「どうしようかなー……」
暦の上では春が来ているとはいえ、朝の冷え込みはそれなりにある三月初旬。
俺はベッドにいる妻の寝顔と壁の時計を交互に眺め、思案していた。
このまま寝かせてやりたいのはやまやまだが、そろそろ起こさないと仕事に遅れてしまう。
「星乃」
囁いてもまったく反応しない。すやすやと眠り続ける彼女の唇にそっと近づき、唇を重ねた。このまま柔らかな感触を深くむさぼりたいが、触れるくらいでやめておく。
「……」
目覚めのキスもスルーだ。ピクリとも動かない。
「疲れさせすぎたか」
俺は反省の意を込めて、枕に散らばる彼女の髪を優しく撫でる。朝方寒かったらしく、彼女は寝ぼけながら下着とパジャマを身につけていた。
去年の十一月に俺たちは結婚した。
北海道での仕事を終えた俺は、職場近くのマンションに引っ越した。挙式の一週間前から星乃もここで暮らしている。
その後、年末から俺の仕事が忙しくなり、年始を迎えてもそれは続いていた。俺が代表を務めるノースヴィレッジアーキティクスにリノベーションの仕事が次々と舞い込んだからだ。
北海道の団地リノベーションは宣伝方法を変えてもらったおかげで、あっという間に話題となり、入居者や店舗を借りる人がトントン拍子に決まった。宿泊部屋も連日埋まっているという。俺の心配は取り越し苦労となったことに心底ホッとしている。
俺がプロジェクトにかかわったことが評価され、ノースヴィレッジアーキティクスの仕事に繋がった。それを期待していなかったわけではないが、こうなると嬉しいものだ。
同時に、俺の父親が代表取締役社長をしている北村建設での仕事にも少々かかわることになってしまった。いずれ北村建設を継ぐことを考えれば遅すぎるくらいなのだから、文句は言っていられない。だがそのせいで年始からの忙しさに拍車がかかっていた。
そんななか、昨夜は久しぶりに早く家に帰ってこれたので、思いのままに彼女を飽くまで抱いてしまった。
星乃の今朝の寝起きの悪さは「俺のせい」だ。そう思うと、彼女を無理に起こすのはためらわれる。散々俺のいいように抱かれたのだから疲れて当然だろう。俺を受け入れる星乃がいじらしくて、なかなか止められなかった。
「……ごめん。眠いよな」
彼女の髪を撫で続けながらひとりごちる。
俺は一応、彼女の会社の社長という権限を持って、このまま星乃を眠らせていてもいいんだが、そんなことをしたら多分叱られてしまう。彼女は仕事に関して、いや、その他のことに関してもかなり真面目なのだ。そんなところも大好きなんだけど。
俺は息を吸い込み心を鬼にして、さっきよりも呼びかける声量を上げた。
「ほーしーのー」
「……」
「かわいい、かわいい、星乃ちゃん。朝だよー」
すべらかな頬を人差し指で突っつく。そこでようやく、長いまつげが動いた。
「んー……」
ころんと転がった星乃は腕を顔の上にのせ、布団に潜り込もうとする。
俺はメガネを外して掛け布団ごとそっと抱きしめた。彼女のシャンプーの香りが鼻をくすぐる。一瞬で湧き上がる情欲をどうにか抑えつけながら彼女の耳元に声を届けた。
「星乃、そろそろ起きないと遅刻するよ。休むの?」
「ん……ねむ、い」
「起きないと襲うけど」
「……えっ」
俺の言葉に星乃がビクリと体を揺らし、布団から顔を出した。
「おはよう、星乃」
「お、おはよ……。ビックリした……」
目をこする星乃は、そっと身を起こす。
「なんで?」
「だって今、月斗……変なこと、言わなかった……?」
寝起きの声はいつもより掠れて、色っぽかった。寝癖のついた髪も、乱れたパジャマも、気だるそうな瞳も全部……今すぐどうにかしたいほどに可愛い。
「変なことって?」
平静を装って彼女に尋ねる。
「お、襲うとかなんとか……?」
「朝からそんなこと考えてたのか、星乃は」
「えっ、違っ、あの、寝ぼけてたみたい……ごめんね」
焦る星乃がさらに可愛くて、思わず飛びかかった。
「星乃っ!」
「きゃーっ!」
ぼふんと掛け布団の上に二人で沈む。起き上がっていた彼女は俺によって再びベッドに押し戻された。
「ほんともう、可愛いすぎるんだよ、星乃は……!」
「ビ、ビックリした、バッチリ目が覚めた」
