椅子カフェ堂に新しいメンバーの新垣くんがきてから、五日目。彼は今のところ週四日勤務なので、今日はお休みだ。

「一週間、お疲れ様ー」
「うーす」
「お疲れさまです!」
 閉店後、永志さんと職人さんと私でワインを開けた。テーブルには黒コショウがたっぷりかかった分厚いカツオのカルパッチョ、イカの竜田揚げ、アンチョビのアラビアータが並ぶ。明日は椅子カフェ堂の定休日。恒例の、お疲れさま食事会だ。
「あー美味しい〜! 永志さん、最高です」
「それはよかった。たくさん食べるんだよ、くるみちゃん」
「はーい」
 私の前に座る職人さんが大きな口を開け、竜田揚げを放り込む。豪快な彼に釣られて、私もついついフォークがあちこちへ伸びてしまう。
 しばらくして、職人さんが思い出したように言った。
「ガッキーあいつ、クッソ生意気だよなー」
 職人さん、いつの間にか新垣くんのことガッキーとか呼んじゃってるよ。さすがに本人の前では、まだ呼んでなかったよね?
「あいつなー、そうなんだよ。くっそ生意気なんだよ」
「何アレ、ゆとりかよ。って、ゆとりは俺らか。あれは……さとりか! さとり世代って奴だな! どうなんだよ、くるみ」
「ど、どうと言われましても」
 職人さん、目が据わってきてない? 既にワイン二杯飲み干してる。いつにも増してペースが速いような。
「お前も、その世代に入るんじゃねーの?」
「さとり世代って、最初から諦めてるとか、欲しがらないとか、そういうのですよね? 勝手にそう言われているだけで私にはよくわからないです。あ、でも」
 椅子カフェ堂に初めて新垣くんがきた日のことを思い出した。
「最初から諦めてるっていうのは、当たってるかも。椅子カフェ堂にくる前は私もそうでした。自分が好きなことを仕事にできるのは才能がある人だけだって決めつけて、挑戦すらしなかったから」
 新垣くんに腹が立たなかったのは、当時の私と同じ思いを持っているような気がしたからだ。
 パスタを取り分けながら、永志さんがため息を吐いた。
「くっそ生意気だけど……仕事はめちゃくちゃできるんだよな〜」
「それな」
 職人さんがもう一本、ワインを開け始める。
「くるみちゃんは、どう思う? 彼と仕事がやりづらいとかはない?」
「私は別に、大丈夫です」
「へえ、意外だな」
 永志さんが目を丸くした。
「古田さんで慣れていたので、結構その……平気かなーなんて」
「ははっ、古田さんか!」
「古田さん、最初はすごーく感じ悪い人だと思って、色々言っちゃいました。でも逆に自分の気持ちをぶつけることができて、上手くいったんだと思います」
 古田さんみたいに正直に自分の気持ちを先に伝えてくる人に、悪い人はいない気がする。だからきっと新垣くんも……というのは私の願望かな。前例である「みもと屋」の古田さんが本当はとてもいい人で、仕事もできる人だったから、そう思いたいんだ。
「新垣くんってさ、すごい奴だと思う。厨房に入ると、俺の手元から片時も目線逸らさないんだよ。作り方とか盛り方とか……盛りつけ皿を用意しながら、こっちをじっと窺ってる。怖いくらいだ」
 私もそれは知ってる。新垣くんは真剣な表情で、手を動かしつつ、じっと永志さんを見ていた。
「新垣くんが仕事以外で、私たちと頑なに接しようとしないことに、何かあるのかな」
「うーん。もしかすると、くるみちゃんが言ってた『諦めてる』ってところが、新垣くんの中にもあるのかもしれないなぁ」
「仕事に関しては諦めるとか、そんなふうには全然見えないの。だから、上手く言えないんだけど……」
「もうちょっと待ってみるか」
 グラスのワインを飲み干した永志さんは、腕を組んで天井を仰いだ。
「彼が言うように、内輪でなあなあになるのは俺も嫌だ。でもさ、一緒に仕事をやっていく上ではある程度のコミュニケーションは必要なんだよな。俺はそれで前に失敗してるから、自分のことも含めて今回は上手くやっていきたいと思ってる」
「うん。そうですよね」
 こちらが焦っても仕方がない。待ってあげることが最善策なんだろうな。
「永志ー、これ美味いぞー!」
 机につっぷしていた職人さんが、突然起きてカルパッチョをフォークに刺した。
「おう、ありがと。お前は今夜、二階に泊まるコースだな。ゆっくり飲めよ」
「……いいのかよ?」
 私たちが結婚してからは、職人さんは遠慮してたのか泊まることは滅多になかった。気を遣ってくれてるんだろうな。
「たまにはいいじゃん、泊まっていけ。くるみちゃんいい?」
「もちろんです! 小川さんもいないし、寂しいですもんね、職人さん」
「くるみお前、そんなに俺にはったおされたいのか、あん?」
 よける間もなく職人さんの手が、ガッと私の頭を上から掴んだ。
「すっ、すみませんっ! 寂しいのはちょっとだけですよね? って、イタタ、痛い〜!」
 頭を左右にぐらんぐらん振られる。酔いが回りそうだよ〜。
「良晴、そのへんでやめろって。かわいそうだろ」
「余計なこと言ったのはコイツです」
「も、もう、小川さんに言い付けてやる!」
「やれるもんなら、やってみろ。うらうら」
 ここに新垣くんが加わって、食事だけでも一緒にできればいいのに。そうすれば何かが変わるような気がするのに。


