「小川さん! 帰ってきたんですか?」
こちらをみて微笑む小川さんにたずねる。
「今日、一時帰国したんです。しばらくお休みを取って、年明けにまたすぐあっちへ戻るんですけど。すみません、もう閉店ですよね?」
「全然大丈夫! 職人さんもいるし……あ、職人さんは知ってたんですか?」
「帰ってくることは知ってます。でも椅子カフェ堂にくることは、まだ」
「じゃあ驚かせちゃいましょう。入って入って」
普段職人さんは何も言わないけど、小川さんが海外に行ってから、どことなく寂しそうな雰囲気が伝わっていた。だからこれは絶対に嬉しいはず。
外にある折りたたみのテーブルと椅子を端に寄せる。フレンチカフェ風にしたいと言った私の提案通り、職人さんが作ってくれたものだ。
天気がいい日は外での食事を希望するお客さんも多い。青地に「椅子カフェ堂」と白抜きされた庇、そしてテーブルや椅子が、お店の外観を引き立て、素敵なものにしていた。
椅子カフェ堂のドアを小川さんに開けてもらい、立て看板をしまう。
からりん、という音と同時に店内へ入った私たちの前に、新垣くんが来た。
「あ、あなたは……」
小川さんを見た新垣くんが声を震わせる。真面目な彼のことだから、閉店間際の入店をよしとしないのかもしれない。説明しなければ。
「新垣くん。この人はね――」
「あなたは僕の理想の女性だ……!」
私の説明をよそに、新垣くんが小川さんに言った。
「……はい?」
小川さんがきょとんとして答える。新垣くん今、理想の女性って言った? 初対面だよね?
「僕は新垣と言います。あなたのお名前は?」
「えっと、あの」
「ちょ、ちょっと新垣くん、小川さん困ってるから」
「小川さんというんですね。あなたにぴったりな名字だ。下のお名前もさぞお美しいんでしょうね」
急になんなのこの積極性! 新垣くんってば目がキラキラしちゃって……なんて見ている場合じゃない。
「新垣くん待って。職人さんがきたらヤバいよ」
「どうして職人さんがきたらヤバいんです? 関係ないでしょう」
「関係なくないの。だって小川さんは――」
「……おいガッキー」
「ひっ」
後ろから迫った職人さんの声に、思わず悲鳴を上げてしまった。裏の作業場にいたはずなのに、いつの間にこっちに……!
恐る恐る振り向くと、職人さんは新垣くんを睨みつけている。
「お前の理想はくるみなんだろうが。よけいなことしてないで、くるみのことだけかまっとけ」
「人妻に手は出せませんからね。だいたい何で職人さんが怒るんですか」
やれやれといったふうに、新垣くんがメガネの真ん中を押さえる。……何も知らないって、怖い。
「美知恵が俺の女だからだよ」
「……は?」
って言った新垣くんと一緒に、私まで目が点になってしまった。「俺の女」だなんて……! 職人さんにここまで言わせる小川さんって、実はものすごい人なのでは?
チラリと小川さんを見ると、彼女の顔はすでに真っ赤だった。
「よ、良晴さん」
「お帰り、美知恵」
「あ、ただいま、です」
名前で呼び合ってる……! 恋人同士だから当然なんだけど、なぜだろう、すごく照れてしまう。
「ここにくるならそう言えよ。迎えに行ってやったのに」
「まだお仕事中かと思って」
「お前からの連絡なら中断するよ」
ラブラブな二人の会話を聞いている私まで顔が熱い。
「はぁ……また僕の恋が破れましたか……。儚い恋ばかりだ」
「ガッキーはクールに見せかけておいて、ほんっとに暑苦しいな。ま、お前もいつか本当の理想の女が見つかるって」
「……ですかね」
ガックリと肩を落とす新垣くんを、職人さんが励ましている。たまにこうやってまともなことを言うんだよね、職人さんって。
「さてと、俺はプリンでも食うか」
「ちょっ、何してるんですか」
ショーケースをごそごそし始めた職人さんに駆け寄る。油断も隙もない。
「もう閉店だからいいだろ。今日は一個しか残りがなかったからな、貴重なプリンだ」
「貴重なら小川さんにあげたらどうでしょう?」
「……」
あ、黙っちゃった。でもせっかく小川さんがきてくれたんだから、いいよね。
「いえ、私はいいんです。良晴さん、くるみさんが作るプリンが大好きなんですよね。だから――」
「いいよ、お前が食え。ほら」
職人さんがプリンを放棄した……!
