七緒さんと一緒にみもと屋の店舗へ入り、土間続きの奥へと進んでいく。厨房から、みもと屋ご主人のおじさんと、おばさんが出てきた。
「お義父さん、お義母さん、こんにちは」
「七緒ちゃん、いらっしゃい!」
「ああ小夏ちゃん、来た来た!」
ベビーカーから降ろして七緒さんが抱っこしていた赤ちゃん――小夏ちゃんを見て、ふたりはとろけそうな顔になっている。
「おや? 有澤さんじゃないですか!」
「あらまぁ、くるみさんと一緒だったのね」
顔を上げたふたりが、私を見て驚いた。
「こんにちは。お久しぶりです」
私は頭を下げてお辞儀した。
七緒さんに勧められるがままに来てしまったけど……いいのだろうか。
「あの、くるみさんと一緒に奥でちょっと、いいですか?」
ためらう私の気持ちを汲んだように、七緒さんが言った。
「もちろんだよ、どうぞどうぞ」
「あとでお菓子持っていくわね」
優しく笑ってくれるふたりの言葉に甘え、私は七緒さんのあとをついていった。
「お邪魔します」
「どうぞ、座って。今コタツつけるね」
七緒さんは座布団の上に小夏ちゃんを置き、コタツのスイッチを入れた。和室は暖房が入っていて、すでに暖かい。
「ここ……とても久しぶりです。古田さんと初めて和フェアの話し合いをした時、このお部屋だったんです」
「そうだったの」
「私あの時、古田さんにとても失礼な態度を取っちゃって。でも、おあいこだって古田さんは笑ってくれました」
商店街のイベント「じゃぱん・和フェア」。そのフェアで、みもと屋さんと椅子カフェ堂が和スイーツのコラボをすることになり、古田さんと知り合った。もう、ずいぶん前のことのように思える。
「ねえ、くるみさん。それってきっと、壮介さんがくるみさんに失礼なこと言ったからよね?」
「えっと、そ、そんなことは……あります」
七緒さんの言葉にドキリとしながらも、私は正直に言ってしまった。
「やっぱり……!」
ふふっと七緒さんが笑うと、彼女に抱っこされた小夏ちゃんもニコニコ笑った。私も釣られて笑顔になる。
七緒さんはつややかな黒髪を後ろでひとつに結わいている。きちんとまとめられて清潔な印象だ。華奢な体つきだけれど、胸が大きくて女性らしい。私も出産したら、あんなふうに大きくなれるんだろうか? 思わず自分の胸元に手を当ててしまった。……ムリかも。
前から七緒さんのことを清楚で綺麗な人だと思っていたけれど、ママになってからは柔らかい雰囲気が加わってますます素敵な女性になっている。
いいな、七緒さん。とても優しそうだし、小夏ちゃんも幸せそう……
「くるみちゃん、来てるって?」
ひょいと和室に顔を出したのは、七緒さんのご主人、古田さんだ。
「壮介さん」
「古田さん、お邪魔してます!」
「どうぞどうぞ。久しぶりだね〜。椅子カフェ堂リニューアルしたんだって?」
古田さんは熱いお茶と、お皿にのせたロールケーキをコタツの卓上に置いた。抹茶を使っているのだろう、鮮やかな緑色がとても綺麗だ。
古田さん、ワイシャツの上に半纏羽織ってるけど、そんなに寒いのかな?
「事務所を改装したんです。椅子カフェ堂はホールの壁紙と厨房の一部だけなので、以前とあまり変わりはないんですが、お客さんは喜んでくださってます」
「うちの店もガラッとイメージ変えたいんだよなー。まぁ、しばらくは無理だけどさ。今度、そっちに七緒さんと食べに行くよ」
「ぜひいらしてください」
古田さんは微笑んでうなずくと、七緒さんに「寒くなかった?」とか「小夏ちゃんいい子だね」なんて声をかけている。
古田さん、とてもいいパパなんだな……
ぼんやり三人を見つめていると、古田さんがハッとしたように私を振り向いた。
「あ、七緒さんと話があったんだよね。僕はお邪魔だな。小夏ちゃん、パパとあっちに行ってよう。うーん、いつ見ても小夏ちゃんはかわいいっ!」
小夏ちゃんを抱き上げた古田さんは、彼女の柔らかそうなほっぺに頬ずりしている。そのまま出ていってしまいそうだったので、私は彼を引き留めた。
「いえ、待ってください。七緒さんと古田さんのおふたりに聞いて欲しいんです。先輩として」
「先輩?」
「赤ちゃんのお父さんとお母さん、っていう先輩として……聞いて欲しいんです」
ふたりは一瞬ぽかんと口を開けたあと、驚いた声を上げる。
「くるみさん、赤ちゃんが……!?」
「そうだったのか、おめでとう!」
安定期に入るまでは公にするつもりがなかったんだけど、ふたりには聞いてもらってもいいよね?