星乃を抱きしめる俺に、目をパチクリさせながら言う。その頬にちゅっと唇を押し付け、こみ上げてくる笑いを彼女に渡した。
「星乃は寝ぼけてないよ。襲うって言ったんだ、俺」
「もう、いじわる」
「いてっ」
俺の頬を優しくつねるから、大げさに痛がってみせる。
こういうひとときが幸せでたまらない。ずっと君とこうしていたい。
そんな気持ちを込めて彼女の瞳を見つめる。ん? という顔をされて、そこでハッとした。じゃれ合っている場合ではない。
俺はベッドの上から身を起こし、星乃の体も抱き起こした。
「顔洗っといで。トーストと目玉焼きくらいしか作れなかったけど、一緒に食べよう」
「月斗、作ってくれたの?」
「たまにはね。いつも星乃に作らせてばかりで悪いし、今朝は疲れてたろ? 昨夜、ほら……」
ニヤリと笑いかけると、彼女が顔を真っ赤にする。ちゃんと目が覚めた証拠に、即座に理解できたようだ。
「月斗は毎日遅いんだし、出張も多いし、私が作るのは全然いいの。あ、でもね、すごく嬉しい。ありがとう」
「いいえ、どういたしまして。星乃こそいつもありがとう」
「うん」
微笑んだ星乃は乱れたパジャマを直しながらベッドから降りた。もっと嬉しい顔を見たくて、昨夜伝えそこねたことを口にする
「そういえば根津の家、やっとどうにかなりそうだよ。いいところが見つかったんだ」
「ほんと!?」
「ああ。シェアハウスより駅に近い場所なんだ。俺、昼前から夕方まで空いてるから一緒に行ってみようか。内田が一日事務所にいるはずだから、お願いすればいい」
「うん、嬉しい」
彼女の手を取り、廊下に出る。
「昼メシも食おうか。どこか予約しておくよ」
「根津で食べるの?」
「そう」
「久しぶりね。すごく楽しみ」
俺だって楽しみだ。
いつでもどこでも、星乃と一緒にいられるのは楽しくて幸せでたまらないんだ。
「私たちって本当……すごいね」
根津駅からすぐの場所にある串揚げ専門店を仰ぎ、星乃が呟いた。
「すごいって何が?」
「だってここ、私がきたかったお店なの。根津に住んでいた頃に一度も行ったことがなかったから、今日のお昼がここならいいなーなんて思ってて……」
「相変わらずだな、俺ら。また同じこと考えてたとはね」
星乃と出会ってから何度も感じたことだ。俺たちは考えていることがよく似ている。
顔を見合わせて笑い、店の暖簾を一緒にくぐる。
大正時代に建てられた木造建築の店。外観は歴史ある風情を漂わせ、内装は落ち着いた佇まいだ。
二階の座敷席へ案内された俺達は、様々な串揚げが並ぶ昼膳を堪能する。
「美味しい……!」
「うん、揚げたて最高だな」
雰囲気のいい座敷と、熱々の串揚げ、目の前には愛しい妻がいる。これでビールが飲めれば最高だ。今度また休日にでも来ればいいか。
食後の熱い緑茶を飲みながら、俺はカバンの中を探った。
「星乃、これ見てみて」
縮小してプリントアウトしたものを見せると、星乃の目が輝いた。
「これ、今から行くお家の間取り?」
「そう。左が現在の間取り図で、右が俺がやってみたい間取り図。さっき仕事の合間に急いで作った」
「そうなんだ。……すごくいいね、うん」
うなずきながら嬉しそうに眺めている。俺はその図に指を置いて説明を始めた。
「一階は広いリビングダイニングにして、庭につながるデッキを作る。二階の寝室の壁は可動式にすれば将来子ども部屋にもできるし、好きなように変えられる」
「そうね」
うんうんとニコニコしている。
サラリと言ってしまったが、それが不躾のように思えて、本当は彼女の機嫌を損ねているのではと不安になる。
「俺はいつでも子どもが欲しいと思ってるんだけど、星乃も欲しい?」
「欲しいよ? どうしたの?」
顔を上げた星乃が不思議そうな表情で俺を見つめた。
「だって産むのは星乃だろ? 星乃の都合もあるだろうし、俺は産めないから、勝手に子どもどうのって言えないし……でも俺は星乃との子どもは欲しい」
「私だって月斗との子どもが欲しいよ?」
「できなかったらできなかったでいい。俺には星乃がいてくれればいい。でも、できたら……めちゃくちゃ嬉しい」
素直な気持ちを伝えたのだが、どうも俺は星乃を前にすると上手く言葉にできない。情けなくなって彼女の手をそっと取ると、優しく握り返してくれた。
「うん、ありがと。私も同じ気持ちだよ、月斗」
