薫はうつ伏せになっている糸子の膝を折らせ、腰を高く上げさせると、彼女の浴衣のすそをまくり上げた。妖艶な白さを放つ臀部が寒さに震える。薫はその肌を吟味するように指の腹で、じっくりと撫でさすった。
「お、お兄様……」
 縛られたことによる動揺から、糸子は蚊の鳴くような声で兄を呼んだ。
「堂島家で奴らに使おうと用意していたものだが、結局まっさらなままだ。どこも汚れていないし、誰にも使っていないから、安心おし」
 噛み合わない答えを囁かれ、糸子の胸に不安が広がる。
「そうではなくて……どう、なさったの……? こんな恰好、恥ずかし、い」
「嫌がっている割には涎が止まらないようだよ? 糸子のここは」
「あう! あ、あぁ」
 後ろから長い指を挿れられ、内を腹の方へ押された。つい先ほどまで薫の硬い根を咥えていたせいだろう。彼の指を呑み込んだ蜜穴が、大きな快感に戦慄いた。
「ほら、どうだい、糸子」
「あ、ひぅ、お兄、さ、ま」
 糸子の持つ幼い美徳など、肉の内で蠢く兄の指に委ねた快感の前では容易く崩れてしまうのだ。腰の後ろで手首が結わかれている為、布団へ肩を押し付け体をうねらせる形で糸子は身悶えた。
「あ、ひぅ、お兄、さ、ま」
「僕が欲しいのか、糸子。言ってごらんよ」
 妹の股座に兄の荒い息がかかる。すぐ傍で見られているという羞恥と興奮が、糸子を一層昂らせた。
「いやぁ……見ないで、え……!」
 首を横に振ってみるが、薫は一向に指の動きを止めない。ぐちゅぐちゅという水音が部屋中に響き渡り、糸子の口の端からも唾液が流れた。
「ねえ、糸子」
 指が抜かれ、準備を始めた兄の、衣擦れの音が聞こえた。崩れ落ちそうになる腰をどうにかそのままにして、吐息と共に返事をする。
「は、い」
「お前が言ったのだよ。糸子を、僕のいいようにしてくれと。そうだよね?」
「ぅあっ!! あ……ああぁ!」
 一息ついたのも束の間、ずぐりと後ろから大きなものを挿入され、嬌声が押し出される。糸子の内肉を味わうように、薫は自身をゆっくりと引き抜いた。が、次の瞬間、遮二無二、滴る蜜奥を突き始めた。
「あ、ああっ! は、あぁあ!」
 奥を抉られるとてつもない快感と、肌のぶつかる音とがない交ぜになり、糸子の感覚を次第に狂わせてゆく。
「返事を、おし、糸子……!」
「ぁあ、っう、い、言いまし、た」
 乱れた髪が汗ばんだ糸子の頬へ垂れ、貼りついた。
「では、いいんだね……?」
「あっ、お兄様、の、いいようになさ、って!」
「糸子!」
 烈しく腰を打ち付けてくる兄の喘ぎ声が、糸子の頭上へ降ってくる。汗と体液の匂いが混じり、糸子は既に気をやりそうな状態であった。
「あ、ああ、いいよ、糸子。こんなにも強く吸い付いて、そんなに、僕が欲しいの」
「欲しい……お兄、様」
 はしたない糸子の呟きに薫は悦んで応え、彼女の内へ欲情の証である精を存分に放った。

