ななおさん
番外編 さんにん
九月に入ったばかりの陽気は、まだ秋の気配を微塵も感じさせない。
窓の外に広がる目が痛くなるくらいの真っ青な空を見つめ、ほっと息を吐いた。その瞬間、リビング中に泣き声が響き渡る。
「あららら〜、東京のばぁばは嫌かな? どうしようね〜」
「やっぱり私がいいんだろう。どれ、抱っこするから、ほら」
「お父さんはだーめ。今まで抱っこしてたでしょ」
「お前は昨日、さんざっぱら抱っこしてたじゃないか。私ももっと抱っこしたいぞ」
義母に手を伸ばした義父の間に、壮介さんが割り込んだ。
「父さんも母さんも取り合いしないの。ほら泣いちゃってるじゃない。僕が抱っこするよ」
あれよという間に、彼は自分の腕の中に子どもをおさめた。
「まぁ、壮介ったら」
「小夏(こなつ)ちゃんは、パパがいいんだもんね〜。あー可愛い。世界一可愛い子だ、いい子いい子」
壮介さんは小夏の柔らかなぷにぷにのほっぺたに、ちゅっちゅと何度もキスをして、とろけそうな笑顔を浮かべている。
「絶対にどこにも嫁にはやらないからね〜、ずっとパパのところにいようね〜。彼氏なんか連れて来たら、その男ぶちのめしてやるからね〜」
「怖いな、お前は。気持ちはわかるが」
お義父さんが呆れたようなため息を吐く。私は反対に笑いがこみ上げた。
義父母には仕事人間の顔、私の両親には何でもそつなくこなす、しっかりした婿の顔を見せていた壮介さんの子煩悩っぷりに、皆驚きっぱなしだ。私には想定の範囲内だったけど、ね。
七月に横浜の実家に帰った私は、八月初めに出産をした。ありがたいことに初産とは思えないほどの安産で、生まれたのは元気な女の子。壮介さんが妊娠中に「予定日が夏だから、女の子が生まれたら『小夏』ちゃんにしよう」と決めていて、その通りになった。響きが可愛らしく、古田の名字にもぴったり合っている。私も大賛成をした名前だ。
そのまま実家にいた私と小夏は一か月健診を終え、その後、お宮参りも近くで済ませることになる。鎌倉でのお宮参りもいいなと思ったけれど、それは少し大きくなってからの七五三にする予定だ。
昨日、こちらへきてくれた義父母と壮介さんとともにお宮参りを済ませ、皆は私の実家に泊まった。小夏の生後一か月と、私の体が順調に回復しているのをお祝いしてもらう。義母と義父は初孫ということもあって、ことさら嬉しそうだった。そんな二人の笑顔を見ることが、私もとても嬉しい。
「いいパパでよかったわね、七緒」
「うん」
母が私のそばにきて座った。実家で頼りっぱなしだった一か月が、これで終わる。多少の心細さはあるけれど、不思議と不安はなかった。産む前は不安なことがいっぱいだったのに、小夏の顔を見てからはなぜだろう、私がしっかりして、この子を守らなくてはという気持ちのほうが勝っている。
「忘れ物はない?」
「大丈夫」
「まぁ、何かあったら、すぐ宅配便で送るから」
「うん、お願い」
壮介さんは泣き止んだ小夏を私の腕にそっと預けた。小さな重みを大切に抱っこする。彼は私の荷物を持ってくれた。
「これでしばらく横浜のばーばとはさよならね、小夏ちゃん」
「じーじもな。またな、小夏ちゃん」
腕の中にいる小夏を、私の両親が覗き込む。小夏は何となく二人の方をじっと見た。黒目の大きな瞳がきらきら輝いている。
「お父さんお母さん、お世話になりました。家にも遊びに来てね」
「またくるんだぞ、七緒」
「うん、ありがとう、お父さん」
「何かあったら言いなさいよ、飛んでいくから」
「ありがと、お母さん」
私はそばにいた義父母にも頭を下げた。
「お義父さん、お義母さん。昨日、今日と本当にありがとうございました」
