彰一さんと結婚して一年と少しが経った。今夜は二人で迎える二度目の七月七日。
ドアの鍵を開ける音がして、慌てて玄関へ走って行く。裾と首元、乱れてないよね?
「ただいま。あれ?」
「彰一さん、お帰りなさい」
「どうしたの? お祭り?」
「ううん。今夜は七夕だから着てみたの」
天気予報は曇り。せっかく七夕なのに、毎年この時期は天気が悪いから、せめて気分だけでもと思って浴衣を着てみたんだ。帯の締め方がわからなくて、実家のお母さんに電話して聞いちゃったけど。
「可愛いね」
「そ、そうかな?」
「今まであんまり見たことなかったから」
「……うん」
ずっと前に一人で浴衣を着ようとして、難しくて諦めてた。でも今夜はちょっと頑張って、何度もやり直しながら着てみたの。毎日暑い中頑張ってる彰一さんが、少しでも涼しい気分になってくれたら私も嬉しいから。
「よく見せて」
「……」
「似合ってるよ」
ネクタイを緩めた彰一さんが私を抱き寄せて、おでこにキスしてくれた。まとめた髪と髪飾りが揺れたのがわかる。優しい感触に、まだ少しだけ照れてしまう。
「あの、あのね。ビール飲む?」
「うん。今日も暑かったから、喉カラカラだよ。先にシャワー浴びてくる」
よし、準備万端。おつまみは出来てるし、冷蔵庫で陶器のビールカップも冷えてる。食器とお箸を棚から出していると、袖があちこちいろんな所へ引っかかってしまった。浴衣だと動きにくいなあ。こぼさないように気をつけないと。
慎重にお盆へ小鉢を乗せていると、シャワーを浴びた彰一さんがTシャツに着替えてリビングへ戻ってきた。え、え、もう? 何で今日に限ってこんなに早いの?
「優菜ちゃん、ビールもらっていい?」
キッチンへ入って来た彰一さんが言った。冷蔵庫に手をかける彼を慌てて止める。
「彰一さん、待って。違うの」
「ん?」
「今夜はそっちなの」
キッチンを出て、リビングから広めのベランダへ続く大きな窓の網戸を開けた。喜んで、くれるかな。
「ちょっと狭くなっちゃったけど、たまには外もいいかなって」
折りたたみ式のテーブルと椅子を並べて、手すりの角には大きな竹を色とりどりの折り紙と一緒に飾った。
「すごいね。これどうしたの?」
彰一さんはベランダに下りて、笹の方へ歩いて行った。私もサンダルを履いて一緒に下りる。
「あのね、商店街の八百屋さんが、買い物するとタダでくれるっていうから、もらってきたの」
「……どうやって持って帰ったの?」
「恥ずかしいんだけど、肩に担いで」
「え!」
「大きいから自転車には積めないし……」
「あ、ああそうだよね。優菜ちゃんて、たまにすごいね」
やっぱり、恥ずかしかったかな。張り切り過ぎだって、呆れられたかも……。小さくなって彰一さんの顔色を伺おうとすると、彼は私を振り向いてから、頭を撫でてくれた。
「ありがとう、嬉しいよ。すごく大変だったんじゃない?」
「う、ううん! 全然!」
ああ、やっぱり彰一さんが好き。大好き! 彰一さんの為なら私、すごく重たかったけど、一本の竹だけじゃなくて何本だって担いで持ってこれる! ……それはさすがに嫌がられそうだけど。
ベランダへ蚊取り線香を置き、冷やしたグラスへビールを注ぐ。椅子へ座った彰一さんはそれを受け取り、美味しそうに飲み干した。
「たまにはいいね、こういうのも」
「そうだ、彰一さんの分も短冊あるの。書く?」
「うん」
返事をした彰一さんが、すぐ傍の笹に付いている、私が書いた短冊を手にした途端、吹き出した。
「え! なあに? なんか可笑しい?」
「いや。叶うといいね、これ」
