テーブルの上で、海老とそら豆のクリームパスタが湯気を立てていた。カップに入ったセロリのスープの香りが食欲をそそる。今日の春らしい気候にぴったりのメニューだ。
 フォークを掴み、パスタをくるりと回して、口へ放り込んだ。粗挽き胡椒の香りが広がり、ちょうどよい硬さの麺をもぐもぐと噛み締める。うん、永志のまかないは最高だ。何を作らせても美味い。
 午後三時。仕事の合間の至福のひとときを、静かなホールで存分に味わっていた。
 ホールには俺とくるみ、窓際に座る女性客が一人しかいない。木曜のこの時間帯は大体こんなもんだから、ホールの隅のテーブルで一人、ゆったりとまかないを食べることができる。
 厨房へ行こうとしたくるみに声を掛けた。
「くるみ、俺のプリン出して」
「はーい」
 よしよし、あいつも気が利くようになったもんだ。
 来月はあいつらの結婚式か……。何だかんだと早かったな〜。そら豆を食べながら、椅子カフェ堂の存続が決まってからのことを思い出していた。

 雑誌に掲載されてからというもの、椅子カフェ堂を訪れる客は増え、今ではちょうどいい具合の客数に落ち着き始めていた。
 家具と雑貨の売れ行きも好調だった。今年の初めに発売されたインテリアの本に俺の作った家具が掲載されたこともあり、オーダーが一気に増えた。
 でも今までのペースは崩したくなかったし、カフェの手伝いを辞める気もさらさらないから、オーダーは予約待ちをしてもらうことにした。最近じゃ、三か月待ちになっている商品まである。自分でも驚いているけど、この状態を長くは期待していない。理想としては、家具を使い続けてから本当の良さを知ってもらい、それを口コミでじわじわと広めてもらうこと。大切に使われている様子をブログで見かけたりすると励みになる。そういえば、家具のオーダーメールに嬉しい感想を入れてくれた人が現れたっけな。

 パスタを食べ終わり、スープを飲んでいると、窓際の席を立ちあがった女の客が、何故かこちらへ向かって歩いて来た
 薄い黄色のカーディガンを着た、明るい色のショートヘアの女は、俺の前で立ち止まり、にこっと笑ってお辞儀をした。くるみくらいの歳だろうか。あいつほど背は低くないけど、細っこくて、こちらもまた小動物っぽい。
「あの、家具職人の方ですよね?」
「え、ああ、はい」
 よく知ってんな。ホームページか雑誌で見たのか。
「お食事中すみません。ちょっとだけ、よろしいですか?」
「?」
 スープを飲み干してカップをテーブルに置くと、目の前で大きく息を吸い込んだ彼女が俺に向かって言った。
「わ、私を……弟子にしてください!」
「……は?」
 一瞬何を言われているのか、よくわからなくて間抜けな声を出してしまった。
「すごく素敵な家具で見た目も作りも素晴らしいと思いました。それで……私も作ってみたくなったんです」
「はぁ」
「弟子入りしたいと言う方がたくさんいらっしゃるなら順番待ちします。何か月でも何年でも待ちますので、お願いします!」
 彼女はさっきよりも深くお辞儀をした。つむじが丸見えになっている。くるぶしまでの細身のジーンズが、緊張しているのかカクカク揺れていた。
 水の入ったグラスを手にした俺は、溜息を吐きながら返事をした。
「悪いけど、弟子なんかとってる余裕はない。金はもちろん払えないし、自分のことで精一杯で他人の面倒見てる暇はない」
「あの、もちろんお金はいらないんですけど……どうしても駄目ですか?」
 ゆっくりと顔を上げた彼女は、俺の言葉に眉を下げた。
「弟子になりたいなんて言われたことはないけど、この先取るつもりもないから駄目」
「……そうですか。とても残念です」
 悪い気はしないけどな。無理なもんは無理だ。ましてや女の弟子なんて扱いわかんねーし、ほんと無理。
「じゃあ、あの」
 色の白い顔を赤くした女は、俺から視線を外して小さな声で言った。
「わ、私を彼女にしてもらえたりしないでしょうか、なんて」
「……」
「い、今のはナシです! いきなりそんなこと言われても、困りますよね……。あの、お友達になっていただけたら、いいな〜なんて」
「帰れ」
「!」
 びくっと肩を揺らした女に向かって、思いきり舌打ちをした。こういうのが一番頭にくるんだよ。
「見てわかるだろうが、俺は今食事中だ。でもあんたが真剣に仕事の話を訊いて来たから、俺も真面目に答えたんだ。それを、いい加減なこと言って話を茶化すような奴は大嫌いだね」
「……」
「彼女だ? 彼女どころか人として近寄ってほしくねーわ。帰んな。もう食い終わったんだろ?」
 大きな目には涙が浮かんでいる。両手をぎゅっと握った女は涙を零さないように顔を歪め、口をひらいた。
「ごめんなさい」
「出口あそこだけど? 早く帰れよ」
 フォークを持ち上げ、椅子カフェ堂のドアがある方向を指した。
「し、失礼します……」
 パタパタと小走りに自分の席へ戻った女は、鞄と上着を手に持ち、レジに急いだ。近くのテーブルを拭きながらこちらを見ていたくるみが、彼女の後を追ってレジに向かう。支払いを済ませた女は逃げるようにドアから出て行った。