 その後、不自由だろうからと、糸子の後ろ手に縛られていた縄を解いた薫は、彼女の両手を前にさせ、今度は赤い腰ひもで糸子の両手首を縛った。
 朝から一日中といってもよいくらい、薫は糸子の体を求め続けた。口も利けぬほど、くたくたに疲労した糸子は、夕飯前に気を失うように眠ってしまった。
 夜明け頃、糸子は下腹の疼きに目を覚ました。かろうじて浴衣は着ているようだが、両手はまだ縛られていて自由にならない。
「お兄様」
「……」
「ごめんなさい、お兄様。起きてくださる?」
「ん……? どうした、寒いのかい」
 二度目の声掛けに反応した薫が、掠れた声で糸子に応えた。灯りを点けなくとも、部屋の中は少しずつ明るくなっていた。
「そうではなくて、あの……ご不浄に行きたいの」
 か細い声で乞う妹へ、ああ、と頷いた薫は起き上がって、一人で部屋を出た。兄も用を足したかったのだろうかと考え始めた糸子の元へ、間もなく戻ってきた薫が言った。
「まだ冷えるからね。ここにおし」
 風呂場から持ってきたのだろう、木桶を畳の上に置く。その様子を見た糸子の頭が、かっと燃え上がった。
「そ、そのような所になど、できません……!」
 震える唇で抵抗する糸子を見ても、これがさも当たり前であるかのように薫は全く動じていない。何故か、三面鏡の扉を大きくひらいて、満足そうに頷いている。
「僕にだけは何でも見せると言ったじゃないか。さあ早く。粗相してしまうよ? ああ、縛られていては、よろけてしまうよね。今だけ解いてあげよう」
 横たわる糸子の背中に手をやった薫は彼女をゆっくり起こし、手首に食い込む腰紐を解いた。
「可哀想に、こんなに手首が真っ赤になってしまった。今度はもっと優しく縛ってあげるからね、堪忍しておくれ」
 甘く優しい声で糸子を宥めた薫は、彼女の背後へ回り込み、立て膝になった。無言で糸子の浴衣のすそを大きく割り、両膝の裏に手を差し込み、持ち上げる。
「きゃ」
 露わになった糸子の股座は大きくひらかれ、木桶の前に差し出された。その向こうに三面鏡があり、糸子のあられもない姿がしっかりと映っている。
「駄目、こんなの……!」
 一人でゆまりの出来ない幼子が、母にされているような恰好である。
「とても綺麗だよ、糸子。見てごらん」
「いや、いや」
 下半身が冷たい空気に晒され、すうすうしている。その刺激のせいか、糸子の気持ちとは裏腹に我慢が限界を超えようとしていた。
「弄られたいのかい。ひくついているよ」
「え」
 思わず顔をあげると、鏡に映る赤く熟れた柔肉はぬらぬらと妖しく光り、欲を求めて勝手に動いていた。鏡の中の薫と目が合ってしまい、気も狂わんばかりの羞恥に糸子の決壊は崩れ、同時に生温かい液体が零れ出してしまった。
「あ! 見ないで、お兄様、やぁ……!」
 一度溢れ出せば遠慮がなく、黄金の水は音を立てて木桶に溜まってゆき、独特の臭いが鼻を撫でるのだった。
「はな、放して、あ、うう」
 鏡から顔を逸らしても、ゆまりは止まらない。部屋の中という閉鎖的な空間では、泉で粗相をした時とは比べ物にならないほどの衝撃に襲われた。
 放出を終えた糸子は、どうにか兄の手を逃れようと体をひねってはみたが、動かせてはもらえなかった。
「どうしたの? まだ出るのかい」
「ちり紙、を」
「そんなものいらないよ。僕が舐めてあげるんだから」
「え」
 仰向けにさせられた糸子の太腿の間に、薫が顔を埋めた。
「以前も綺麗にしてあげたのだから、いいだろう」
「いや、あ、あ、あぁ!」
 敏感になっている濡れた部分と陰核を同時に舐められ、あっという間に悦の奈落へと引きずり込まれた。
「おや、いってしまったのかい、糸子」
 四肢の先まで震わせている糸子へ、薫が覆い被さった。
「うっ、うう……」
 情けなさに涙が溢れ、嗚咽が零れる。涙がぽろぽろと頬を流れた。
「何を泣くことがあるんだ。どこか痛むの?」
「違う、の。き、嫌いにならないで、お兄様」
「どうして僕がお前を嫌いになるの」
「だって、こんな、こんな、私ってとても、愚かしいのだわ」
「お前は愚かしくなどないよ。僕が糸子を嫌いになるわけがないじゃないか。お前は僕の宝物だよ、僕、の」
 言葉の途中で、薫が苦しそうに顔を歪めた。二、三度頭を横に振り、糸子の肩へ項垂れる。
「どうなさったの? お兄様」
「……何でもない。ちょっと、頭が痛むだけだ」
「お医者様に、」
「必要ない。心配しなくていいよ、糸子」
 糸子の涙を優しく拭った薫は、彼女の隣で横たえ、大きく深呼吸した。