「ありがとうございます」
「有澤さんも稲本さんも喜んでるでしょ」
「はい。……とっても」
コタツに入った古田さんに言われ、思わず口ごもってしまった。
「ん? どうした?」
「くるみさん、何があったの……?」
心配そうなふたりの視線が届く。私は両手をコタツの上で組み、そこに目線を落とした。
「なんだか私、変なんです。私が食べづわりで味覚が変わってしまったことで、新垣くんがスイーツを全部作ってくれています。みんな、私には何もしなくていいって……。厨房は冷えるし、ホールに出るのも立ちっぱなしだからダメだと言われてます」
「うん、まぁそうか。有澤さんが言いたい気持ちもわかるなぁ」
「でも私、そんなに心配してもらってるのに、なんの役にも立てていない気がして、ずっと寂しくてたまらないんです。なんのために椅子カフェ堂にいるんだろうって……」
「新垣くんがなんでもできるからね。メガネ男子がどうのって雑誌、僕も見たよ。彼に取って代わられたくるみちゃんの立場が危うい、ってわけか」
古田さんの言葉が胸に突き刺さる。言われた通り、私は新垣くんに取って代わられてしまうことに、不安を感じているんだ。
「ちょっと壮介さん……!」
七緒さんが古田さんをたしなめるように声を掛けた。小夏ちゃんは古田さんの膝の上で手足をバタバタさせている。
「ごめん、くるみちゃん。言い過ぎた」
「いえ、本当のことですから。新垣くんが私の代わりになんでもできることがつらい……なんて、私のワガママだということもわかってるんです。皆が私のために頑張ってくれて、特に新垣くんは苦手なスイーツを必死に勉強してくれたのに……。本当にどうしてこんなふうに思うのか、自分で自分が理解できなくて」
「それってマタニティブルーじゃないの?」
「違うと思います。赤ちゃんのことで悩んでるわけじゃないし、お母さんになることはとても嬉しいんです」
私は首を横に振って反論した。
「だったらそのワガママっていうのを、くるみちゃんは有澤さんに言ったの?」
「え……っと、いえ」
「くるみちゃんは我慢し過ぎなんだよ。こうやって僕らに話すように、有澤さんに自分の気持をぶつけてみな?」
「……」
私、前もこうして古田さんに励まされた気がする。どうして永志さんには大事なことを言えなくなっちゃうんだろう。
「私はくるみさんの気持ち、すごくわかる」
私が言い淀んでいると、七緒さんの落ち着いた声が静かに響いた。
「七緒さん」
「有澤さんのことが大好きだから、言えないんでしょう? こんなこと言ったらいけないって、思い込んじゃうことない?」
「たぶん、そうなんだと思います。永志さんが大好きだから……核心に触れたらがっかりされるかもしれないとか、嫌われちゃったらイヤとか、変な見栄があるのかも」
言葉にしてみると、思わぬ自分の気持が出てきて驚く。
「まぁ、僕らもそうだったしね。仕方ないか」
古田さんがため息をつくと、七緒さんが何度も小さくうなずいた。
「妊娠中だと余計に鬱々しちゃうんだよね。でもね、壮介さんが言うように、有澤さんに寂しいって気持ちを、くるみさんが話すのが一番いいと思う」
「……はい」
永志さんだって忙しいのに、寂しいなんて言ってもいいのだろうか。
「七緒さんも、僕に正直に言ってくれたもんね?」
「ちょっ、壮介さん?!」
焦る七緒さんの声に、私は顔を上げた。どういうことだろう。七緒さんも私のように悩んだの……?
