パフェグラスの内側に、輪切りの真っ赤な苺とふわふわの白い生クリームが交互に並んでいる。てっぺんにはまん丸いバニラアイス。飾りのミントの葉をつまんで受け皿にのせた。舌触りのよい生クリームとアイスの甘さと苺の酸っぱさが、口の中で絶妙に混ざり合う。
「おいしい」
ひとくち食べて、向かいの席に座る彼に笑いかける。頷いた彼はコーヒーカップを手にした。
表参道で待ち合わせして、こんなオシャレカフェにきたのって久しぶりだ。
今日はホワイトデーなんだよね。そんなに期待はしてないけど、ちょっと期待してたりもする。チョコのお返しは、前から私が欲しいと伝えてあったピアスだと嬉しいな。
長いパフェスプーンを使って、もうひと口生クリームをすくおうとした手を、止めた。
左手の薬指に光る指輪をうっとりと見つめる。あと二か月弱で夢にまで見た結婚式だ。早くあのウェディングドレスを着て皆にお披露目したい。羨ましがられたい。
指輪もパフェグラスも店内の灯りも、全部キラキラしてる。ああ私、これからもっともっと幸せになるのね。この店内にいる人で、私以上に幸せな人なんていないんじゃない?
にやにやしながらもうひと口食べ、唇についたクリームをぺろりと舐めた。
今日はこのあと、いよいよ二人の新居を探しに行くわけで。張り切って新しいワンピースを着てしまった。彼も休みの日だというのにスーツなんか着ちゃって、気合入ってるのね。いつになく口数が少ない彼は、どうやら緊張している様子。ここは私がリラックスさせてあげないと。
「ねえ、まずはどこの不動産屋さんに行く?」
背筋を伸ばした私は、明るい口調で彼に話しかけた。
「憧れは吉祥寺あたりだけど、ちょっと会社から離れちゃうよね」
「……」
「それに結構家賃が高いみたいだし、やっぱり」
「星乃(ほしの)」
「ん?」
「いや、不動産屋は行かない。今日はここでおしまいなんだ」
「そうなの? このあと仕事?」
「……違う」
どうしたんだろう。緊張しているのはわかるけど、さっきからずっと浮かない顔をしているように見える。仕事で疲れているのだろうか。
突然テーブルに両手を着いた彼が、勢いよく頭を下げた。
「ごめん。結婚、やめよう」
「……え」
彼の放った日本語がうまく聞き取れなかった。というより、咄嗟には理解できなかった。
「え? えっと、……え?」
「星乃との結婚、やめたいんだ俺」
「……」
結婚、やめよう? 私との結婚を?? やめる???!? やめたい……!?!?
混乱した私は、普段たいして使わない頭をフル回転させて、様々な理由を引っ張り込んだ。
「え、何で? 急にどうしたの? 転勤とか? 私、どこでもついていくよ? 何か悩みがあるなら相談乗るし、支えるし――」
「好きな人、ができた。だからやめたい」
テーブルに額をくっつけそうな体勢のままで、彼が言った。
がっつーーーーん、って横から頭を殴られた。……ような気がした。
何なに何なに何これ何これ、何、え、何て……? 何て言ったの、なんて……!?
頭の中を同じ言葉がぐるぐると回る。
「好きな、人?」
好きな人ができたということは、私はあなたの好きな人ではなくなったということで、そういうことでよろしいでしょうか。何で敬語。
「本当に今さらだけど、でも今言わないともっと傷つける、よな。ごめん」
ああそうか。これは壮大なドッキリなんだ。そうそう、そうだよ、そうに違いない。だから落ち着こう。
「……」
おかしいな。周りを見回しても、手に看板を持っている人なんてどこにもいない。
「ごめん。本当にごめんなさい。ごめん……!」
頭を下げる彼のつむじを見つめた。パフェスプーンを持つ私の手のひらに汗が噴き出しているのがわかる。苺を食べたばかりだというのに喉がカラカラだ。
何か、何かを言わなければ……
「冗談、だよね? 結婚式の招待状出しちゃってるし、何通か返事も戻ってきてるし、何て言えば」
「それは、俺が連絡する」
「だって私……会社辞めちゃったよ? 皆からお祝いされて、披露宴も出るからねって、そう、言ってくれて……」
寿退社なんて珍しいね〜、とお祝いされながら辞めたのが、つい二週間前のことなんですが。あなたもその場にいたでしょうが。
「すまない」
そして、あなたが私に仕事を辞めろと言ったんじゃありませんでしたっけ……?
「お父さんも、お母さんも、妹も……皆、喜んでるよ?」
声が震えてる。
社内恋愛して、トントン拍子に結婚が決まったあなたと私なのに。
「本当に……申し訳ない」
私たちの二年半は何だったのよと罵りたいのに、別の言葉が口を突いて出た。
「……誰」
「え?」
私の問いに彼が顔を上げる。私の知っている彼の顔じゃないみたいに見えた。
「好きな人って、私の知ってる人?」
声を絞り出すようにして彼に訊ねる。
まさか会社の人? 同僚だったりして。先輩、後輩、同期……そんな身近な人だったら、私。
「それは」
「いい! やっぱりいい。……聞きたくない」
ダメだ。それを今聞いてしまったら私、何をするかわからない。
パフェスプーンを紙ナプキンの上に置いた。ぐわんぐわんと頭の中が鳴っていて、カフェのざわめきが遠くに聞こえる。
嘘だと言ってほしい。冗談だよと笑ってほしい……!
「ね、本当なの? 何か別のことがあって嘘吐いてるとか、そういうの」
「嘘じゃない。どうしても、星乃との結婚は無理だ」
私の視界に入り込む婚約指輪の光が、痛い。いくら探しても次の言葉が見つからない。吐き気がする。頭が痛い。
口を引き結んで肩で小刻みに息をする私へ、彼がぼそりと言った。
「その指輪、売るなり捨てるなりしていいから」
「え」
「返されても、困るし」
「!!」
そのひと言で、一気に頭へ血が上る。グラスを掴んだ私は、彼に向かって水をぶちまけた。
「うわっ!」
「最っっ低!!」
ばしゃんという音とともに、彼の顔もスーツも水浸しになった。私はバッグとコートを持ち、席を立って出口へ急ぐ。広い店内が一瞬静かになったような気もしたけど、どうでもいい。
大通り沿いの歩道は人で賑わい、当然私のことなんておかまいなしに目の前を通り過ぎていく。私は人の流れに逆らって歩き出した。
さっきまでいいお天気だったのに、いつの間にか空は曇って、とても寒い。うっすら芽吹き始めたけやき並木の下を早足で歩く。
しばらく進んで後ろを振り返る。もしかして、などという淡い期待は打ち砕かれた。彼にとって私は、言い訳する価値もないような女になっちゃったんだ。
他人の迷惑も考えずに立ち止まって苦笑する。
「あー……はいはい、そういうこと」
彼は別れの儀式のために、わざわざスーツを着てきたんだ。
店内で一番幸せなはずの私が、実は一番不幸だったというわけね。あー惨めだ、滑稽だ。
「ふっ、はははー……。ばっっかみたい」
全身の力が抜ける。
パフェ、全部食べ終わってから言ってよ。