「よかったわね、七緒ちゃん。無事に一か月健診もお宮参りも済んだし、ホッとしたでしょう」
「ええ、本当に。首が座ったらみもと屋に連れて行きますね。あ、もちろん家にも遊びに来てください」
「ありがとう、七緒ちゃん。何かあったら私も飛んでいくから、遠慮せずに何でも言ってね?」
「はい!」
私と小夏は、壮介さんが昨日迎えに来た車で家に帰る。義父母はこの後、横浜周辺を観光してから帰るようだ。
「ただいまー! あ〜家の匂いがする。懐かしい」
「七緒さん、二か月ぶりだもんね」
「うん。やっぱりホッとする。エアコンつけておいてくれたのね」
「ああ、スマホでね。やっぱりこれがあると便利だな」
家に着き、玄関を上がって驚いた。意外にもとても片付いていて、掃除もよくされている。私が妊娠中から掃除を手伝ってくれたことはあるけど、ここまでしてくれていたとは思いもよらなかった。
リビングで壮介さんが振り向く。
「ほら小夏ちゃん、ここが君のお家だよ。お腹にいるとき、ここにいたんだよ。だから大丈夫だよ、安心してね」
小夏の顔に近づいた彼の穏やかな声に包まれる。
「……そっか、そうよね。ずっとここで一緒にいたんだよね、私たち」
小夏を不安がらせないようにと気遣う壮介さんの言葉が、私の胸にもじんと沁みた。
「壮介さん、優しいのね」
「何言ってんの。僕はいつだって優しいでしょ」
「うん、そうね」
「また笑うんだから。あ、七緒さんは小夏ちゃんとソファに座ってて」
荷物を置いた彼は慌てて洗面所に行き、すぐさま戻ってきた。
「なあに?」
「僕がお布団敷いてあげるから、ちょっと待っててね」
「あ、ありがとう」
リビングと続きになっている和室の押し入れを開けた壮介さんは、お布団を敷いてシーツをかけた。赤ちゃん用のお布団にも同じようにしてれる。
「もしかして、お布団干しておいてくれたの?」
「そうだよ。休みの日と、昨日の朝も少しだけど干したよ。七緒さんと小夏ちゃんを迎えるんだ。綺麗にしておかないとね」
「色々と不便かけたのに……ありがとう。嬉しい」
何も言わなくても、ここまでしてくれたことに心から感謝したい。料理は作れるようになったし、お洗濯も自分でしていたようだし……仕事の忙しい彼が、頑張ってくれていたことに感動する。
「まぁね、こんなことくらい当然だよ。パパなんだから」
「パパかぁ」
「七緒さんだってママじゃない」
「うん、そうね。小夏ちゃんのパパとママね」
微笑み合い、小夏を綺麗なお布団の上にそっと寝かせた。
「七緒さーん! 小夏ちゃん出るよー!」
「はーい! 今行くー!」
帰ってきて早々だけれど、今夜初めて小夏をお風呂の湯船に入れることにした。張り切っていた壮介さんは、昨夜私の実家でベビーバスを使って練習したばかりだ。とはいえ心許ないので、体を洗う時だけはバスルームの外から見守っていた。ぬるめのお湯に二人が浸かっている間に、私はささっと夕飯の用意をする。といっても、母に持たされたおかずを並べただけなんだけど。
壮介さんに呼ばれた私は、急いでバスルームに行く。広げたバスタオルの上で小夏を受け取り、ふんわりとくるんだ。嫌がるかと思ったけれど、意外にも小夏はご機嫌だ。
「よかったね。パパと一緒にお風呂は楽しかったかな?」
「楽しかったよね〜、小夏ちゃん。一緒に湯船へ入れるのはいいなぁ」
小夏は応えるように、むちむちの手足をぐいぐいと動かしている。可愛くてどうしても顔が綻んでしまう。
「ありがとう壮介さん。あとはごゆっくり」
「うん、よろしくー」