「あの、七緒さん。なんておっしゃったのか伺ってもいいですか……?」
「僕はいいけど、七緒さんはどうかなー」
「壮介さんの意地悪」
古田さんがニヤリと笑うと、七緒さんが顔を真っ赤にして、照れくさそうに話し始める。
「私はね、その……妊娠中に壮介さんが浮気してるんじゃないかって、急に不安になっちゃったの。もちろんそんなことはないんだけどね? 初めての妊娠だったし、不安だらけで余計なことたくさん考えちゃって」
僕はずーっと七緒さん一筋なのにね、と古田さんが肩をすくめた。
「七緒さん、全然そんなふうに見えないのに……不安になったりしたんですね」
「うん。きっと誰でもそうなるんだよ。妊娠初期から、体だけじゃなくて心もお母さんになる準備を始めてるんだと思う。くるみさんだけじゃないから安心して。ね?」
七緒さんの優しい言葉にまた、涙が浮かびそうになる。
「……そうですよね。私だけじゃないって思ったら、少しスッキリしました。聞いてくださってありがとうございます」
だいぶ気持ちに整理がついた。
椅子カフェ堂から離れて別の立場の人たちと話すこと。客観的に自分を捉えるには、こういう場がとても大事なんだと、今わかった。
「これ新作なんだよ、乾燥しないうちに食べて。七緒さんも」
抹茶とプレーンの生地がストライプになったロールケーキを、古田さんが私たちに勧める。
いただきますをして、ロールケーキを食べると、抹茶の良い香りが口中に広がった。
「わっ、おいしい! ふわっふわね」
七緒さんが嬉しそうに笑いながら、もうひと口頬張る。
本当においしすぎて、私は少し嫉妬を覚えるくらいだった。みもと屋さんは季節ごとに新作を出し、常にネットショップで和菓子部門の上位に食い込むくらいの人気店なのだ。
「クリームに入ってる小豆がまた絶妙ですね。甘すぎなくて本当においしいです」
うじうじしてる場合じゃない。同じ商店街のお店として、椅子カフェ堂も負けていられない。
「ありがとう。ふたりにそう言ってもらえると安心だよ。そういえばくるみちゃん、食べづわりってなんでも食べられるの?」
「食べないと気持ちが悪くなってくるんですけど、食べていれば大丈夫なんです。でも、好き嫌いは増えたかも……」
「そうか。大変だよな、妊婦さんは」
古田さんは小夏ちゃんの髪を愛しげに撫でている。
七緒さんのつわりはどうだったんだろう。古田さんが食べづわりを知らないってことは、吐き気が強くて食べられない方のつわりだったのかな。それとも軽かったんだろうか。でもつわりがひどくなくたって体調に変化はあるよね――
「あっ!!」
ロールケーキを食べ終わったと同時に、私は声を上げていた。
「ど、どうしたの?」
「なんだ?」
妊婦にとって食べすぎは良くないし、体調の変化で食べられないのもつらい。だからこそ、考えなくてはいけないことがあったのに。
「せっかく私、妊婦だっていうのに……今までどうして思いつかなかったんだろう」
ふたりは顔を見合わせ、首をかしげている。小夏ちゃんはキャッキャと笑っていた。そして私は三人を見つめながら、ゆっくりその場を立ち上がった。
「古田さん、ありがとうございます。七緒さんも心配してくださって、本当に本当にありがとうございました……! 私、帰って新作考えます。永志さんにデカフェができないか相談して、私もそれに合わせてスイーツを考えます」
「デカフェ……!」
「なるほど、そうか。今のくるみちゃんの立場なら、いろいろ考えられるね」
古田さんと七緒さんは、私に「頑張れ!」とエールを送ってくれた。
「小夏ちゃん、またね。私の赤ちゃんとお友達になってね」
私を見た小夏ちゃんの顔は、少し古田さんに似ていると思った。
その日の夜。
閉店後の椅子カフェ堂ホールに集まり、みんなで永志さんが作ったビーフシチューのまかないを食べる。住谷パンの残りはガーリックトーストに。ポテトサラダや、白身魚のフリッターも添えられている。全部おいしくて、おかわりしたくてたまらないけれど、どうにか我慢した。
一息ついたところで、私はそっと立ち上がる。
「皆さんにお話があります。というか、提案があります」
隣に座る永志さん、正面に座る職人さん、職人さんの隣に座る新垣くんが、一斉に私を見上げた。
「まず、永志さんにお願いが……」
「お、おう。急にどうした?」
「あの……今後、お客さんにデカフェを提供することは難しいでしょうか」
できれば永志さんに、いいよとうなずいて欲しい。そうすれば、新作スイーツも勢いがつく。
「デカフェ……カフェインレスのコーヒーか」
永志さんは顎に手をやり、ふむ、と考え始めた。