「え」
「とりあえずこっちきて座れ」
「は、はい」
お邪魔します、と小川さんは私に会釈をし、テーブル席に向かう職人さんについていった。
二人の仲がよくて私まで嬉しくなってしまう。
「くるみー、俺はチーズケーキで我慢してやる」
「はーい。新垣くんもまかないのあとで食べる?」
「……いただきます」
再びため息をつく新垣くんの背中をポンと押し、私はレジ締めを始めた。
私の前に職人さん、彼を挟んで小川さんと新垣くんが座る。永志さんがそれぞれの前に料理を運んでくれた。
「今夜はビーフシチューか。まかないにしちゃ、手が込んでるな」
「くるみちゃんからのリクエストなんだ。どうしても食べたいんだって」
ビーフシチューのいい香りが漂い、お腹がぐうぐう鳴ってしまう。ごろごろ野菜と大きな牛肉が、艶のあるブラウンソースの中で泳いでいた。
「無理言ってごめんなさい」
「無理なんかじゃないよ。くるみちゃんにまかないのリクエストをされるのは珍しいからな。嬉しくて張り切って作った」
「ありがとう、永志さん」
好き、って言いそうになって慌てて口を閉じる。二人の時は好き好き言ってるから、クセになってるみたい。気をつけないと。
付け合わせはグリーンサラダにマッシュポテト、ガーリックトーストだ。早速みんなでいただきますをして、ビーフシチューを口にした。
「おいしい〜! お肉がトロトロで、じゃがいもがほくほく。いくらでも食べられちゃいそう」
「そうか、よかった。小川さんも遠慮しないで食べてね」
永志さんは微笑み、小川さんに視線を移す。
「ありがとうございます。急にきたのにすみません」
「いや、元気な顔を見ることができて嬉しいよ。勉強は順調なの?」
「はい、おかげさまで何とか頑張っています」
小川さんが笑顔で答えた。
彼女は職人さんに認めてもらえるようにと、インテリアコーディネーターの資格を取った後に海外へ留学をした。それから半年以上が経った今、小川さんの表情が以前よりも余裕のある、大人なものに変わっている。きっと私が想像もつかないほど、向こうで頑張っているんだろう。
「おい永志。ワイン開けないのか?」
「ああ、今夜は酒はナシにしよう」
「いいけどさー、せめてビールくらい……」
「せっかく小川さんがいるんだし、酔っぱらってる場合じゃないだろお前は」
「へ〜い」
職人さんは口を尖らせて、お水をごくごくと飲んだ。彼は相変わらず永志さんには弱い。
「くるみちゃん、おかわりする?」
「いいの?」
「いいに決まってるだろ。くるみちゃんのために作ったんだから、たくさん食べな。ほらお皿貸して」
「あ、ありがとう」
あっという間にぺろりと平らげてしまった。
言われるがままに空のお皿を差し出す。笑った永志さんはお皿を受け取り、厨房へ向かった。
私だけ食べ終わってて恥ずかしい。と思いつつも手は止まらず、私はガーリックトーストを食べ始めた。
「くるみ、お前……」
「はい?」
職人さんがじっとこちらを見ている。
「いや、朝からよく食うなと思ってさ。午後のまかないも親子丼二杯食ってたよな?」
「だから食欲の秋ですってば」
「とりあえず無駄な抵抗はやめとけ」
「無駄な抵抗?」
レタスを刺したフォークを、職人さんが私へびしっと向けた。
「今さらそんなに食っても、それ以上成長はしな、いでーっ!」
「黙って食べてください」
「蹴るなっての。いてぇなお前は……!」
「余計なこと言うからです。小川さん、たくさん食べてくださいね。遠慮してると、職人さんに全部食べられちゃうから」
「はい」
職人さんの横で小川さんがクスクスと笑った。可愛いな、小川さん。さっきから職人さんのことをずっと見つめてる。大好きな人のそばにいられるって本当に幸せなことなんだと、彼女の表情から改めて思わされた。
「笑顔が素敵な人だ……」
新垣くんが小川さんを見つめる。職人さんの顔を見るのが怖い。
「おい、ガッキー。お前な、」
「はい、お待たせ。くるみちゃん」
「わ、ありがとう永志さん!」
いいタイミングで永志さんがおかわりを持ってきてくれたので、食事は和やかな雰囲気に戻った。
二時間ほどの食事が終わり、小川さんは職人さんと一緒に帰っていった。今夜は職人さんのアパートに泊まるらしい。よかったね、職人さん。