しばらくして、タオルで頭を拭きながら壮介さんがリビングにやってきた。和室のお布団に横たわる小夏のところへ行く。
「あれ、寝ちゃったの?」
「うん。おっぱい飲んだら、すぐに寝ちゃった。今日は移動もあったし、湯船に入って疲れちゃったのかも」
「そうか。七緒さんも疲れたでしょ」
「ううん、大丈夫。夕飯も全部お母さんが持たせてくれたものだし。ごめんね、手抜きで」
「いいんだよ。これから大変なんだから、三年でも五年でも十年でも手抜きしてな」
「十年も?」
彼なりの優しさで言ったんだろうけれど、つい噴き出してしまった。
「いいの、いいの。適当にやったって死にはしないんだから」
「そうね、ありがとう」
やっぱり壮介さんっていいな。一緒にいて会話をしているだけで、心から安心できる。
ゆったりした食事を終えて、私たちは寝ている小夏のお布団のそばに座った。
寝顔を見ているだけで、何とも言えない感情が胸に湧き上がる。ぎゅっと握っている小さい手に、私の指を握らせた。ずっとずっと守っていきたい、宝物。
「そのうち首が座って、寝返り打って、お座りして、はいはいして、立っちして、歩いて……」
「七緒さんは気が早いね」
「だってね、きっとあっという間に成長しちゃうと思うの。今はおぎゃーって泣いてるけど、いつの間にかうええーんっていう、子どもの泣き声に変わっちゃう。そんな感じでどんどん大きくなっていくんだから」
帆夏の赤ちゃんの時を思い出す。彼女だって、ついこの前まで赤ちゃんだと思ってたのに、今は幼稚園の年中さんだ。
「……そうか。そう考えると寂しいな。成長するのは嬉しいけど」
「うん。だから一瞬一瞬をたくさん覚えていたい。三人で楽しく過ごしたことも、全部」
「そうだね。うん、そうだ」
小夏を見ていた壮介さんが顔を上げた。
「七緒さん、抱きしめていい?」
「え」
「まだ無理かな」
「ううん、そんなことない。嬉しい」
返事をすると、すぐそばに来た壮介さんが私を抱きしめた。
産後、病室で抱きしめてくれた時以来かな? 緊張しながらも、彼の腕の中で身を委ねる。あったかくて心地いい。
「七緒さん」
ぎゅっとされた途端、両胸がちくんと痛んだ。
「あっ、いたた」
「え! ごめん、どうした!?」
「ううん、壮介さんは悪くないの。私が……」
「?」
ありがたいことに、私は安産な上に母乳の出もよかった。そのせいか小夏に飲ませた後も、どんどん作りだしてくれているのか、すぐに胸が張ってしまう。
「胸が張っちゃって。……母乳がたまってきたみたい」
「じゃあ僕が飲んであげる」
「ええっ!!」
とんでもないことを言いだすから、声を上げてしまった。小夏は気にせず寝ている。
「ははっ、冗談だよ。……ちょっと本気だけど」
「そ、壮介さんてば……! でも、もしかして皆そういうことしてるの?」
「他は知らないけど、僕は興味あるなぁ」
顔を上げた途端、そっと唇を重ねられた。
「ん……」
「キス、嫌じゃない?」
すぐに唇を離した彼が、私の瞳を覗き込む。その表情がなぜか不安げに見えた。
「どうして?」
「……いや、それならいいんだ」
微笑んだ彼が、また私の唇を奪う。今度はほんの少しずつ舌を入れて絡ませてきた。
「ん……ん、ん」
久しぶりのキスはとても優しい感触で、頭がぼうっとしてしまう。と、彼の大きな手のひらが私の胸を包み込んだ。途端にまた、ちくんと痛みが走る。
「あ、ん……っ!」
「あ、ごめん。やっぱり痛いか」
「ううん、大丈夫。何ていうか、いつもの十倍敏感になってる感じなの」
「そうか、今日はやめとくよ。今は小夏ちゃんのものだもんね」