「自分が妊婦になって、その不便さにやっと気づくことができたんです。椅子カフェ堂のコーヒーが好きなのに飲めないのは悲しいなって。カフェインレスのコーヒー以外にも、ハーブティーを置くようにすればそれもいいかなって」
なるほどな、と永志さんがうなずく。
私は椅子に座り、もう一度みんなの顔を順番に見つめながら、説明を続けた。
「そして、私にやらせてもらいたいことがあります。永志さんがデカフェを提供できる形になったら、同時にローカロリーのスイーツを出したいと思っています」
「スイーツで低カロリーってこと?」
「はい。さっきちょっと調べたんですが、ローカロリー専門のスイーツ店というのがあるんです。妊婦や食事制限を必要とする病気を抱えた方にも、食べられるようなスイーツです」
今までスイーツの完成度を上げることに精一杯で、そこまで考える余裕はなかった。でもこれは、今までやってきたこを見直すいい機会だと思うから。
「なるほど……。しかしこれは難しいですよ、くるみさん」
新垣くんがメガネの真ん中を押さえる。
「そうなの。だから新垣くんに協力してもらいたいんだ。もちろん永志さんと職人さんにも味見を手伝ってもらいたいんです。私は今、味に自信がないので」
息を吸い込み、ここからは自分についての気持ちを伝えることにした。
「それから普段のことですが、住谷パンさんには私が行ってパンを受け取ってきます。でも雪とか土砂降りの朝は、どなたかにお願いします」
私が、できること。
「私がホールやレジを手伝うのは比較的空いている時間にします。誰かとぶつかったりしたら、赤ちゃんのことはもちろん、お客さんにまで心配かけちゃうから」
ただ守られているだけじゃなくて、椅子カフェ堂と一緒に生きていくために。
永志さんと、お腹の子と一緒に……この先もずっとずっと、椅子カフェ堂とともに在りたいから。
「椅子カフェ堂は……私の居場所なんです。だから、今まで通りにはいかなくてもかかわらせてください。それはお腹の赤ちゃんのためにもなると思うんです」
「そうなの?」
すぐ隣の永志さんが、私の顔をじっと見つめる。私は彼の視線を受け止め、見つめ返した。
「私……正直言ってちょっと落ち込んでました。今日、外で偶然会った古田さんの奥さんに誘われて、みもと屋に行ったんです。そこにいた古田さんと七緒さん、おふたりに気持ちを聞いてもらって、私は自覚してないマタニティブルーだったことに気づきました。でも、マタニティブルーだけじゃなくて、やっぱり私は椅子カフェ堂のお仕事が大好きだから、この状況が寂しいんだと気持ちの整理がついて……」
「すみません、くるみさん! 僕がしゃしゃり出てしまったから……!」
新垣くんが椅子から立ち上がり、勢いよく頭を下げた。彼の切羽詰まった声が、どうしようもなく申し訳ない気持ちにさせる。新垣くんは何も、悪くない。
「違うの! 新垣くんは全然悪くないの。新垣くんがいてくれるから、私は安心して休めるんだもん。それなのに、自信のない弱い自分が妊娠をきっかけに出てきちゃっただけなんだ。だからこれは、自分と向き合う時間なんだって思うことにしたの」
新垣くんは職人さんに促されて、椅子に座った。新垣くんは優しい。新垣くんだけじゃない、椅子カフェ堂にいる人、かかわってくれる人はみんな優しくて……心がじんわりと温かくなる。
「自分の気持から逃げないで、正直になります。だからお願いします……! 体調に合わせて、自分のできる仕事をさせてください」
その場でペコリと頭を下げる。すると、私の手に永志さんの手が重なった。大きな手のひらが私の手を包む。
「永志はそれでいいのか?」
職人さんが尋ねると、永志さんがうなずいた。
「ああ。くるみちゃんがやりたいようにやればいい。ただし、絶対に体調が優先だからな?」
「ありがとう、永志さん」
彼の手を握り返すと、もっと強い力で握ってくれた。伝わる温かさに嬉しさがこみ上げて、落ち込んだ気持ちがどんどん小さくなっていく。
「俺、ちょっと感動してるよ」
「え?」
「くるみちゃんが椅子カフェ堂を自分の居場所だって、言ってくれたことに」
永志さんは私とつないだ手をじっと見つめた。
「もとは俺がくるみちゃんを引き留めて、無理やり面接してさ、チーズケーキチーズケーキって騒いで、作ってもらって……。くるみちゃんは、そんな俺の気持ちに応えるために、必死でやってきてくれた。だから、こういう機会に少しでも休ませて自由にさせてやりたいって、思ってたんだよ」
永志さんから初めて聞く言葉だった。彼の優しさに胸が震える。