新垣くんは永志さんにブラウンソースの作り方を確認してから帰った。彼の仕事熱心なところを見ながら、最近の自分のやる気のなさを反省する。
椅子カフェ堂にきてからこんな気分になったのは初めてだ。これがスランプってやつなのかな。どうしたらいいんだろう。
お風呂上がりに麦茶を飲もうとしていたのに、なぜか私は冷凍庫を開けていた。目についた物に手を伸ばす。
「まだ残ってた!」
「くるみちゃん、どうした?」
「冷凍しておいた肉まんが一個残ってたの。……食べてもいい?」
「ああ、かまわないけど」
「やったー」
冷たい肉まんを取り出し、いそいそと解凍の準備を始める。と、私のそばに永志さんがきた。
「くるみちゃん」
「はい」
「腹こわさないか? そんなに食べて」
「え……あ、ごめんなさい」
「いや、怒ってるんじゃないよ。そうじゃなくて、なんだか……」
「ううん、食べすぎだよね。夜遅いしやめておくね。太っちゃうし」
職人さんにも言われたけど、やっぱり食べすぎだ。自覚のない食欲に身を任せていたら、どんどん体が重たくなってしまう。やめておこう。
私は冷凍庫に肉まんを戻した。
「くるみ」
「は、はい」
永志さんが私を呼ぶ声にドキンとした。急に呼び捨てるなんて、どうしたんだろう。ベッドの上では……いつも呼び捨てだけど。……顔が熱い。
「もしかして、さ」
ためらいがちに言ったあと、彼が頭を掻いた。
「なに?」
「いや、俺の考えすぎかもしれないから、やっぱいいや」
「はっきり言って、永志さん。絶対に怒らないから」
「いや、怒るとも思えないけど……そうだな。気を悪くしたらごめん」
真面目な顔をする永志さんに向き合った私は、ごくんと喉を鳴らす。久しぶりの緊張感だ。何を言われるんだろう。
ドキドキしている私を見ながら、永志さんは小さな声で言った。
「その、もしかして……生理、遅れてない?」
「え?」
「だから、もしかして、もしかしたら、さ」
私は予想だにしていなかった言葉に固まった。
そういえばまだ今月はきていないどころか、二週間以上も遅れている。
「あ、永志、さん……私……う、嘘」
「心当たり、ある?」
「二週間以上、遅れてる。でもたまにそういうことはあるから、気にしてなくて……。あ、だからワインを開けなかったの……?」
まだそうと決まったわけではないけれど、この食欲も、やる気がなかったのも、体の変化のせいだとしたら……
「くるみちゃんの様子がいつもと違うんじゃないかって、少し前から思ってたんだ。もしもそうだったら、酒を飲ませるわけにはいかないだろ?」
「永志さん、ありがとう」
自分でも気づかなかった変化を、彼はきちんと見てくれていたんだ。気をつけていなければいけないのは私なのに。
「これ、使ってみようか」
彼は手のひらに載せていた小さな箱を私に差し出した。「いつか」のために準備しておいた妊娠検査薬だ。
頷いた私は永志さんからそれを受け取った。
トイレを出た私は、しばし呆然としていた。
手を洗いながら自分の顔を見る。どこも変わりはないように見えるのに。
「どうだった?」
部屋に戻るなり、ソファで待っていた永志さんが尋ねる。こういう場合はなんて言えばいいんだろう。初めてのことに、言葉が出てこない。
「……」
「あ、違ったか。ごめんな、勘違いして」
笑顔を作った彼の胸に飛び込んだ。
「永志さんっ!」
「くるみちゃん!?」
ああ、そうだ。
永志さんが私を好きだと言ったあの時、石畳の通りでも、私はこうして彼の胸に飛び込んだんだ。あふれる気持ちのままに、永志さんの胸にこうして。
「くるみ、どうした……?」
「うん」
温かな彼の胸に顔をうずめる。大きな手が私を包んでくれた。彼の鼓動を聞いているうちに、少しずつ気持ちが落ち着いてくる。
「あのさ、違ったっていいんだよ? 俺、がっかりしてないし、今まで通りくるみちゃんがそばにいてくれれば、それで満足だから俺は――」
「違うの。明日、病院に行ってくる。そこで確実かどうか、ちゃんと調べてもらう」
「ってことは……」
「赤ちゃん、いるみたい」
一瞬の沈黙のあと、強く抱きしめられた。
「くるみ……!!」
「わっ」