 翌日から、糸子がご不浄へ行く時は薫も同行し、用を足し終えると薫が丁寧に後始末をした。風呂の時も同様で、彼は糸子の髪と体を洗い、温め、慈しんでくれる。糸子は自分がまるで赤ん坊にでもなった心持ちであったが、部屋へ戻れば薫に体を求められ、大人の女としての幸せも心ゆくまで味わうことが出来た。
 ご不浄と風呂以外は部屋から出してはもらえなかったが、それが何だというのだろう。糸子にとって薫に支配されるこの蜜月は、至福以外の何ものでもなかったのだから。


+


 この部屋で過ごし始めて、七日が経った。
 薫は相も変わらず糸子が部屋の外へ出るのを嫌がるので、大人しく従い、今は薫の帰りを待っている。豆腐を買ってくると家を出た兄が、なかなか戻らない。昨日、電報か手紙が届いたようだが、それが関係しているのだろうか。内容は、大學から年末年始の知らせが堂島家に入っただけだと、薫が教えてくれた。それを大野が薫に知らせと言う。
 木枯らしの吹く夕暮れ時は寒さが厳しく、糸子はじっと七輪の傍に身を置いていた。薫と一緒にいられるのは幸せだが、やはり常に不安が付きまとう。糸子の居場所を探す警察に、あの漁村のことが知れれば、薫が言うように彼の所業が知られてしまうだろう。離れ離れにさせられてしまうくらいなら、今すぐにでも心中したほうが良いのか……
 大野は堂島男爵の処分をどのようにしたのだろう。兄は何も知らないのだろうか。
 様々なことを考えていた糸子は、ふと股座に濡れた感触を覚えた。
「え……?」
 失われたと諦めていた、久しぶりの感覚である。
 右の足首に縛られた腰紐は柱に繋がれている。長めであるから部屋の中は自由に歩き回れるが、薫が帰ってくるまで解かれることはない。両手首も縛られている為、濡れた場所を触って確認することもできない。下半身をもぞもぞとさせた時、玄関の開く音がした。
 間もなくして薫が部屋へ入ってきた。
「ただいま。悪かったね、遅くなって」
「……お帰りなさい」
「どうした? 元気がないようだが。……風邪でも引いたかな?」
 眉根を寄せた薫が糸子へ近づく。彼は冷たい手のひらを糸子の額へつけ、熱を確認した。
「熱はないね」
「お兄様、私……」
「ん?」
「私、月のものが」
 そこまで言って、糸子は、はっとした。
 確認をして、本当に月のものが来ていたとしたら。自分の体に薬の影響が無かったことは単純に喜ばしいことだろう。だが、兄は……?
「……そうか」
 頷いた薫は、糸子の手首の紐を解き始めた。
「良かったじゃないか」
「本当に、そう思われる?」
「当たり前だよ。お前の体が何ともなかったんだ、これほど嬉しいことはないさ」
 薫は糸子の足首に巻かれた紐にも手を掛けた。
「今日はもう、手も足も解いておこう。糸子が自分の都合のいい時に、ご不浄へ行けばいい。こればかりは男の僕には、よくわからないからね」
「……はい」
 自由になるのは嬉しいが、薫との繋がりが消えたように思え、糸子は不思議と心細くなった。

 その夜、布団に二人で寝そべり、眠りにつくまで他愛もない話を続けた。薫はその間、じくじくと痛む糸子の下腹をゆったりと撫でてくれていた。
 薫が大學で知った様々な事柄、糸子の女学校時代の友人の話、幼い頃に家族で訪れた避暑地の思い出、眠る前に二人で読んだ本の題名、縁日で買った甘く美しい細工飴のこと。懐かしく語るそれらは二人が自ら紡ぎ出した走馬燈のようであり、限りなく優しい時間であった。
 翌朝、目を覚ました糸子の隣に……薫の姿は無かった。