+


 新垣くんが来てからの二週間、ホールでの仕事がとてもラクなものになった。彼はドリンクも任されたので、永志さんにも余裕が生まれたみたい。ただし、カプチーノだけは永志さんが作っている。新垣くんが作ったカプチーノもとても美味しいものだったけれど、永志さんの味に近づくにはあと一歩というところだった。永志さんのこだわりが詰まったカプチーノを、同じように作るのは中々難しいことだと思う。

 ランチが終わり、お客さんが少なくなった午後二時半。テイクアウトのお客さんを新垣さんが対応し、すぐそばのテーブルを私が片付けている時だった。
「チーズケーキがお二つ、バニラとショコラのカップケーキに、カスタードプリンが三つでよろしいでしょうか」
「はい、あの……前に、えっと、一年くらい前だと思うんですが」
「? はい」
「東麻布のトラットリア・ナノーハにいた方ですよね? よくホールに出ていた。私、あのお店大好きでよく通っていたんです」
 え、嘘。ナノーハのお客さんがここに? 驚いた私は新垣くんのほうを振り向いた。
「いえ、人違いでは?」
 彼は戸惑うでもなく冷静な声で答えている。眼鏡の向こうの瞳も、変わらないように見えた。
「えっ、あ、そうですか……すみません、間違えました」
「いいえ。ありがとうございました。お気をつけて」
 にっこり笑った新垣くんは、会計を済ませたケーキの箱を渡した。
 どうして違うなんて言うんだろう。
 前のお店ではずっと厨房にいて、ホールには出てなかったから? だとしても、ナノーハにいたことには間違いないのに。

 静かになった閉店後のホール。
 私と永志さんはたくさん並んだお皿を前に、向かい合わせで座っている。今夜は新垣くんが初めて、私たちにメニューの提案をする日だ。漂ういい香りに負けたお腹が、ぐうぐう鳴っている。
「小海老とズッキーニのカルボナーラ、ソーセージとピーマンのペペロンチーノ、茄子とトマトのボロネーゼ。ワンプレートのランチメニューは、カジキマグロのバジルソテーレモン和えをメインにしました。試食、お願いします」
 新垣くんが、ゆっくりと頭を下げた。
「綺麗な見た目と、いい香りだ。いただきます」
「いただきます! ……んっ、お、美味し〜い!」
 薄くカットされたズッキーニがソースとパスタにまったりと絡んでいる。チーズの風味と黒コショウのバランスが絶妙だ。ペペロンチーノもボロネーゼも、特に変わったメニューではないのに口に入れるたびにハッと驚かされる味だった。麺の茹で具合も素晴らしいと思う。
 夏野菜は素材の味が強くてクセのあるものが多い。それを生かしつつ、ここまで美味しくできるなんて……! 
「これも、これも、全部美味しい。すごい……!」
 嫉妬しちゃうくらいに美味しかった。ランチメニューに添えられた枝豆の冷たいポタージュスープは舌触りも香りも最高だし、カボチャサラダの滑らかさはいつまでも味わっていたいくらいだ。
「うん、美味い! 味も彩りも、全部完璧だよ。それでいて食材が低価格のものに抑えられてるのもいい。さすがだなぁ」
 永志さん、すごく嬉しそう。何度も頷きながら、じっくりと味を確かめている。
「店長の味に近いですか」
「いや、俺のよりずっと美味いよ。俺が教えて欲しいくらいだ」
「そうですか」
「夏メニューとして来週から早速取り入れよう。くるみちゃん、お願いね」
「はい。新垣くん、今週もう一度このメニューを作ってもらっていいかな。画像を撮らせてほしいの。サイトとSNSに上げるから」
「わかりました」
 眼鏡の真ん中をを押さえて会釈をした新垣くんは、その場を去った。事務所のほうへ行ったみたいだけど……。着替えてくるのかな? いくら何でも、今日は一緒に食べるよね?
「永志さん」
「ん?」
「新垣くん、すごいですね。接客もカンペキだし、仕事は早いし、料理も上手いし……。私、先輩としての自信なくしちゃいそう」
「ははは! それは仕方ないよ。彼は別の店で四年働いてるんだからさ。でも椅子カフェ堂ではくるみちゃんが先輩なんだ。遠慮することはないって」
 永志さんが楽しそうに笑った。彼の言うことはわかるけど、こんな私が新垣くんにあれこれ指示しちゃって本当にいいものかと悩んでしまう。
 はぁ、とため息を吐いた時、新垣くんがホールに来た。すっかり着替えて……ボディバッグまで背負ってる。
「あれ? 新垣くん?」
「では僕はこれで。失礼します」
「か、帰るの!? 今日は職人さんお仕事でいないし、二人じゃこんなに食べられないよ。新垣くんも一緒に食べよう?」
 立ち上がった私を尻目に、新垣くんはドアノブに手をかけた。
「いえ、僕は帰ります。無駄になってしまうなら、材料費はあとで払いますんで」
「そっ、そんなのいらないよ。新垣くんは、お腹空いてないの?」
「平気です」
「ガッキーはさぁ」
 黙っていた永志さんが、大きな声を発した。
「……ガッキーとかやめてください」
「ガッキーはさ、何でそんなに自信がないんだ? ここまで何でも美味しく作れるのに」
「!」
 永志さんに指摘された新垣くんが驚いた顔をする。初めて見る表情だ。
 ドアノブにかけていた手を下ろした彼は、永志さんのほうに向き直った。
「やっぱり、店長をやってるだけはありますね。面接の段階で何も聞かれないから、変だとは思っていましたが」
「話したくなったら話せばいい。そう思っただけだよ」
 穏やかな声で永志さんが答える。私はここにいていいのか、何か言った方がいいのか迷ったけれど、二人のやり取りを静観するために一旦椅子に座った。