「でもそれはくるみちゃんにとって、違ったんだよな。ごめん、気づかなくて」
「そんな……! 永志さんも職人さんも新垣くんも、みんな私のためを思ってくれたことです。だから――」
手を離した彼は立ち上がり、座っている私をそっと抱きしめた。
「え、永志さん!?」
彼のシャツに顔がうずまる。永志さんはかがんで私を抱きしめながら、頭を優しくなでてくれた。
「ここまで言わせてごめん。俺、やっぱり鈍いんだよな。一番大切にしなきゃいけないくるみちゃんの気持ちをおざなりして……。もっと気づけるように努力しないとダメだ」
「そんなこと、ない……」
妊娠してから、どうしてか……すぐに涙がこぼれてしまう。
普段なら取るに足らないことが心に大きく響いて、悲しくなったり苦しくなったり、落ち込んだり……。妊娠で体が変わると、心までこんなに影響があるなんて知らなかった。
――体だけじゃなくて心も、お母さんになる準備を始めてるんだと思う。
七緒さんが言った言葉を胸に留めながら、私は愛する人にもたれて泣いた。
「いつまでも泣いてんなよ、くるみ」
「も、もう泣いて、ませ、んっ」
職人さんに言われてハッとする。鼻をすすりながら、永志さんの腕の中で涙を止めた。
「いいか? 俺らはお前をまだまだ甘やかすからな、覚悟してろ」
「え、でも」
顔だけ職人さんの方を見ると、甘やかすなんていう内容の割に、いつも通りの不機嫌な顔だ。
「お前が何を言おうが、少しでも顔色が悪ければ奥の部屋に強制連行だ。ガッキーにうまいもん作ってもらって、永志にあったかい飲みもん持ってきてもらって、奥の部屋で十分休むことが条件だ」
「……えっと、職人さんは何を?」
「俺はお前の分のプリンを食ってやる」
「なっ、全っ然甘やかしてないじゃないですか……!」
「お前がブクブク太るのを阻止してやってんじゃねーか。感謝しろ」
私とくっついていた永志さんが、頭上で笑ったのがわかる。
「もし倒れるようなことになってみろ。俺が許さないからな、わかったか」
「……はい。職人さん、ありがとうございます……」
永志さんから離れて、私は涙にまみれた頬をハンカチで拭いた。永志さんは椅子に座る。
「それにな、俺はもうすでに赤ん坊のベッド、子供用の椅子、小さいテーブル、踏み台の設計図を作ってるんだぞ」
「えっ!」
いくらなんでも早すぎない!? しかも家具作りの合間にってこと……!?
「だから楽しみに待ってろ。いいな!?」
「は、はいっ!」
背筋を伸ばして、職人さんの好意を受け入れる。
ありがとう、職人さん。私たちの子どもを、最初から心待ちにしてくれて。職人さんの優しさもずっとずっと前からわかっていたのに。ひとりでいじけてた私は情けない。
「くるみさん! 僕もあなたの食べづわりのために、ローカロリーの食事を研究します!」
新垣くんが身を乗り出して言った。新垣くんだって、こんなにも優しいのに。
「それは俺の役目だよ、ガッキー。くるみちゃんのことは俺がやるの」
永志さんが新垣くんに人差し指を向ける。こういう宣言って、なんか恥ずかしいけどちょっと嬉しかったりして。
「ああ、そうでしたね。じゃあ僕はスイーツを――」
「うん。考えるの手伝ってくれる?」
「はい! よろしくお願いします、くるみさん!」
「チーズケーキはもともとタンパク質豊富で、生クリームを使うケーキよりは低カロリーだから、ちょっとの工夫で、いろいろできないかなって思ってる」
「なるほど、それなら――」
新垣くんとメニューを考えていると、永志さんはデカフェについてタブレットで調べ始めた。
寝支度を終えた私と永志さんは、ベッドに横になっている。今夜はとても静かな夜だ。
永志さんの腕枕は何よりも安心できる。そうだよ。何も不安なことなんてないのに……マタニティブルーって不思議な現象だ。
「永志さんごめんなさい、いろいろワガママ言っちゃって」
「なんで謝るんだよ。なんにもワガママなんかじゃない。っていうかさ、俺、本当になんにもわかってなかった」
「永志さん……」
「俺はどうやっても妊婦にはなれないから、我慢しないで心の変化も教えてほしい」
「うん、わかりました。これからはなんでも言うね?」
「おう、なんでも言って」
彼が私の頬をつん、と優しく突っつく。
「俺も今度、古田『先輩』のところへ行って、マタニティライフについて勉強してくるよ」
「永志さんってば」
クスクスと笑い合って、鼻先をこすり合わせた。
「愛してるよ、くるみ」
「私も愛してる、永志さん」
頬や唇にキスをしたあと、永志さんは「君のことも愛してるよ」と、私のお腹を愛しげに撫でた。
次話はいよいよくるみが…のお話です。