毎日のように職人さんのところへ修業に通っていた小川さんが、留学の為にヨーロッパへと旅立った。椅子カフェ堂は再び、永志さん、職人さん、私、の三人となった。

 それから半月後の五月下旬。椅子カフェ堂の中にも、外と同じように梅雨直前の湿った暖かさが漂っている。
「うーん……やっぱ、条件が良くなかったか」
 閉店後のホールで、永志さんは頭を抱え込んでいた。
「今日も一日、お疲れ様でした」
 私は永志さんと職人さんの前に、アメリカンと売れ残ったショートケーキを差し出した。
「ありがと、くるみちゃん」
「えへへ」
 永志さんに優しく笑いかけられると心も体もとろけそうになってしまう。奥さんになった今でも、変わらず彼の笑顔が大好き。
「俺はプリンが食いたいぞ、くるみ」
 フォークを手にした職人さんが不満げな声を出した。
「今日は六時で売り切れですよ〜残念でした!」
「俺用にもっと作っとけっての」
「一個320円になります、税込みで」
「お前、結婚したら途端にがめつくなったな。まぁ、これもうまいけど」
 職人さんの舌打ちを聞きながら、私も彼らと一緒のテーブルに着いた。
 コーヒーを飲む永志さんの前に、数枚の履歴書が置かれている。彼の悩みの種はこれだ。
「アルバイトの面接、上手くいかなかったの?」
「この前の休みに面接した人から、さっき断りの電話が入ったよ。良さげだったんだけどなー……」
「そう」
 職人さんは小川さんが留学している間、もっと自分の家具作りに専念して、仕事を広げたいと言った。職人さんはきっと、小川さんとの未来を真剣に考えてる。それはとても喜ばしいことで、私も永志さんも大歓迎だ。
 ただ、職人さんはランチの忙しい時に椅子カフェ堂のホールやレジ、テイクアウトまで毎日手伝ってくれたので、抜けられるとやっぱり痛い。それを補うためにアルバイトの募集をかけたのだけれど……。こちらが決める前に断られてしまうことが二回続いている。
「条件って、そんなに悪かったっけ? 時給はいいほうじゃね?」
 職人さんは大きな口を開けて、ショートケーキを食べた。相変わらず美味しそうに食べるなぁ。
「私、今まで気付かなかったんですけど、椅子カフェ堂の仕事ってかなりハードみたいなんです」
「お前はちょこまかちょこまか、よく動いてるもんな〜。蟻みたいに」
「失礼な。一生懸命働いてるだけです」
「それが当たり前だと思っちゃいけないんだよな」
 あーあ、と永志さんが椅子の背もたれに寄りかかった。
 私は椅子カフェ堂に出会って、自分もお店と一緒に変わりたいと思った。そして永志さんの思いを知って、椅子カフェ堂が私にとっても大切なお店だと自覚した。だからこそ、お店を守るために皆で頑張ることができた。椅子カフェ堂を失くしたくない一心で、お客さんがたくさん入って目が回るような忙しさでも、新商品の開発で休日が潰れても、何とも思わなかったんだ。
 でも、新しくここに入る人はそんな事情があったことなんて知らない。私たちと同じ条件を求められたって無理だよね。やっぱり普通のバイトさんを数人雇って、上手く回していくしかないのかな。

「古田さんの奥さんにお願いすれば?」
「俺が古田さんに殺されるって。奥さんを『みもと屋』で働かせることすら古田さんは嫌みたいなんだから、頼めるわけないだろ」
 職人さんの提案に、永志さんが顔をしかめた。ん? ちょっと待って。古田さんの奥さんは確か……
「っていうか、古田さんのお子さん、そろそろ生まれるんじゃなかったでしたっけ?」
「え! そうだったっけ!? くるみちゃん会ったの?」
「先週だったかな? みもと屋さんの前にいる奥さんと古田さんを見ました。お腹目立ってきてましたよ〜」
 遠目から見てもわかるほどに古田さんがデレデレで、声がかけられなかったんだよね。古田さんもあんな顔するんだ、ってほっこりしちゃった。
「へえ、それはめでたいな。やるじゃん、古田さん」
 職人さんがにやりと笑うと同時に、永志さんがこほんと咳ばらいをした。
「できれば、多少なりとも調理場に入る人が来て欲しいんだ。俺らとあまり歳が変わらない人で、俺のフォローをしてくれる人間がいれば、その……」
「? 何だよ、赤くなって」
 職人さんがツッコむほどに、永志さんの頬が赤くなっている。どうしたんだろう、風邪でも引いたのかな? 咳もしてるし。心配になって彼の顔を注意深く見る。
「その、えっとほら、アレだよ」
「はっきり言えって。何焦ってんだ」
「だから……良晴はこういう時に限って鈍いんだな!」
「はぁ? 何逆ギレしてんの?」
「だから、俺とくるみちゃんは結婚してもう一年になるだろ。そろそろ、そういう可能性がなきにしもあらずというか、いやあるほうが可能性高いっていうか、古田さんちみたいにというか」
「古田さんち??」
 職人さんは本気でわからないという顔をした。でも私は……何となくわかっちゃった。永志さんの顔が赤くなっているのは風邪の症状じゃない。
「く、くるみちゃんが、体調悪くなる可能性もあるんだよ」
「何で? どこか悪いのか?」
「いや、悪くはない。むしろいいというか、絶好調に見えるし。だから……だから俺たちの、こ、子どもが、いつできてもおかしくない状況なんだよ……!」
「え、永志さん」
 やっぱり……! 前からそのことを永志さんは気にしてくれていた。でも職人さんの前でそういう話は私もちょっと恥ずかしい。みるみる私の頬も熱くなっていくのがわかる。
「ああ、そういうことね。はっきりそう言やいいじゃん。くるみまで顔真っ赤だぞ」
「!!」
 指摘されて体中熱くなってしまった。あー恥ずかしい。
 仲がいいのはいいことだ、と言って職人さんが残りのケーキを頬張った。
「ま、まぁそういうわけなんだよ。できれば長い時間、入ってくれる人が二人欲しいんだよな。とっかえひっかえ、いろんな人間を雇うのはちょっと避けたい」
 永志さんはアメリカンをぐっと飲み干した。
「まぁ、くるみが入ってくる前よりは椅子カフェ堂で働きたい人も増えてるだろうから、気長に待てばいいじゃん。焦ると、ろくなことにならないのはわかってるだろ」
「ああ、そうだな。嫌ってほどわかってる」


