カルボナーラとフレンチトースト×金曜日はピアノコラボSS

幸せを運ぶ四重奏




「彰一さん、今度これ一緒に行ってみない?」
 差し出されたチラシには、ピアノコンツェルトのコンサートの案内が書かれていた。
「珍しいね、クラシック?」
「うん。だめかな?」
「いや、俺はいいけど。優菜ちゃん大丈夫? 人ごみとかさ」
「大丈夫。少しは気分転換したいの。それに、いい影響あるかなって思って」
 彼女は目立ってきたお腹を、右の手のひらで愛しそうにさすった。
「いい影響あり過ぎて、途中で寝ちゃわないようにね」
「もう彰一さん、ひどい……!」
 二人で笑ったあと、チラシの内容を彼女が読んでくれた。アマチュアのカルテット。ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、そしてピアノ。オーディションで選ばれた4人が楽器店主催のホールで演奏するという。優菜は急に不安な顔で呟いた。
「でも」
「ん?」
「もしも、ううん、絶対そんなことないとは思うけど、ちょっと最近眠くて……。やっぱり自信ないの」
「じゃあ眠ってたら鼻摘まんであげる。そしたら絶対起きるよ」
「あの、あんまり痛くしないでね?」
 結婚してから数年経っても全く変わらないその表情に、何だかおかしくなって思わず吹き出してしまった。むくれる優菜を、宥めるように優しく抱き締める。



 外は日が落ちるのが随分と早くなったように感じた。秋も終わりに近づいている。なるべく冷やさないように、厚手の上着を優菜に着せて出掛け、コンサートホールへ到着した。
「ねえねえ、彰一さん。すごいね。こんなにたくさん人が来るなんて、私思ってなかった」
 興奮気味の優菜が言った通り、自分もこれだけの人が集まるとは思ってもみず驚いて周りを見回していた。小ホールとはいえ、700人近く入れるスペースがある。その座席は時間が経つにつれ、ほぼ満席という状態になっていた。
「彰一さん、私何だか緊張してきた」
 ベージュのゆったりとしたワンピースに身を包み、髪をひとつにまとめた優菜は、両手を合わせ固く握り締めている。
「大丈夫だよ、俺がいるんだし。具合が悪くなったらすぐに言うんだよ?」
「うん」
「それにしても舞台の上のピアノ、すごいな」
「グランドピアノなんて見たの、何年振りだろう」
「俺も」
「彰一さんも?」
 ようやく彼女の緊張がほぐれたところで、会場にアナウンスが流れた。しばらくすると楽器の大きな音が会場中に響き渡り、一瞬でその場は音楽へと飲み込まれた。
 舞台に釘付けになって眉を寄せたり、微笑んだりしている優菜の横顔を見ていると、彼女への変わらないこの思いをまた気付かされる。その手をそっと握ると、会場へ降ってくる音楽と共に、何とも言えない幸福感に包まれた。
 ずっとこの幸せを守っていきたい。優菜と、そして新しい命に思う、喜びに満ちた感情が次々と湧き起っていた。

 前半終了後の休憩時間、二重扉を出た傍のベンチへ優菜を座らせ、ドリンクカウンターの長蛇の列に並ぶ。手際が悪いのか、なかなか順番が回ってこない。携帯でも取り出そうかとスーツのポケットへ手を入れると、後ろに並ぶ若い女の子たちの会話が耳に届いた。
「ピアニストの人、すごく素敵だったよね……!」
「演奏者の中でもダントツだよ。演奏もプロ並みだし、今まで無名だったなんて信じられない」
 クラシックのコンサートなんて初めてだけど、確かに印象に深く残ってるのはあのピアニストだった。完璧に見えながらも、繊細な部分を晒け出しているように感じられる演奏が、観客を魅了するんだろう。