 やれやれ。やっとプリンが食える。
「ちょっと職人さん……!」
 レジを終えた途端に血相変えてこちらへやって来たくるみが、俺のいるテーブルに来た。
「何だよ」
「いくら何でも言い過ぎです。あんな言い方しなくたって」
「はぁ? 俺が何か間違った事言ったかよ?」
 デザートスプーンを右手に持ち、くるみの方へ向けて問いかける。こいつは俺を尊敬してると言いながら、余計なことにすぐ首を突っ込んでくるから、やっかいだ。
「別に間違ってはいませんけど、彼女は」
「間違ってないならそれでよし。って、おま何すんだよ!」
 プリンを掬おうとしたデザートスプーンを、くるみに取り上げられた。顔を上げると、くるみが口を引き結び、俺を睨み付けている。
「彼女、いい加減なんかじゃないですよ。ここのところ椅子カフェ堂へ通って来てたの、気付かなかったんですか?」
「何だよそれ」
「職人さんがまかないを食べる時間の少し前から来て、職人さんが食べ終わってから帰ってたんですよ。この二週間、ほとんど毎日。その前も……いつからかはわからないですけど何度か来て、毎回職人さんが作った家具を見てました」
「だから何だよ。知らねーよ、そんなん。いいから返せ」
 手を伸ばして、くるみからスプーンを取り返そうとすると、彼女は身を翻して、あろうことか今度はプリンの皿を取り上げた。
「そんなんって……そんなんだから彼女も出来ないんですよ!」
「ちょ、ちょっと待てって。プリンは関係ないだろが。おいこら、くるみ」
 たまらず立ち上がって抗議する。俺の貴重な昼休みの楽しみを……! デザートスプーンを持っている方の手首を捕まえると、彼女は大声で反抗した。
「一生独り身でも知りませんからね!」
「でけー声だな。別にずっと独身でも構わねーよ」
「あんな可愛い子、邪険にして!」
「俺の好みじゃねーし!」
「寂しい老後でもいいんですか!」
「いいです。大きなお世話です。ほっといてください。プリン寄越せ」
「貴恵さんからの年賀状、金髪碧眼のイケメンと並んで楽しそうに映ってたじゃないですか。あれ絶対彼氏ですよ。どうするんですか」
「どーもこーも別にいいんじゃん? 俺には永志とお前がいるからいーんだよ」
「良くないです」
「いーんだっつの!」
「良くないっ!」
「いーの!!」
 皿を奪おうとした時、厨房から呆れ声が聞こえた。
「何、喧嘩してんだよ。お客さん来たら困るだろ」
 永志が、やれやれと言う顔でこちらへ向かって来た。ヤバい。ここでくるみが説明したら、完全に俺が悪者にされる。
「いいか、くるみ。プリンは取っておけ。永志、パスタ超美味かったぞ。ごちそーさん」
 にこやかな笑顔で永志の肩を軽く叩く。
「お、おう」
「ちょっと逃げるんですか、職人さん」
「逃げてねーよ。仕事が立て込んでんの。プリン取っとけよな!」
 はーい、と不満げな声で返事をしたくるみに背を向け、さっさとそこを退場した。