 それは、糸子の勘であった。
 ――僕が桜の下に……人魚さまの肉を埋めていたら、どうする?
 兄と交わっている最中に聞いた言葉を、糸子は快楽の境地に置き忘れていたのだ。兄のいない家で探してはみたものの、人魚さまの肉は見当たらなかった。そもそも、二人で見つけた人魚さまの肉の入った甕は、地下室で見つけた後、どうなったのかを知らない。薫も口にはしなかった。だが人魚さまの肉が、まだ堂島家にあるのだとしたら……

 鉄道に乗り、堂島家のある駅で降りる。駅前にいた俥夫を捕まえた。兄の所業がどこから漏れるかわからない。糸子は用心の為に、堂島家の森の少し手前で俥から降りた。
 動きやすいようにと、女学校で着用していた袴に短靴を履いてきた。森の道を早足で進む糸子は、懐と袂に手を置き、それらを確認しながら考えた。
 何故、月のものが来たのだろう。いや、何故それを兄へ伝えてしまったのだろう。
 妹は兄と同じ憐れさを持つことは無くなった。薫はそれに気づき、絶望したのではないだろうか。
 彼の絶望と、堂島家にあるかもしれない人魚さまの肉が、どういうわけか糸子の中で繋がり、胸騒ぎを起こしている。