「あっ、ごめん! 大事にしなきゃな。えっと、本当に?」
「うん……うん」
彼の温もりの中で何度もうなずく。そして素直な気持ちを口にした。
「私、嬉しい。すごく、嬉しいの」
「ああ、俺もだよ。嬉しくて、なんていうか……不思議な気持ちだ。俺が、父親……?」
戸惑いながらも、心から嬉しそうな興奮交じりの彼の声が届く。私も胸いっぱいに広がるこの気持ちを伝えたい。
「私ね、椅子カフェ堂のこれからのことを考えると、大変なはずなのに、全然不安じゃないの。きっとやっていけるって、そう思える」
「ああ。きっと大丈夫だ。そうなれるように、俺も頑張るから」
「うん……!」
永志さんは私を優しく、壊れ物を扱うかのようにそっと抱きしめてくれた。
翌朝、私たちは早速、椅子カフェ堂にきた職人さんと新垣くんに報告をした。
「妊娠っ!?」
二人が同時に叫び、椅子カフェ堂のホール中に響き渡った。
「け、検査薬を使ったら、えっと、まぁ……そんな感じで、はい」
改めて言うと照れてしまう。職人さんと新垣くんは呆然としていた。驚いたよね、私も自分のことなのにまだ信じられない。
「これから病院に行こうと思うんだ。ということで、昨日言ってたこと、早速頼んだよ、ガッキー」
「えっ! くるみさんと一緒に行かれるんですか?」
新垣くんが声を上げた。
「だって俺、くるみちゃんが心配でどのみち仕事が手につかないし。だからあとはガッキーと良晴に任せた。午後には戻れるだろうから、それまで頼むよ」
永志さんに肩を抱かれる。優しい抱き方が心地いい。
「スイーツは全部用意してあるから大丈夫。いいかな」
「……わかりました。やります、やってみせます!」
私の言葉に新垣くんが頷く。覚悟を決めたという感じだ。
「それで申し訳ないんだけど、もし時間がありそうだったら、小川さんにも手伝ってもらいたいんだ。もちろんお金は支払わせてもらう。良晴、連絡してもらってもいいか?」
「……」
さっきから職人さんは黙ったままだ。
「職人さん、すみません。無理なら仕方ないんですけど……」
「俺は……」
やっと口をひらいた職人さんは、両手を広げて私たちに向けた。
「女の子だったらどうしたらいい!?」
「え?」
「赤ん坊が女の子だったら、どう扱えばいいんだよ。それにもし嫌われたら……どうすればいいんだ、俺は!」
まさか、さっきからずっとそんなことを考えていたの? 意外に心配性な職人さんを見て笑いがこみ上げてくる。
「良晴、それは気が早すぎるだろ。まだ確実かはわからないんだし、俺だって、うわっ」
「永志!」
職人さんが、がしっと永志さんの肩をつかんだ。強い振動が私にまで伝わる。
「俺はパパの大親友、ってことをだな、赤ん坊によく言い聞かせてくれ。それなら嫌われないだろう」
「あ、ああ」
永志さんは職人さんに揺さぶられながらうなずいた。
「僕もお願いします!」
ずいっと新垣くんが前に出る。
「何、便乗しようとしてんだよ、お前は」
「職人さんだけずるいですよ。赤ちゃんが生まれたら、僕が美味しい離乳食作りますから!」
「なんだと? それを言うなら俺がベビーベッド作ってやる! 子ども用の椅子もだ!」
二人の言葉が嬉しい。
どちらが素晴らしい提案かを言い合いしている二人の横で、永志さんと顔を見合わせて微笑んだ。
「パパ、か」
私の顔を見て呟いた彼の表情は、とても嬉しそうで、幸せそうだった。
「永志さん……」
「くるみちゃんはママだ」
「うん……!」
「それを確かめに行こう」
「はい」
もし違ったとしても、大丈夫。ほんの少し残念だけれど、またあなたを待つ楽しみが増えるから。
私はお腹をさすりながら、心の中でそう思った。
深まる秋の、どこまでも澄んだ空を仰ぐ。
「名前、どうしようか?」
「もう考えるの?」
笑った私の肩を、永志さんが強く抱いた。
「善は急げだよ。……早く、会いたいな」
「うん。早く会いたい」
多分、今日のことは一生忘れない。この空の青さも空気の匂いも、彼の表情も。
病院をあとにした私たちは、お腹の子どもの名前を考えながら、職人さんと新垣くんが待つ椅子カフェ堂へ向かった。
次話はくるみと永志が病院に行っている間の椅子カフェ堂、
新垣視点のお話です。