そこには『上手く泳げるようになりますように』って書いてあった。当たり前だけど、彼が帰って来る前に私が書いたやつ。
「これってさ、別に短冊に書かなくても、習いに行けば済むんじゃない?」
小鉢に入っている茹でた枝豆をつまんで、美味しいって食べてくれてる。
「だって、習っても全然上手くならないの」
「あとは……『宝くじが当たりますように』『もう少し体重が落ちて、もっとくびれができますように』『欲しい靴が半額まで下がりますように』」
「あのね、彰一さん。全部声に出されたら、すごく恥ずかしいんだけど」
「ごめんごめん。でもこれじゃ、織姫と彦星も大変だな」
彰一さんは楽しそうに声を出して笑った。我ながら、ちょっとあさましかったかも。
蒸し暑いけど、時折吹いて来る風が気持ち良かった。これで花火でも空に上がったら最高なんだけどな。
「あ、まだあった」
もう一枚見つけた彼は、それまでと違って何も言わずに黙ってしまった。
「彰一さん?」
覗きこむと、それは私が最後に書いた一枚。
『赤ちゃんが来ます様に』
「あ……あの、そろそろいいかなって、ちょっと思っただけなの」
「……」
彰一さんは真剣な顔のままで何も言ってくれない。どうしよう。もしかして嫌だったのかな。
「む、無理にじゃなくてね、自然に来てくれればいいなって。だから……」
おでこに汗を掻きながら、早口で言い訳する。私一人がこんなこと思ってたって、彰一さんには負担になるかもしれないのに。何も考えないでこんなこと書いて、私って馬鹿だ。
「ビール、おかわり持ってくるね」
いたたまれなくなって席を立つと、彼に手首を掴まれた。
「優菜ちゃん」
「はい」
「これはさ、俺に直接言った方が早いんじゃない?」
「え?」
「ちゃんと俺が協力しないと、短冊に書いてるだけじゃ駄目だと思うし」
突然具体的なことを言われて、顔が熱くなる。
「俺としては、まだ優菜ちゃんと二人でも全然構わないんだけど、でも、もしも優菜ちゃんに俺の子どもができたら……」
俯いてた彰一さんが私を見上げた。
「幸せすぎて、どうしたらいいかわからないな、きっと」
眉を寄せて切ない表情をした彰一さんは、眼鏡を外して私を引き寄せた。椅子へ座ったまま、立っている私の腰へ手を回して、浴衣へ顔を押し付けている。
「優菜ちゃん、もうシャワー浴びた?」
「うん」
「じゃあ今夜は、このままずっと浴衣着て、寝てくれる?」
「……うん?」
パジャマには着替えないってこと? ちょっと窮屈そうだけど、彰一さんがそう言うなら……。
「帯ほどいて、脱がせてみたいんだけど」
「!」
「駄目?」
「い、いいけど」
「けど?」
「彰一さんなら全然いいから……駄目とかいちいち聞かなくても大丈夫、だよ」
「好きにしていいってこと?」
「ま、まあ、そう……かな」
私の言葉に、彼は顔を上げて優しく微笑んだ。何度も何度もその笑顔に出逢うたび、胸が痛くなってしまう。
一緒に過ごして時が経つほど、もしかしてこの気持ちが変わっていくんじゃないかって、少しだけ怯えてた。
でも全然そんなことなくて、彰一さんの穏やかな瞳が、大好きでいてもいいんだって、このままずっと一緒にいてもいいんだって、いつも安心させてくれる。
かがんだ私は座っている彼へ近付いて、そっとキスをした。
二人で空を見上げると、雲の切れ間から綺麗な星が瞬いていた。
次の朝、洗濯物を干しにベランダへ出ると、彰一さんが一枚だけ書いた短冊を見つけた。
『優菜を一生守っていけますように』
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