椅子カフェ堂のある場所から五つ目の駅で待ち合わせをした。
 改札を出ると私に手を振る店長の姿。急いで彼の元に駆け寄る。
「すみません。待ちました?」
「いや、その前の電車で着いたとこ」
 店長、今日は何だかいつもより幼い感じ。丈の短い紺色のダッフルコートが可愛い。
「中途半端な時間で悪いな。腹減ったろ?」
「はい。すごーく減ってます」
「がっつりイケそう?」
「いけますよ〜!」
「よーし、よく言った! じゃあ行こう」
 待ち合わせの時間は午後二時。遅めのお昼を食べに行こうと言われていた。

 駅の構内を出て、表通りを店長について歩いて行く。冬晴れの真っ青な空が気持ちいい。日は当たっているけど、冷たい真冬の風に鼻がつんとした。
「くるみちゃん寒くない?」
「はい。店長は?」
 襟と袖にファーの付いたベージュのハーフコートを着てロングブーツを履いていた私は、それほど寒さを感じていなかった。
「寒い! 俺寒いの苦手なんだよ〜」
 マフラーを巻き直し、コートのポケットに手を入れて肩を縮めた彼が私に寄って来た。
「くっついていい?」
「え!」
「くるみちゃん、あったかそうだから。そのフワフワ」
 え、え、えー!!
「あ、あの」
「駄目?」
「駄目じゃないですけど、あの、どんな、感じで?」
 馬鹿ーー! 何わけわかんないこと訊いてるの私は!
「こういう感じで」
 私の肩に手を置いた店長が、ぐいっと自分の方へ抱き寄せた。彼の柔らかいコートの生地に顔を押し付ける形でくっついてしまう。
 ひゃーー! こ、こここ、これはどういう、どういうことどういうどういう……
「て、てんちょ」
「冗談だよ。体があったまるもん食べに行こうなー」
 楽しそうに笑った彼は手を離し、私の背中をぱんぱんと叩いた。冗談でこんなことしないで下さいーー!! この前も厨房で至近距離だったし、最近の店長は変だよ、もう……。

 歩いて五分ほどで到着したお店を見上げる。立派な看板に毛筆の書体で書かれた店名。
「ちゃんこ鍋ですか?」
「そう。いい?」
「私初めてです! 嬉しい」
 個室のお座敷席へ案内され、コートを脱いで畳の上に座った。店長は熱いおしぼりで手を拭きながらメニューを見ている。
「一杯だけ飲んでもいい? ここ酒も美味いんだ」
「もちろんです。私も何か飲もうかな」
「好きなもん頼みな」
「はい」
「ここってさ、昼時は混雑がすごいんだ。夜も人が多いし。この時間が一番ゆっくりできる」
「人気あるんですね」

 店員さんが用意してくれたテーブルの上のコンロに乗ったお鍋を見つめ、煮えるのを待ちながらお酒を口にした。とろっとした林檎酒は甘くて飲みやすい。
「店長、お店でお鍋を出すんですか?」
「へ? 何で?」
「前みたいに、お店のための食べ歩きなのかなと思って」
 私と目が合った店長は一瞬黙り込み、顔を逸らして咳払いをひとつした。
「あ、ああ。今日は違うな、うん」
「そうなんですか」
「今日はまあ、その……俺がくるみちゃんとご飯食べたかっただけだから」
「え」
 どういうことだろう。
 超ポジティブに考えたら私と一緒にいたいように聞こえるけど、超ネガティブに考えれば、職人さんと貴恵さんの前では言えないことを、今から言おうとしているとか。
「店長」
「んー?」
 彼は蓋を開けて、半分に割った竹に詰まっている鶏団子用のお肉を、ちょうどいい大きさにしながらお鍋に落としていた。
「あの、私何かしちゃいましたか?」
「え? 何が?」
「はっきり言って下さいね。店長、私には何も言わないから、本当はいろいろ不満とか溜まってるんじゃないかと……」
 菜箸でお鍋の中の野菜を整えた彼は、私に微笑んだ。
「不満なんてないよ。くるみちゃんて面白いね」
「本当に?」
「不満があるとすれば、貴恵に対する態度かな」
 彼女の名前が出て胸がずきっとした。私、感じ悪かったのかな。
「すみません、なかなか貴恵さんとお話できなくて。緊張しちゃって……」
「そうじゃないよ。言い返せ、って思ってるんだよ、俺は」
「言い返す?」
「そう。くるみちゃんが一生懸命考えてプライド持ってやってることなんだから、あれこれ言う貴恵に対してもっと怒っていいんじゃないかって思ってる。俺らに遠慮せずにさ」
「……・店長」
「ずっと我慢してただろ? 本当は」
 優しい言葉に胸がじんわり温かくなって涙が出そうだった。もしかしてそれを言う為に、今日ここへ連れて来てくれたの?
「貴恵も悪い奴じゃないんだよ。昔からおせっかいな所あるんだけど、本当に店の心配してくれてるしね」
 店長はちゃんと見ててくれたんだ。それを知った途端に劣等感や傷ついた心は、どこかへすっと消えて無くなった。今度貴恵さんが来たら、自分から話しかけてみよう。彼女に嫌われているなんて私の勝手な思い込みかもしれないんだし。
 ふと貴恵さんの、永志くん、って呼ぶ声が頭に浮かんだ。お店を心配してるから店長のことをあんなに気に掛けるの? それとも……。それもただの思い過ごしだと信じたい。