優しく微笑まれて安堵する。
描いた夢を現実にするその第一歩が、家族が安心して暮らせる家を根津で見つけることだ。
店から徒歩五分の、なだらかな坂を上がった場所に家はあった。
俺が目を付けたのは築六十年の日本家屋だ。仕事の関係で家主が売りたいという情報を手に入れた。この辺りは人気がある地域だ。まだ情報が出回っていないのはありがたい。
半年前から人は住んでおらず、たまに家主が手入れに来ているだけらしい。
「どうぞって俺が言うのも変だけど、どうぞ」
俺は家主と何度か会い、交渉をして鍵を借りていた。その鍵で玄関の引き戸を開ける。 用意したスリッパを上がり框に置き、彼女に履いてもらう。
「お邪魔します。月斗は来たことあるんだよね?」
「っていっても、上がったのは二度目だな。雨戸開けよう」
玄関のすりガラスから外の光が入っている以外は真っ暗だ。二人で協力し合い、雨戸を次々と開けていく。そうして部屋の全容が明らかになっていった。
六畳と四畳半の和室。台所とダイニング、風呂とトイレ。一階は昔ながらの細かく仕切られた空間だ。家具がないのでせいせいして見えるが、工夫しなければ狭くなってしまうだろう。
「雰囲気あるね」
星乃が興味深げにキョロキョロと部屋中を見回している。
「築六十年だからな。いずれにしても大掛かりなリフォームになる。耐震性も耐熱性もほとんどないし、内部の痛みが結構あったんだ。でも、俺が快適に住めるように直すから」
「頼もしいね、月斗」
「まぁね」
得意げな顔をすると、星乃が吹き出した。楽しそうな笑みを、この場所でまた見られる日が来るのはそう遠くないはずだ。
俺たちは軋む階段を上がって、二階の部屋に入った。こちらも雨戸を全部開ける。
「天井の梁は残して、他を全部張り直しだな」
以前来た時に天井裏を覗かせてもらったが、それは立派な梁が巡らせてあったのだ。せっかくだから梁が見えるような部屋にしたい。
「ねえ、さっきの見取り図でいうと、ここが寝室になるの?」
「そうなるかな。可動式の壁にすれば、将来部屋数を自由に分けることも可能だ。子どもが増えてもいいように。って、星乃」
「なあに?」
「ここ気に入ってくれた? 俺はそのつもりでどんどん話しちゃったけどさ」
「もちろん! 月斗もでしょう?」
「ああ、俺も気に入ってる。柱や梁、外観もすごくいい雰囲気だと思うんだ。だからやりがいがある。駅から近いし、日当たりもいい。値段も、どうにか手が届くところにあるし」
じゃあ決まりね、と星乃は笑って窓の外を見た。
ガラスから差す光が畳の上に落ち、足元を温めている。
「ポカポカしてあったかい。もう、春なのね」
「……ああ」
後ろから柔らかい体をそっと抱きしめ、彼女の髪の香りを吸い込んだ。
「ここじゃ、あんまりイチャつけないな」
「え? んっ」
こちらに振り向かせ、唇を重ねた。今朝と同じに触れるくらいなのに、星乃は焦って俺から離れようとする。
「み、見えちゃったらどうするの」
「この窓は周りの家から見えない位置にあるから平気だよ」
腕の中から逃さず、彼女の額に自分の額をくっつける。
「今夜はなるべく早く帰るよ」
「うん、待ってる」
目を細める彼女を見ていると、朝のようにたまらない気持ちになる。
「帰ったら襲わせてね」
「えっ!」
「ダメ?」
「……いいよ」
動揺しながらもうなずく星乃が可愛くて、思わずため息が漏れた。
「はぁ……」
「何?」
「可愛い。絶対早く帰るよ」
心に誓った俺は、再び星乃を抱きしめる。
こうやって何度も思うんだ。俺の太陽と巡り合わせてくれた奇跡の出会いに、心から感謝したいと。
戸締まりをして玄関を出る。風は冷たいが、どこからか春の匂いが届いた。玄関そばに植えられた桃の木が、花がつくのを待ち遠しそうにそよいでいる。
「ただいまって、ここで言えるようになるのはいつかなぁ」
星乃が家を見つめて微笑む。彼女の隣に立ち、返事をするようにその手を強く握った。
「それもなるべく早くする。絶対に」
「うん。楽しみに待ってるね、月斗」
「今夜のことも楽しみにしてくれよな、星乃」
「えっ! ……うん」
赤くなってうなずいた星乃の頭を優しくぽんぽんと撫でる。彼女は嬉しそうに俺に身を寄せ、もう一度家を見上げた。