お昼の十二時を過ぎたというのに、今日もホールにはお客さんが二組だけ。
 窓の外を見ても椅子カフェ堂に向かってくる人はいない。職人さんは調べものをしたいと言って事務所へ行ってしまった。

 店長のお父さんが経営を乗り出したというカフェ・マーガレテがオープンしてから五日。駅から近いそのお店に、椅子カフェ堂に来ていたお客さんが流れてしまったのがわかる。
 暗い顔してちゃ駄目だよ、つらいのは私よりも店長なんだから。
 厨房に行き、店長に声を掛ける。
「店長、食後のカプチーノお願いします」
「ふたつでいいんだよね」
「はい」
 私の笑顔に彼も笑って応えてくれた。
 店内には明るいカフェミュージックが流れている。店長が淹れるカプチーノや美味しい食事に間違いはない。お店の中はいつも清潔だし、こまめにお花を変えて、窓際に置いた雑貨のディスプレイは三日に一度変化をつけている。職人さんの作る家具は種類が増え、ネットで評価されていた。
 何も萎縮することはないんだ。目の前にいるお客さんを大事にして、自分たちの信じた椅子カフェ堂を守っていけば、きっと道はひらける。

「こんばんは!」
「貴恵さん、こんばんは」
 カフェ・マーガレテのオープンの日に偵察をしてくれた貴恵さんは、その後から毎晩のように椅子カフェ堂を訪れていた。閉店後、店長と職人さんは待っていたかのようにホールへ現れて彼女を迎えた。
 席に着いた三人は貴恵さんを中心に話を進めていた。
「ねえ、私思ったんだけど、ホームページに詳しい情報を載せるの、やめた方がよくない?」
 レジを締めていた私の耳に彼女の言葉が入った。
「このままじゃ相手の思う壺よ。また似たようなメニュー出して来たんだから。ほら、盛り付けまでそっくりじゃない」
 貴恵さんが見せたタブレットの画像を覗き込みながら、職人さんが口をひらいた。
「さっき調べてたんだけど、口コミがバンバン入ってたな。味の評価はあんまり良くないけど、スペースが広いのと気軽さで受けてる印象だったよ」
「口コミが多いってことはそれだけ人が入ってる証拠だもんな」
 店長の溜息に貴恵さんが彼の腕を叩いた。
「永志くん。何でも言って? 私協力するから」
「うん、ありがとな。助かってるよ」

 私は厨房へ行き、明日の仕込みを始めた。冷蔵庫の食材を確認する。
 チーズケーキ、数減らさなきゃだよね。今日も今までの三分の一しか出なかった。
「う……」
 悔しさと悲しさで涙が溢れる。
 私が店長に頼み込んで直したホームページ。食事メニューも雑貨も全部画像を撮って詳しく載せていた。それが逆に弱みを握られることになるなんて。
 泣いている場合じゃない。今は三月。椅子カフェ堂存続の条件まであと半年と少ししかない。味が良ければ、きっとまたお客さんが戻ってきてくれるはずんだから、質を落とさないようにしないと。
 でも……今の私って椅子カフェ堂に必要なのかな。椅子カフェ堂にとっていいと思っていたことが全部裏目に出ていている気がして、何だかもう自信が無い。カフェ・マーガレテに対抗する対策も貴恵さんがどんどん意見していて、私の入る隙間が見当たらない。

 仕込みを終えて、隣の厨房で同じように仕込みをしていた店長に挨拶をした。
「終わったので、お先に失礼します」
「おう。俺ももう終わるよ。お疲れさま」
「お疲れ様でした」
 厨房を出ると、とっくに帰ったと思っていた貴恵さんがまだホールに残っていた。
「どうしたんですか?」
「ちょっと永志くんに話があって。良晴は先に帰ったわよ」
 店長に話って、お店のこと? それとも……
「あいつ、ほんとに失礼なんだから。昔と全然変わってない」
 貴恵さんが言いかけた時、店長が厨房から現れた。
「まだいたんだ? 良晴と帰ったかと思ってた」
「永志くんのこと待ってたの。このあと飲みに行かない? 二人で」
 席を立った貴恵さんが店長に笑いかけた。え、やめて。二人って、どうして?
「あー……悪いけど、ごめん。まだやり残したことがあるんだ。また今度な」
「そうなんだ。なかなか一緒に行けないよね。今度は絶対付き合ってよ?」
 また今度。彼の言葉に、私は泣きそうだった。
 そのうち貴恵さんと二人で出掛けるの? 仕事が終わってから二人で飲みに行くの? 何を話すの?