 ちょうど良く煮えたお鍋をつついて食べ、お酒を飲んで話が弾んできた頃、訊いてみたかった話題を出した。
「そういえば店長って、前はサラリーマンだったんですよね」
「うん」
「試食会に来た私の元同僚のこと、覚えてますか?」
「名前はわからないけど、顔は思い出せるよ」
「その内の一人が、店長を見たことがあるって言ってました。取引先の人だったって」
「うっわ、見られてたんだ?」
 彼は残りのおつゆに、ご飯と卵を入れて雑炊を作っている。雑炊を作るだけなのに手際が良くて惚れ惚れしてしまう。
「それで私の勤めていた会社を知ってたんですね」
「そう。くるみちゃんがいた会社、俺らの周りでも噂になってたからさ」
 あのつらかった日々も無駄ではなかったと今は思える。少しのことくらいじゃへこまないし、何よりそのおかげで椅子カフェ堂に出会えたんだから。
「不思議な縁だね、俺たち」
 湯気の向こう側から店長が私に言った。
「私、ご縁があって良かったと思っています。本当に」
「それは俺の台詞だよ。これからもよろしくな、ずっと」
「私こそよろしくお願いします」
 できることなら椅子カフェ堂にいたい。この先もずっと。


「うーさみー。せっかくあったまったのに、酔いも一気に冷めるなー」
 お店を出たところで店長が背中を丸めた。
 外は夕暮れを過ぎたばかり。僅かに残る夕焼けの色が遠くに見え、真上の空は濃い群青色が広がり、氷のように冷たそうな星がいくつか瞬いている。
「ごちそうさまでした。あっさりしていて、すごく美味しかったです」
「喜んでもらえて良かったよ。また行こうな」
「はい」
 通りに並ぶ、葉の落ちた樹々は冬のイルミネーションで暖かい色に光っていた。
「寒いけど私、冬ってとても好きです。空気が綺麗で何もかも澄んで見えて、こっちまで気持ちが清々しくなるっていうか。あったかい食べ物も好きですし、こういうイルミネーションも好き」
「そう言われると、冬も悪くないって気になるかな」
 後ろから自転車がベルを鳴らし、道の端に避けた私たちを追い越して行った。
「俺、くるみちゃんといると安心する」
「安心?」
「何でだろうな?」
 彼が歩きながら私の顔を覗き込んだ。その笑顔に釣られて私も笑う。
「あー腹いっぱいだけど、甘いのいく?」
 でも……本当は苦しい。
「太っちゃいそうだけど、少し食べたいです」
 どうしてそんな、思わせ振りなことばかり言うの?
「よーし、行こうぜ〜」
 その笑顔を独り占めしたい。誰のものにもなって欲しくない。好きって言ってしまいたい。口に出して伝えれば、少しはこの苦しさから解放されるの?
「店長」
 私、何を言おうとしてるんだろう。
「ん?」
 なぜか今日は止められない。
「あの、私」
 彼の顔を見つめた時、スマホの着信音が鳴った。店長はコートのポケットに手を入れてそれを取り出し、画面を確かめると眉根を寄せた。
「なんだ? ちょっとごめん」
 立ち止まった彼が電話に出た。
 何だかホッとしたような、気が抜けたような、変な気持ち。これで良かったのかな……。

 早々に電話を切った店長が私を振り向いた。外灯に照らされた彼の表情に嫌な予感が走る。
「くるみちゃん、ごめん。ばーさんが……」
「おばあさん、どうされたんですか?」
「風邪引いてたのは知ってるんだけど、肺炎起こして急激に状態が悪くなったらしい。兄貴が今病院に向かってるって」
「店長も早く行ってあげてください……!」
「くるみちゃん」
 彼の表情から動揺が伝わってくる。冷たい夜風が私たちの間を通り抜けた。
「いいから。私のことは気にせず早く」
「ごめん……」
 彼が私の腕を掴んで自分に引き寄せた。昼間冗談だと笑った時と同じ、彼のコートが私の頬に当たる。
「絶対また今度行こうな」
 私の頭を撫でた彼は、すぐに離れて言った。
「じゃあ」
「気を付けて」

 走り出した彼の背中を見送る。
 椅子カフェ堂に訪れた店長のおばあさんを思い出し、胸が切なくなった。
 どうか、どうか大事に至りませんように。