カルボナーラとフレンチトースト    番外編

(5) 二本の傘




「皆川さんは、どういうつもりで優菜を誘ってるんだろね」
「……」

 水曜日は女性客の飲み物が三杯まで無料のお店に、秋子と二人で会社の帰りに来ていた。
「でも、なんとなーく彼女がいそうな気はしてたけど」
「どうしてそう思ったの?」
 私の問いかけに、ビールを口にしてから秋子が言った。
「皆川さんて、雰囲気いいじゃん。女の子に対してもガツガツしてないし、落ち着いてて余裕があるっていうの? そりゃ余裕あるよね、彼女がいるんじゃ」
「……」
「あ、彼女がいてもガツガツしてる人もいるか。津田さんとか」
 秋子が思い出したように笑ってから、急に真剣な顔で私を見た。
「でもまあ、後は優菜がどうしたいかじゃない?」
「……私もそう思う」
「彼女がいるのを知らない振りして、このまま頑張ってこっちに向かせるか、それともすっぱり会うのをやめるか」
「うん」
 秋子の言葉に頷いて、両手でグラスを握り締めた。


 朝からどんよりとした曇り空の日曜日。
 昨日まで私の心もこんな風だったけど、今日はやめよう。ちゃんと笑っていつもみたいに楽しく過ごすんだ。彼の車に乗るのも、お話するのも。

 到着のメールが届き、マンションの下へ降りると皆川さんは車の中で待っていた。
「お待たせしました」
 助手席のドアを開けて、彼に挨拶をする。
「どうしたの? 忘れ物?」
「え?」
 暫く助手席を見つめて、ドアに手を掛けたまま乗り込まない私を、彼は不思議そうに見つめていた。
「あ、部屋の鍵かけたかなって、一瞬思っちゃって」
「……」
「でもさっき確認したの思い出したから、大丈夫です」
 今までは普通に助手席に乗ってたけど、ここに誰かが座っているんだって思うと、やっぱり躊躇うよ。

 車を発進させた彼が、小さな声で言った。
「優菜ちゃん、今日来てくれないかと思った」
「え……どうしてですか?」
「……」
 運転して前を見ながら、彼は黙ってしまった。私、様子はおかしかったかもしれないけど断わらなかったし、勿論彼女のことも言っていない。でも変に見えたのかな。
「皆川さん?」
「……いや、何となく」
 沈黙が怖くてひとつ息を吸い込んだ後、私も言葉を続けた。
「あの、今日はどこに行くんですか?」
「優菜ちゃん行きたいとこ特に無ければ、任せてもらっていい? 少し遠出するけど」
「はい。楽しみにしてます」
 明るい声で返事をする。私いつも通りに出来たよね?

「静かなところ、歩きたかったんだ」
 そこは、なだらかな丘にある山手の外国人墓地。まだ紅葉していない緑の木々の中に、美しい十字のお墓が立ち並んでいた。
 坂を上りきると洋館や、教会、素敵なレストランやカフェがぽつぽつと見えてくる。
 そのまま丘の上にある公園へ行くと、遠くの海が視界に入った。それでも今日は曇り空で周りが霞んで、ベイブリッジが綺麗に見えない。

「この辺いいよね」
「雰囲気あって、私も好きです」
「優菜ちゃん」
「はい」
「……何かあった?」
 私の隣に立つ彼の言葉に、胸が痛んだ。
「……」
「あ、降ってきたな」
 彼の声に顔を上げると、小さな雨粒があたる。
「もっと天気がいい時に、また来よう」
「もう、来れません」
「え?」
「私持ってます折り畳み傘。二本」
 少し大きめのバッグから色違いの傘を取り出した。
「二本? 重くなかった?」
「……天気予報で言ってたから。これ、使ってください」
 私から傘を受け取った皆川さんは、広げて私に向けて差しかけた。
「一緒に入ろうか。あんまり降ってないし」
 その言葉に、私はゆっくりと横に首を振る。
「私、今日はもうここで。ここから一人で帰ります」
「……なんで? もう帰るの?」
「はい」
「じゃあ一緒に帰ろう。送るよ」
「……」
 首を振り続ける私の肩に、彼の左手がそっと置かれた。
「どうしたの? ……もう来れないって、何?」
 温かい感触と優しい声に、朝からずっと堪えていた涙が目にどんどん溜まっていくのがわかる。泣いたら駄目。マスカラ滲まないやつだけど、たくさん泣いたら絶対真っ黒になる。
 今日で最後なんだから、そんな顔で終わらせたくない。

 本当は、このまま知らない振りをしていたい。別に皆川さんと付き合っているわけじゃないんだから、こうしてただ同じ職場の先輩、後輩として一緒に出かけてお話して、傍にいたい。でも……。

「皆川さんの彼女さんは、きっとこういうの嫌だと思います」
「……え」
「皆川さんが私を何とも思って無くても、私が彼女の立場だったら嫌です。だからもう、こうして会うのはやめます」
「何それ……誰かに聞いたの?」
「津田さんです。皆川さんのこと彼女いたなって、そう言ってたから」
「なんだよ、あいつ」
 彼は顔をしかめて、私から視線を外した。
「でも、嘘じゃないですよね?」
「……」
「津田さんが言った事」
「……」

 私の折りたたみ傘を持ったまま、目の前に立っている彼の次の言葉は聞きたくなかったけど、足が動かない。もう一つの傘を持つ私の手が小さく震えているのを、自分のものじゃないみたいに、じっと見つめる。


 秋の冷たい風が、雨の匂いと一緒に傘の中にいる二人の間を通り過ぎた。



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