「でーきた、出来た」
 新しいスツールを手にして念入りに仕上がりを確認する。このライン、つなぎ目、色味、感触、どこから見ても完璧じゃないか。さすが俺。
「よし連絡メールするか。誰だったっけ」
 傷つかないようにそっとスツールを台の上へ置いてから作業用のエプロンを外した。待たせている人には少しでも早く連絡を入れたい。
 作業場を出て椅子カフェ堂の事務所へ入った。冷蔵庫から水の入ったペットボトルを取り出し、机にあるノートパソコンをひらく。
「あ、この人」
 オーダーリストの連絡事項の欄に書かれたものが目に飛び込んだ。小川美知恵(おがわみちえ)と名前がある。
「家具の感想を入れてくれた人だったか……」
 俺の家具を雑誌で知り、実際椅子カフェ堂でサンプルのスツールを見て余計に欲しくなったと書いてあった。スツール以外の家具や店の良いところも細かく丁寧に記入してくれていた。
 こういうのは悪くない。というか本気で嬉しい。雑誌に載ったせいかミーハーなノリで買っていく人が増えた中、本当に家具を気に入って大切にしてくれそうな客というのは、こちら側も感じ取ることが出来る。この客はそういうタイプだ。
 専門的なことを理解してもらえなくても、作っている側の気持ちが伝わったんだと思える瞬間は、やはり幸せだ。
 水を飲んで一息つく。大きく伸びをしてからキーボードを叩き始めた。宅配ではなく直接受け取りに来る、と記載されていたので、出来上がったことと、明日以降ならいつでも渡せるという内容をメールで返信した。