 仕事を終えてお風呂に入ったあと、永志さんはベッドに寝ころび、雑誌を読んでいた。髪を乾かした私も、彼の隣にごろんと横になる。
「いい人、来てくれるといいね」
「ん? ああ、バイトのこと?」
「私、バイトさんにちゃんと色々教えてあげられるかな」
「もしかしてくるみちゃん、不安?」
 永志さんは雑誌を閉じた。指摘されて心臓がどきんと鳴る。
「今までずっと三人でやってきたから、ちょっとだけ。ごめんなさい」
「謝ることないよ。俺も不安なんだからさ。……おいで」
 手を伸ばした彼にそっと抱きしめられた。お風呂上がりの爽やかな香りが私を包む。
 永志さんと職人さんと私。三人でやってきたことが居心地良すぎて、この先もずっと何も変わらない気がしてた。そんなことあるわけがないのに。
「……永志さんも?」
「ああ。くるみちゃんが来る前に何人かバイトを入れてた話、したよな?」
「うん」
「あれで若干トラウマ気味。今回もかなり慎重になってる」
 彼とバイトさんの関係が上手くいかなくて、皆辞めてしまったと聞いていた。
「くるみちゃんが椅子カフェ堂にきてくれたのは、奇跡みたいなもんだからな」
「永志さん」
「大丈夫だよ。くるみちゃんが合わないと思う人は雇わない」
 永志さんの手に力がこもる。
 正直言って、とても不安だ。でも、それじゃあダメなんだよね。私たちのためにも、椅子カフェ堂のためにも。
「どうしてもっていう時は言います。でも、職人さんが変わろうとして、私たちも……その、あ、赤ちゃんができたら環境が変わるし。ずっと椅子カフェ堂を支えるためには、変化を受け入れられないのはダメだと思うの」
「うん」
「少し不安なのは本音だけど……」
 永志さんの大きな手が、私の頬をそっと撫でた。
「俺は、変わらない店っていうのはないと思うんだよ。どんな老舗でも、続いているのにはそれなりの理由があるんだと思う。守っていくもの、新しく取り入れるもの……両方を上手く扱える店が残ってるんじゃないかな」
「守っていくものと新しく取り入れるもの……」
「俺は味のことしかわからなくて、あとはくるみちゃんに任せっぱなしだけどさ。でもくるみちゃんを見てればわかるよ。理屈こねくり回してないで、やってみなくちゃ何も始まらないんだってね。止まってちゃダメなんだよな」
 褒められたことが嬉しい。彼の言葉に同意しながら、腕の中で小さく頷いた。
「イイ感じの人があと二人、面接残ってる。まぁそれからだな。何にしても俺がそばにいるんだからさ。そう、緊張しないでいいよ」
「うん」
 彼の穏やかな声が私の心を静めてくれた。顔を上げて彼の瞳を見つめる。
「こういうときこそ旦那様を頼りなさい、奥さん」
「は、はい……頼りにしてます、だっ、旦那様」
 大事なところで噛んでしまった……!
「ははっ、可愛いなぁ。キスしよ、くるみ」
「あ、ん……っ」
 こういう時に必ず「くるみ」って呼びすてるのがずるい。未だにそう呼ばれると、胸がきゅんきゅんしてること全然わかってないんだから。

 永志さんの首にしがみついて彼の舌に懸命に応えるうちに、心に生まれた不安はどんどん小さくなっていった。