いつもと、ほんの少しだけ大きさの違うネクタイが、私の胸元で揺れている。
移動教室の後、階段の踊り場で涼とネクタイを交換した。
涼がつけてくれた、彼のネクタイ。涼が恥ずかしそうに言ってくれた交換したいって気持ち、大事にしたい。
顔を上げると、隣にいる涼の胸元には私のネクタイが揺れていた。
私ここにいるよ、っていつも涼の傍にくっついているみたいで、恥ずかしいけど同時に嬉しい気持ちでいっぱいになる。
涼の彼女になってから一ヶ月と少しが経ち、季節はもうすっかり冬へと変わっていた。こうして彼の横にいられることが幸せでたまらない。伝わってるかな? 私の気持ち。
そんな事を思いながら廊下を歩いていると、少し先の教室から女の子が出てきた。
立ち止まり、こっちを見ているのは……上田さん、だ。涼の元カノで、可愛くてよく目立ってて男の子にもすごく人気がある。
「まさか、それ鈴鹿さんの?!」
上田さんは驚いた顔をして涼を指差しながら近付いて来た。どうしたんだろう。
「……そう、だけど」
涼が何となく気まずそうに答える。
「す、すごい鈴鹿さん。あの、聞いてもいい?」
上田さんは私の顔の傍に来て、両肩を掴んで言った。
「涼に何て言ったの? ネクタイ交換しようって言ったの?」
「え……」
「だって、涼がネクタイ交換するなんて奇跡だよ! 有名だったんだから涼のネクタイ拒否は。お願い何て言ったのか教えて! すっごく知りたい!」
「え、あの」
違うの、って言いたいけど、上田さんの迫力に押されて何も言葉が出ない。涼に助けてもらおうと顔を上げた時だった。
「俺が言ったんだよ」
「へ?」
「俺が交換してくれって……頼んだの」
少しだけ強い口調で涼が言った。
「う、嘘お!」
「……嘘じゃねーよ」
「涼、熱でもあるんじゃないの?!」
上田さんが、涼の額に手を当てた。
あ……なんか、やだ。急に私の胸の中にモヤモヤとしたものが広がり出す。
「ねーよ、そんなもん」
今度は涼が上田さんの手首を右手で掴み、そこから離した。それを見てまた胸が重くなって目を伏せた。
「すごい……鈴鹿さんって」
上田さんの声に俯いた顔を上げる。
「本当に涼に愛されてるんだねえ」
あ、愛されてるって。上田さんの心から感心しているような言葉を聞いて、私の顔が赤くなっていく。でも、さっき感じた変な気持ちはまだ胸の中にあった。
「も、もういいだろ。彼氏に怒られるぞ」
「ああ、うん。じゃ、鈴鹿さんごめんね。あれこれ聞いちゃって」
「ううん」
「お幸せにー!」
上田さんは私に手を振って、そのまま自分の教室に入っていった。上田さんてほんとにいい子だ。文化祭で会った元カノだって……。
「あの、ごめん」
「え? 何で?」
「いやな気しなかった?」
涼の私を気遣う声に、余計にさっきの変な感じが膨らんでいく。でも気付かれたくない。
「どうして?」
「いや、その一応元カノだし……」
「全然」
だって涼は私が好きで、上田さんにはもう彼がいる。だから全然大丈夫、だよ。
「嬉しかったよ。だって初めてなんでしょ? ネクタイ」
「うん」
今までの元カノと比べたりしちゃいけないってわかってるけど、こんな風に初めてだって言われることは、やっぱり嬉しい。
チラリと涼の額を見た。
さっき私がキスした前髪とおでこ。なのに、他の人に触って欲しくないなんて心が狭いのかな。そう思った途端、気付けば涼の額に手を伸ばしていた。
「な、何?」
「え……ちょっと」
忘れて。私の感触だけ思い出して。
「? 何かついてる?」
「別に……」
馬鹿みたいだけど何となく気がすまなかった。涼、変な顔してる。
「?」
「何でもないの。いこ?」
心の狭い私は、今度はさっき涼が上田さんに触った右手に自分の左手を合わせた。
こんな子ども染みた事して、ちょっと自分がいやになる。私のことだけ考えて欲しい。思い出したりしないで、なんて本当に馬鹿みたい。歩きながら繋いだ手にいつの間にか力をこめていた。
涼のあったかい手。……大好き。
大好きなのに今は苦しい。これヤキモチだよね、完全に。私ヤキモチ妬いてるんだ、上田さんに。全然大丈夫なんかじゃない。涼の右腕に擦り寄って自分の嫌な気持ちを消そうとしたけど、駄目みたい。
いつの間にか人もいなくなった廊下で、涼が立ち止まった。
「……どうしたの?」
彼の困ったような戸惑った声が、彼の右腕にしがみついている私の頭の上から聞こえた。
「ううん。何でもない、ごめん」
涼に嫌われるかもしれない。もう、やめよう。
「俺、なんかしちゃった?」
「ううん、ほんと何でもないの」
「?」
「じゃ、皆とお弁当食べてくるね!」
顔を上げて無理やり笑って、涼の腕から離れた。急いで教室へ向かう。
どうしたら、いいんだろ。
涼の元カノなんてたくさんいるんだから、こんな事思ってもキリがないのに。私と付き合ってからは聞かなくなったけど、もしかしたら私の知らない所で告白もされているかもしれない。私が前に見てしまったように。
次から次へと考えなくてもいいような事で、頭がいっぱいになっていく。
愛美と絵梨と机を合わせて一緒に座り、進まないお弁当を口へ運んでいると、高野くんと原くんと一緒に涼が教室へ入って来た。
涼の胸元にある私のネクタイを見た瞬間、胸がきゅーっと痛くなる。俯くと、痛くなった胸の場所にある涼のネクタイが目に飛び込んできた。突然視界が滲み、水の中にいるみたいにゆらゆらと揺らいで見える。
好きって、思っただけなのに。
片思いでもないし、苦しい恋をしているわけでもない。とっても幸せな筈なのに、ただ好きって思うだけでも涙が出るものなの?
こんなこと初めてで、どうしたらいいのかわからないまま、いつまでも俯いて涼のネクタイを見つめていた。
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