 お給料日の人が多いのか、通りを歩く人たちの賑やかな声が何度も届く。
「僕に自信がないのは……前の職場で挫折したからです」
 しばらく黙っていた新垣くんが、観念したというようにため息を吐いた。
「実力がなくて同期に追い抜かれました。何年も同じようにやってきたのに、僕だけが認められませんでした。やる気は落ち込み、何も手につかなくなった。辞める一か月前は、自分から毎日ホールだけの担当を申し出ました」
 さっきお客さんに聞かれた時、ホールでよく見かけたと言われたのは間違いじゃなかったんだ。
「そこを辞めて、知り合いの居酒屋で夜だけ手伝いに入りました。当然ですが、僕が作りたいものとは何もかもが違う。かといって自信をなくした状態では、前いたような店には戻れない」
 そっと永志さんを見ると、彼は新垣くんの話を頷きながら聞いている。
「僕が椅子カフェ堂を選んだのは、全く無名ではない店で働くことで、多少は僕のプライドが満たされると思ったからです。いくら同期に追いつかない僕でも、星の付きようがない街のカフェでは僕の腕の方が明らかに上だ。有名店で働いていたという優越感も生まれ、自信が取り戻せる。……性格悪いんですよ、僕」
 新垣くんが自嘲するように苦笑した。
「自信がついたら、すぐにでも椅子カフェ堂をやめる。つなぎとしてここを選んだ、ってこと?」
「……そうです、だから」
「ははっ、正直だね。なるほど」
「そこまで知って、何で怒らないんですか」
 不満そうな顔をしたのは新垣くんのほうだった。
「普通はそんな考え持ってる奴なんか、雇いたくはないですよね? ですからもう、はっきり辞めろと言っていただいて構いませんので」
「いや別に」
「は……?」
「新垣くんが、ここにいたいだけいればいいよ。俺は今の時点で、新垣くんにいてほしいと思ってる。これだけ料理が作れて、接客もパーフェクトで、仕事が早いんだ。椅子カフェ堂にとって貴重な戦力だよ。辞めさせる理由がない」
 口を引き結んだ新垣くんは、睨むようにして永志さんの話を聞いている。
「俺だってリーマン辞めたクチだし、良晴も脱サラだし。人間そんな、何もかもきっちり上手くいかないもんだって。ここで自信つけていけばいいじゃん。自信がついたら、またどこかで腕を振るえばいい」
 永志さんがさらりと言った言葉のひとつひとつが、私の心にも沁みる。ダメだと思っても、自信がなくても、頑張ろうと思えば何とかなることだってある。その気持ちが大事なんだと、椅子カフェ堂に教わったから。
「……次は明後日の出勤です。辞めろというなら早めに連絡ください。お先に失礼します」
 新垣くんはそう言って、椅子カフェ堂から出て行ってしまった。ドアが閉まる音と同時に、永志さんが大きなため息を吐いて椅子から立ち上がった。
「不器用だなぁ。真面目すぎるんだよ、彼は。何から何までぶちまけることないのに。彼の事情を聞けたのは良かったけどさ」
「永志さん、私……新垣くんと話してきます!」
「……くるみちゃん」
 何だか胸に色々引っかかって、今言いに行かなくてはダメだって思うから。
「わかった。彼の先輩として頼むよ」
 着ていたカーディガンを脱いだ彼は、それを私の肩に羽織らせた。
「駅まで送ってくるね」
「ありがとな。迎えに行くから駅で待ってて」
「うん! 行ってきます!」

 扉を開けて、夜の匂いを吸い込む。
 通りを駆け出した私は、角を曲がろうとしている新垣くんの背中を追いかけた。