥一以外は人魚さまを見ていなかったのだから」
 マサは急須で湯呑に茶を入れ、糸子に差し出した。
「その後、弥一はホラを吹いた罪人として妻と共に海へ沈められた。しかし、同居していた弥一の父親と弥一の娘、純子が見当たらない。村人総出で探したが、翌日見つけたのは浜辺で倒れ、既に息絶えた弥一の父親だけであった」
 糸子は罪人扱いをされた顔も知らない祖父母を思った。人魚さまを捕まえたなど、信じ難い話である。
「あなたさまの母は行方不明となった。幼い足で村のどこをどう抜け出たのか、誰にもわからなかった。そして月日は流れ……我々のもとに堂島男爵家から純子が見つかったとの情報がもたらされた」
 八重子は純子を探していたと言っていた。この村と堂島家は元々繋がりがあったということだろうか。質問しようと茶碗を置くと、マサがごそごそと袂を探り始めた。
「これを。その茶で飲んでくだされ」
 三角に折られた白い紙を差し出す。薬のようである。
「これは?」
「人魚さまの鱗をすり潰して粉にしたものです」
「人魚さまの、鱗?」
「古くからこの村に伝わる貴重な薬。人魚さまとなられた方に必要な滋養。お務めには欠かせないものでございます」
「……」
「私が味見すればよろしいか」
 折られた紙を広げたマサは、中央に集まっている白い粉に小指をつけ、それをぺろりと舐める。
「立派にお務めを終えれば、あなたは自由です。さあ、残りはあなた様がお飲みください」
 マサが口にした自由、の言葉と、彼女が自ら毒見をしたことに促され、糸子は白い粉を舌に乗せた。
「いかがです」
「ええ。甘い、わ」
 ほわりと溶ける甘さは嫌みのない上品な味だ。生前の父が土産にもらってきた上等の和三盆のそれに似ている。
「それはようございました。これからは毎食後に必ずお飲みくださいませ」
 温くなった茶を啜った糸子は、小さく息を吸ってから、マサに尋ねた。
「務めとは何のことなの。私が人魚さまだなどと、おかしなことを言うのは何故。私は何のために、このような場所にいるのです」
「あなた様は人魚の肉を食べられた貴重なお方。この村では、そのような方を人魚さまとお呼びするようにと言い伝えに残されている。そして……人魚さまと交わった者は不老長寿の力を分けてもらうことが出来るのだと」
 あまりにも淡々と語られるおぞましい話に、糸子の体が震え出した。
「交わ、る……?」
「人魚さまと村の男衆全員が交われば、村の繁栄は約束されたも同然。ここにいらした日から数えて三月三晩後に儀式が執り行われますゆえ、そのおつもりで」
「儀式などと……それは、贄と同じではないの」
「お察しがよろしいようで」
「や、やめ、て……そのような、こと」
 力の抜けた糸子の手を離れた湯呑が、畳の上に転がった。糸子は咄嗟に立ち上がろうとしたが零れた茶に足袋が滑り、その場に転んでしまった。すかさずマサが糸子の上にのしかかる。
「どいて! 誰か、誰か助けて! 私は人魚さまの肉など食べていない! 人魚の肉は見つからなかったと奥様が……きゃ!」
「食べたのです……! 男爵夫人のお言葉は真であり、覆ることはない!」
 老婆とは思えないほどの強い力で、糸子は頭を持ち上げられる形で髪を引っ張られた。
「う……」
「あなた様がお逃げになれば、大切なお兄様を傷つけるどころか、殺さねばならなくなる」
「お兄様、は、どこ、に」
「堂島家におられます。あなた様が、よい場所へ花嫁修業に行かれたと思われている。あなた様が人魚さまとしてお務めを終えれば、お兄様に危害を加えることもなく、あなたが堂島家へ帰ることもできよう」
 髪を放したマサは、糸子を見下ろして醜い笑みを浮かべた。
「これは堂島家とのお約束。従うしか道は残されておりませぬ」
 出会ったばかりの得体の知れぬ老婆の話など、信じたくはなかった。
 しかし、そのような思いとは裏腹に糸子の胸は霞が晴れたかのようだった。自分も兄も知らずにいた母の過去は、堂島家で八重子が放った言葉の意味と、マサの話がひとつに繋がり、くっきりと浮かび上がったのだ。
 マサの話が本当であるのなら――ここから逃げ出すのは不可能である。
 糸子が逃げ出せば兄が酷い目に遭うと言う。恋しい人の命が絶たれることなど、あってはならないのだ。たとえ自分がどのような目に遭ったとしても。
「さて、入浴へ参りましょう。ご案内いたします」
 声色を変えたマサに従い、考える力の無くなった糸子はふらりと立ち上がった。
 蔵を出ると、糸子の隣にも後ろにも、今朝彼女を取り押さえた男二人が、ぴったりとついて来た。
 どこからか、ざざあという波の音が届いた。すぐ近くにあるのだろう海を辿れば、堂島家の裏から見えた海に着けるのだろうか。堂島家にいる薫に、会えるのだろうか。

 屋敷の裏へ目を向けると、連なる山肌が薄紅色に染まり、茜の空を海猫が飛び交っていた。