や、やめておくって、本当にそのうち飲むつもりなのかな……。壮介さんならやりかねない。何だか、とてつもなくいやらしくない? 想像して顔が火照る。
私は布団に横になった。きちんと洗ってあるシーツは肌触りがよく、気持ちがいい。うーん、と伸びをして天井を見上げる。家っていいな。今日帰ってきてから、何度そう思っただろう。
私のお布団の左に小夏のお布団。右に壮介さんのお布団が敷いてある。子どもを真ん中で川の字もいいんだけど、壮介さんが自分の寝相を気にして、こういう配置になった。
彼はひざまずいて小夏の寝顔に話しかけている。
「かーわいいなぁ、小夏ちゃんは。世界一可愛い。あ、もちろん七緒さんも世界一可愛いよ」
「ありがと」
眼鏡を外した壮介さんは、小夏に頬ずりをした。あ、痛いかな? なんて心配そうに彼女の顔を確認している。小夏は一瞬だけ眉根を寄せ、すぐにまた寝入ってしまった。ホッとした壮介さんは、また小夏の寝顔をじっと見つめている。
これだけのことなのに、幸福感が次々と湧き上がってくる。
「こんなに小さいのにさ、この存在感の大きさは何なんだろうね」
「本当ね。ね、小夏ちゃん、壮介さんに似てきたよね」
「そう?」
「うん。生まれたばかりの時は私に似てる気がしたんだけど、段々壮介さんに似てきてるよ」
「そうかなー。僕は七緒さんに似てほしいけどなぁ」
と言いつつも、ものすごく嬉しそうだ。
壮介さんは立ち上がり、小夏のそばを離れて私の隣のお布団へ寝転がった。
「僕、あのとき……七緒さんを諦めないで良かったなぁ」
「え?」
壮介さんのほうに横向きになると、手を取られた。大きくて温かな彼の手が、私の手をきゅっと掴む。壮介さんは私と視線を合わせ、目を細めた。
「僕をこんなに幸せにしてくれてありがとう、七緒さん」
「な、何言って……」
胸に嬉しさが込み上げて、私の涙を溢れさせる。気づけば、ぽろぽろと頬を涙が零れていった。
「あ、ああ、ごめんごめん。余計なこと言っちゃったかな? 産後もナーバスになるんだっけ?」
「ち、違うの。嬉しいの、とても」
「七緒さん」
「私だって、こんなに幸せにしてもらって、ありがとうって言いたい。壮介さん、ありがとう」
「うん」
壮介さんは私をそっと抱き締め、泣いている私の背中を優しく撫でてくれた。私の大好きな彼の香りに胸がきゅんとする。
「七緒さん。もう一回キスしてもいい?」
「……うん。して」
「よかった」
安心したように笑うから、涙を拭きながら問い掛ける。
「さっきから、どうしてそんなこと聞くの?」
「いや、拒否されても仕方ないと思ってたんだよ。赤ちゃん産んだばかりだと、あんまり触られたくなくなるっていうの読んでさ。だから、ちょっとホッとした」
「そうだったの」
「いやでも、七緒さんがまだそういうの一切嫌だって言うならいいんだよ? 無理はしないで欲しいし」
私の為に、私の知らないところで壮介さんはたくさん考えてくれている。そんな彼と一緒に子どもを育てていけることが、とても幸せだと思う。
「全然無理してません。私は壮介さんとキス、したいです」
「僕も七緒さんとたくさんキスしたい」
「うん。いっぱいして」
「するよ、たくさん」
微笑み合ったあと、どちらからともなく唇が重なった。
いたわるような彼の優しいキスが、私の心も体も癒してくれる。
何度も何度もキスをして、鼻先を合わせ、額をくっつけ、手を握って、頬を寄せ合う。壮介さんの息遣い、体温、心臓の音……すべてが愛しい。私たちは離れていた時間を取り戻すかのように、ただ黙ってお互いを包むように抱きしめた。時々微笑みを交わし、そして私たちの可愛い赤ちゃんの様子をうかがいながら。