 土曜の開店直後。
 スツールを注文した客から土曜の午前中に受け取りに来るとメールがあり、俺はレジを担当しながら、その客を待つことにした。ホールには既に客が二組、カプチーノやエスプレッソを頼んでくつろいでいる。いい香りだ。
 からりんとドアのベルが鳴り、また一人客が入って来た。
「あ!」
 思わず声を出してしまった。このまえのショートヘア……! 俺の声に反応して頭を下げた女は、たどたどしい声で言った。
「予約、していたんです」
 カフェの予約か。二度と来ないと思ってたのに、どういうつもりだよ。
「何名様で?」
「え?」
 彼女は俺の質問に、わけがわからないという顔をした。わけわからないのはこっちなんですけど。
「予約って、まさか一人?」
「いえ、違うんです。食事ではなくて……家具の、スツールの予約を入れていたんです。小川と申します」
「小川さん? あんたが……!?」
「……はい」
 丁寧なメールをくれたその人が、こいつだったとは。複雑な気持ちを抑え、後ろに置いてある出来立てのスツールを手に取った。
「これなんだけど」
「はい……!」
 傍に来た女……小川さんは、スツールを見て目を輝かせた。その嬉しそうな表情を見て、俺の中に不思議な気持ちが湧き上がった。
「出来上がりの確認をお願いします。持ってみて」
「はい」
 彼女に手渡しながら、あんなにも苛立っていたはずの気持ちが、すっかり消え失せていることに驚いた。
「メンテの仕方はこのメモに書いてあるから。高さが合わなかったり、何か不都合がある場合は連絡ください。ここにサインをお願いします」
 この女が、あのメールの主だったとは。
 前回、食事中に声を掛けられて腹が立ったことは確かだけど、心のこもったメッセージを受け取って嬉しかった気持ちも嘘ではないわけで……。
 受取証にサインをしている彼女の手が小さく震えていた。もしかして怯えてるのか。怖かったもんな、俺。
 くるみの言った通り、言い過ぎだったのかもしれない。たとえ間違ったことを言ったわけじゃないとしても。
 包装し、持ち手を付けて、再び彼女の手に渡した。俺の元から去っていくスツールに、可愛がってもらえよ、と心の中で声を掛ける。
「お買い上げ、ありがとうございました」
 俺の言葉に顔を上げた小川さんは、泣きそうな顔をして言った。
「あの、これだけは信じて下さい。ここで稲本さんの家具に出逢って、スツールに惚れ込んで、椅子カフェ堂に通っていたんです。本気で、こんな家具を作ってみたいと思いました。稲本さんのことは後から知って、素敵な人だなって。どうしても一度……お話してみたかったんです」
 黙って聞いていると、彼女は無理やり笑顔を作った。
「どこかへ習いに行って、まずは自分でいろいろ作ってみます」
「あ、そう」
「もうここには来ませんので、安心して下さい。素敵な椅子を作ってくださって、ありがとうございました。大切にします。じゃあ失礼します」
 彼女はその場で何度も頭を下げた。
 俺はレジ横に置いてあったボールペンを取り上げ、メモに殴り書きをしてそれを持ち、歩き出した彼女の前に回り込んだ。
「忘れ物」
「え?」
 驚いた小川さんが、彼女の前に差し出されたメモを凝視する。
「割引券。友達でも連れてくれば」
 手作りだぞ、感謝しろ。
「……いいんですか?」
「カフェの客としてならな」
「あ、ありがとうございます!」
「……」
「?」
 メモを受け取った彼女は、黙っている俺を見て小首を傾げた。
「ホールが空いてる時間に、少し話すくらいならいい」
「ほ、ほんとですか!?」
「この前みたいに、まかない食ってる最中だから、作ってるとこ見せる訳じゃないし、質問に答えるだけだ。今後も弟子を取るつもりは無いから」
「は、はいっ!! ありがとうございます。あ、ありが……」
 笑いながら、ぼろっと涙を零した女に、思わずドン引いてしまった。こんな時、何て言えばいいんだよ。やっぱりこういう女は苦手だ。
「ご、ごめんなさい。なんか、なんかすごく……嬉しくて。今度こそ帰りますね」
「ああ」
 目をごしごし擦りながら、一歩踏み出した彼女は、こちらを振り向いた。
「早速、明日から来てもいいですか?」
「別にいいけど、暇あんの? 仕事は?」
「二か月前に会社を辞めたばかりなので大丈夫です!」
「あそ」
 ドアを開けてやり、一緒に外へ出る。青く晴れた空が目に痛いくらいだった。彼女は何度も何度も俺に頭を下げながら、椅子カフェ堂をあとにした。スツールを大事そうに抱えて、軽やかな足取りで歩いている。あれ、女が持つにはずいぶんと重いはずなんだけど。

 店に戻ると、レジの傍にいた永志とくるみが俺に笑い掛けて来た。いつからそこにいたんだよ。どうせまた、こっそりやりとりを聴いてたんだろ。
 窓際に座っている客たちは、まだのんびりとカプチーノを楽しんでいる。永志が言った。
「なんか、くるみちゃんみたいだったね。雰囲気が似てる」
「俺……嫌な予感するわ」
「どういう意味ですか、それ」
 口を尖らせたくるみが俺の腕を叩いた。痛いっつーの。
「嫌な予感じゃなくて、いい予感だろ?」
「は? ……勘弁してくれよ」
 ニヤリと笑った永志に言い捨てて、レジ前に戻る。永志は厨房へ、くるみはホールの奥へと戻って行った。

 受取証の控えに書かれた「小川」の文字を眺める。
 明日行われるだろう面倒そうな質疑応答を想像しながら、答えられそうなものをメモ用紙に書き出し始めた。




次話はこの後、いよいよくるみと永志の結婚披露パーティーのお話です。