 堂島家の敷地内に入った途端、きな臭さが鼻を突いた。顔を上げると、洋館から細く黒い煙が上がっている。と、見る間にそこから炎が上がった。
「どうしたというの……!?」
 糸子は館へ向かって走り出した。
 館には大野と堂島男爵がいるはずだ。そして薫は……
「お兄様!? お兄様、いらっしゃるの!?」
 館へ近寄ろうとしても、大きくなる炎の酷い熱さで、どうにもならない。ぱちぱちと爆ぜる音とともに、二階の窓が割れて落ちてきた。
「きゃ!」
 急いで館から離れて門へ戻り、道に出て人を呼ぼうとした、その時だった。
「あれは……、お、お兄様……!?」
 二人でよく散歩をした裏の崖へ出る道を、歩いている人がいる。黒い外套が、ばたばたと風にたなびいている。
「お兄様、お待ちになって! お兄様、お兄様!!」
 嫌な予感がおさまらない。
 燃え盛る火を点けたのは薫なのか。そうして一体、崖の上で何をしようとしているのか。
「お兄様!! お兄様ああ!!」
 糸子はきつい坂道を懸命に走り、愛しい人を呼び続けた。早足の彼は一度も振り向かず、とうとう崖の天辺へ辿り着いてしまった。
「待って、お兄様!!」
 びくりと肩を震わせた薫が、ようやく立ち止まる。勢いのままに崖から落ちるのかと危惧していた糸子は、息を切らしながら、ほんの少しだけ安堵した。
 あと十歩ほど進めば兄に触れられる場所まで来た時、くるりと薫が振り向いた。
「お兄、様」
「大野、糸子を押さえて」
「かしこまりました」
 すぐ後ろから聞こえた声とともに、糸子は両腕を後ろから押さえられた。
「お、大野さん!? 放して! お兄様、どうなさったの!? どうして、こんな」
「堂島男爵に人魚さまの肉を食わせたが、彼は死んだよ。だから僕は洋館ごと男爵を燃やした。この紙に書いてあった通り、人魚さまの肉で不老長寿になった者などいなかったんだ」
 糸子の声を遮った薫は、ポケットの中から古い紙を取り出した。
「その紙は、人魚さまの肉が入っていた甕の……?」
 糸子に見せず、薫が丸めてしまったものだ。
「これは曽祖父殿が書いた紙だ。曽祖父殿は、マサが毒を盛った肉以外の、何もしていない肉も村人に食べさせたらしいが……全員即死だったと、ここに書いている」
「全員……?」
「はははっ、馬鹿馬鹿しい。人魚さまの肉は、まごうことなき猛毒であり、不老長寿になった者などいなかったのさ。だが僕はね、ほら、お前が言った彼岸花だよ。人魚塚に咲くあの花を見て、富張の桜の樹でも確かめてみたんだ。桜の花を見た僕は、一縷の望みをかけて堂島男爵に肉を食べさせるよう大野に頼んでおいたが、どうやら効くのは植物だけだったようだね。やはり伝説は伝説だったのだよ、糸子……!」
 薫は右手に紙を、左手には人魚さまの肉の入った甕を持っている。
「お兄様の望み、って……?」
「人魚さまの肉を食べて体を治せば、少しでも長く糸子と一緒にいられるかもしれない。そうしてね、心中する代わりに、どこかへ二人で逃げるのもよいなどと、あらぬ夢を見てしまったんだ、愚かな僕は」
「お兄様、やっぱりどこかお体が悪かったの?」
「戸田に打たれた注射で、体がおかしくなってしまったらしくてね。お前に感づかれないよう隠していたが、日々を追うごとに調子が酷く悪くなっている。もう、長くはないだろう」
 自嘲気味に笑った薫は紙を捨て、甕の蓋を開けた。蓋は海へ放り、甕の中へ手を入れる。
「それをどうなさる、の」
「糸子、堂島男爵の財産は全て、お前が手にするようになっている。何も心配はない」
 一切れ肉を出すと、残りの肉が入った甕も、また海へ投げ捨てた。
「お兄様も、一緒でしょう!?」
 大声を張り上げて、頭に浮かんだ最悪の事態を否定する。
「お前は生きるんだ、糸子。お前の体が戻ったのも、お前に生きろと言う神の思し召しだろう。……大野、糸子を頼んだよ」
「……はい」
 低い声で大野が返事をする。
「嫌よ! お兄様も私と一緒でなくては嫌!!」
「僕は殺し過ぎた。長く生きる価値はない」
「あ……」
 優しく微笑む兄の表情に、糸子の瞳から涙が溢れ出した。
 幾度も幾度も見た、妹を思う翳りを含んだ悲しげな瞳。
 胸が痛い。痛くて痛くて、たまらなく切ない。
「ありがとう糸子。大好きだよ。お前と過ごしたこの数日間、本当に幸せだった。死んでも僕は、お前だけのものだ」
 冷たい潮風が吹く。頭上でカラスの鳴き声が、ぎゃあぎゃあと響き渡った。まるで薫を迎えに来たかのように。
「いや!!」
「誰も幸せになどしない人魚さまの肉は、これでもう、終わりだ」
 握っていた肉を口へ入れた薫は、両手を広げて空を仰いだ。
 ――お兄様が、死んでしまう。
「お兄様……!! 放して、放してえっ!!」
 糸子は全身の力を振り絞って体を揺すり、袂へ手を突っ込み、用意していた鞘のない小刀を大野へ思い切り突き刺した。
「あ、ぐうっ!」
 大野の手の力が弱まり、彼は膝を地面に着いた。彼のズボンの太腿には、糸子の手を離れた小刀が突き刺さっている。
「い、糸子様……! う、うう」
「一人でなど逝かせない!! 私も食べるのよ、お兄様!!」
 兄が崖の天辺から姿を消した。
 駆け出した糸子は、今度は懐から肉を取り出した。それは堂島家の地下で、戸田の実験に使われていた部屋で見つけた、甕に入った人魚さまの肉である。彼女は何かあった時の為にと、ほんの少し拝借していたのだ。
「待って!!」
 糸子は人魚さまの肉を口へ頬張りながら、海へと落ちてゆく薫へ向かって、崖の上から飛び降りた。
「糸子……!」
 海原へ吸い込まれる薫が、こちらへ両手を伸ばした。人魚さまの肉を呑み込んだ糸子も必死に薫へ手を伸ばし、海面に落ちて飛沫を上げた彼に……続いた。

 ――私が人魚さまだったら、恋しい人を追いかけて、どこまでもついてゆくわ。
 ――本当よ。お兄様の為なら私……



 冬の海へ飛び込んだはずなのに、舌が、喉が、熱い。
 体が灼けてしまいそう。腸から四肢の先まで全てが燃えている。
 無数の泡の中。
 苦しみ、もがきながら、ゆらゆらと揺れる波間に見えたのは、私へ伸ばす、お兄様の愛しい左手。
 存在しないはずの小指が、
 剥がされていたはずの爪が、
 美しく再生されて……私の瞳に映っていた。