 着替え終わった私と一緒に、貴恵さんもお店を出た。
「今日は暖かいわね。そろそろコートもいらないか」
「そうですね」
 すれ違うサラリーマンたちが貴恵さんを見て何か言ってる。本当に綺麗。現役のモデルさんって言っても全く違和感はないよ。隣を歩くのに気が引けてしまう。
 石畳の上を歩きながら貴恵さんが言った。
「くるみさん、あなたって」
「はい」
「良晴の……」
「え?」
「ごめんなさい、何でもないわ。ねえ永志くんって、優しいと思わない?」
「思います」
「昔からそうなんだけど、不器用なんだよね。人に気を遣い過ぎるし。でもそんなところがいいんだけど」
 店長の話を始めた途端、貴恵さんの表情が和らいた。あまり見たことの無い穏やかな顔。まさか本当に店長のこと……
「貴恵さん。私、お店に忘れ物しました」
 嫌だ。
「あら、大事な物?」
 このままじゃ、嫌だ。
「はい。明日のスイーツメニューでどうしても必要な資料です。すみません、先に帰ってて下さい」
 このまま何もしないで、店長がこの人に惹かれていくのを見るのは、嫌。
「そう。じゃあね」
「おやすみなさい」
 挨拶と同時に踵を返し駆け出した。
 
 椅子カフェ堂の窓とロールスクリーンの隙間から中を覗く。店内は薄ぼんやりと非常灯だけが点いていた。カウンターに座る店長の背中が見える。呼吸を整え目を凝らした。
 店長はペンを動かし何かを書き込んでいる。多分あれはレシピノート。頭を抱えた彼は背中を丸めてカウンターに突っ伏した。
 胸が、痛い。
 前にもこんなふうにして、彼が一人で作業をしているのを垣間見た。
 私たちの前にいる時は決して見せようとしないその姿。以前と違うのは、彼が背負っている悲しみの重さ。寂しそうな背中に切なさが込み上げる。

 耐え切れなくなった私はバッグからお店の鍵を探しだし、鍵穴にそっと差し込んで扉を開けた。音に気付いた彼がこちらを振り向いた。
「……くるみちゃん?」
「すみません、お忙しいのに」
「いや。忘れ物?」
「いいえ」
 私は扉を閉め、内側から鍵を掛けた。一歩踏み出し、彼の元へゆっくりと近付いて行く。バッグの柄を握る指先が震えている。
 黙って私を見つめる彼の前に行き、バッグを足元へ落とした。
「どうした?」
 間近にその声を聴くだけで胸が潰れそうだった。さっき見た寂しそうな背中と彼の苦しみ、貴恵さんに対する嫉妬と、彼を取られたくない思いと、膨れ上がった好きの気持ちが複雑に絡んで私をがんじがらめにしている。
「そのまま、座っててください」
 カウンター席に座っている彼に手を伸ばし、髪を触って頭ごと私の胸に引き寄せ、抱き締めた。
「くるみちゃん? 何、」
「黙って、聞いて下さい」
 彼の髪に顔を押し付け目を伏せる。心臓が破裂しそうなくらい、大きな音を立てていた。
「私、前に店長に職人さんが好きだよねって訊かれて傷つきました」
「……あれは、ごめん。まだ怒ってるの?」
 彼の低い声が直接私の胸に響く。
「そうじゃなくて、私は」
 手を離してすぐ傍の彼を見下ろした。反対に私を見上げた彼と視線が合う。もう、我慢できない。
「私は、ずっと店長が好きだったんです。だから誤解されてつらかった」
「え……」
「私、永志さんのことが好きなんです」
 彼の瞳に私が映っている。窓の外を車が通り過ぎると、あとには静けさとお互いの息遣いだけが残った。

「今夜はここにいて、いいですか」