 後半全ての演奏が終わってロビーへ出ると、それぞれ演奏者が散らばり、観客に囲まれていた。
「ねえ、彰一さん。あのピアニストの人……深山さん、っていう人のところに行ってもいい?」
「いいよ。俺も近くで見てみたいって思ってたんだ」
 舞台の上で大きく見えた彼は、実際には線が細く、背もそれほど高くはなかった。ただ、顔立ちも雰囲気も、人を惹きつける魅力があるように思えた。あの独特な演奏のように。
「ありがとうございました」
 黒いタキシードに身を包んだ彼は、順番が来た俺たち二人へ穏やかに微笑んだ。
「あの、感動しました。クラシックのコンサートは初めてだったんですけど、来て良かったです」
「そう言っていただけると励みになります。疲れませんでしたか?」
 優菜に顔を傾けて語りかけるその表情は、何となく俺を不機嫌にさせるものだった。はい、と頬を染めた優菜に代わって、今度は自分が声を掛ける。
「機会があれば、またあなたの演奏を聴きたいです」
「それは、本当に嬉しいです。今度は、」
 突然会話が途切れ、表情を変えたピアニストの視線が、自分たちから外れ、遠くへ移った。
「?」
「苑子!」
 失礼、と言ってその場を後にしたピアニストは、こちらを一斉に振り向いた人ごみをくぐり抜け、誰かの傍へ駆け寄った。明るい色をした長い髪。深いグリーンのワンピースを着ている、色の白い女性。
「あ、ほら、さっきの子じゃない? ベンチで私の隣に座ってた」
「ああ、俺に席を譲ってくれた」
「うん。そういえばあの子ね、イヤリングしてたの。ピアスじゃないなんて珍しいと思ったんだけど、あれ多分アンティークだと思う。とっても高価な」
「へえ……」
 一瞬こちらを振り返り、自分たちへ会釈をした彼女の耳元で、優菜が言った通りイヤリングが光った。
「あの二人、恋人同士だったんだ」
 うっとりとした表情の優菜が、ひとつ溜息を吐く。
「あの子もすごく綺麗だし、ピアニストの人も素敵。映画みたい」
「……」
「ね?」
「……そう?」
 わざと優菜から顔を逸らし、その手を取って歩き出した。もちろん彼女の負担にならないように、ゆっくりと慎重に。
「彰一さん、あの、怒ったの?」
「全然、怒ってなんかないよ」
 大人げなかったかもしれないけど。でも、たまにはいいかもしれない。
「優菜ちゃんがあんまり夢中になってるから。……怒ってないけど、少し妬いただけ」
「!」
「もうすぐ三人になるんだし、俺が二人を守ってあげる唯一の男なんだから、別にいいけどさ」
 言い終わると、優菜が強く手を握ってきた。恥ずかしそうに俯いた彼女が小さく呟く。
「今日は一緒に来てくれてありがとう、彰一さん」
「いい影響あった?」
「うん。今日はね、ずっとじーっとしてた。ちゃんと音楽聴いてたんだと思う」
 手を伸ばし、彼女のコートの上からそっと当てて確かめた。そこには何にも代えがたい宝物が眠っている。優菜が上から手を重ねて言った。
「こんなふうに出掛けられて嬉しかった。でもあの……」
「ん?」
「彰一さんとだから、こんなに楽しいの。それだけはわかって?」
 そんな声に表情に、何年経ったって、結局は敵うわけがない。
「わかってるよ」
「ほんと?」
「ほんと」
「私ね」
「ん?」
 腕にしがみついて耳元に顔を寄せた彼女がそっと囁いた。
「私、すごく幸せ」
 こちらを見上げて微笑む優菜の額へキスすると、お返しと言って彼女が頬へ唇を寄せた。

 帰り道 、さっき聴いた四重奏を口ずさみながら歩くと、見えない何かがどこからか運ばれて、三人を優しく包んでいくのがわかった。












「幸せを運ぶ四重奏」金曜日はピアノ編へ (本編はR15作品です。ご注意を)


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