+++



「いないようだな」
 軍服の二人組が家の中を見回し、そのうちの一人が呟いた。
「そろそろ戻るんじゃないかと。こういうことは、しょっちゅうだもんで」
 案内した男が申し訳なさそうに頭を下げる。男は野良仕事の帰りに、畑のあぜ道に突然現れた軍人二人に呼び止められ、質問に応じて、この家まで二人を連れてきたのだ。
 古い平屋の中は質素で、人が住んでいるような空気は感じられない。
「では、その二人の様子を詳しく教えてもらえないかね」
 もう一人の軍人が手帳を取り出し、鉛筆の先を舐めた。はい、と返事をした男は背負い籠を土間へ置き、手拭いで額を拭いてから話し始めた。
「仲の良い夫婦でなぁ。旦那は男前だし、嫁さんは別嬪だが……どうにも気味が悪くてね」
「気味が悪い?」
「そのう……信じてもらえるか、わかんねえんだが」
「何でもいい、話してくれ」
「旦那も嫁さんも随分となぁ、なんつうか、若作りってんじゃねえな。ここに来た時から、まるで変わらねえんだよ。二人がこの村に来たのは、十五年近く前だと思うんだが……当時俺は数えで十九でね。その旦那も、俺と同じ歳くらいに見えたんだ」
 男は頭を横に振り、ぼりぼりと頭を掻いた。
「だが、あの二人は今見ても……当時と全く変わらねえ容貌だ。だから、お偉い方さんが探しているような二人とは違うかもしれない」
 話を聞いていた軍人二人は、怪訝な表情で互いに顔を見合わせた。
「俺は、おかしなことは言ってねえよ?」
 慌てる男を見て、二人は苦笑する。そして一人が呟いた。
「不老不死などと……本当にいるのならば見てみたいものだ」
「何のお話です?」
 男は、さっぱりわからないという顔をした。
 土間へ夕焼け色の日が差し込んできた。男の問いに答えず、軍人たちは土間に張り出す縁側に腰を掛けた。
「二人が帰ってくるまで、ここで待たせてもらおう。ところで、この村には人魚伝説の類はあるか?」
「人魚、何ですって?」
「いや、知らないならいい」


 半日歩き続け、夕暮れは夕闇へと迫っていた。川沿いに咲く満開の桜が、ひらひらと散り始めている。遠くでカァカァと呑気なカラスの鳴き声がした。
 風呂敷包みを持ち直し、着物の上に着た長羽織の衿を正して、一歩前を歩く人へ聞こえるように話し始めた。
「お母様は」
「ん?」
「この世は限りがあるから美しいと、そうおっしゃっていたわ。桜が美しいのは、きっとそのせいね」
 彼女よりも大きな荷物を背負う彼は、黒い外套に身を包んでいる。
「僕らは、お母様のお考えに反した存在になるのか。参ったなあ」
「そうね。私たちって悪い子供だったのだわ」
 二人で顔を見合わせ、くすくすと笑った。暖かい春の夜風が二人の黒い髪を優しく攫ってゆく。
「今度はどこへ行くの?」
「お前はどこがいいんだい」
「北でも南でも、少しでも長くいられるところがよいわ」
「そうだな。久しぶりに港町にでも行こうか」
 穏やかな風が強まり、桜の花びらを舞い上がらせた。一瞬瞑った目をゆっくりと開け、愛しいその人と視線を合わせる。
「いいえ」
「海の傍は嫌かい」
「そうではないの」
 妹の髪についた淡い色の花びらを、兄がそっと取ってやると、彼女は変わらぬ笑顔で誓いを述べた。
「私は、お兄様と一緒なら、どこでもよいの。どこまでも、いつまでも、一緒であれば」
「いつまでも永遠に、だね?」
「永遠に、よ」
 差し出された兄の左手へ自分の右手を差し出し、小指同士を絡ませる。

 小道を歩く二人の耳に、どこからともなく、静かな波の音が聴こえた。





 〜了〜





最後までお付き合いくださいまして、ありがとうございました!