ここ二週間ほど、お店の営業中に店長が休んでいるのを見たことが無かった。お客さんが入っていない時も、自分の食事はほったらかしで何かを作ったり、仕込みを入念にしている。常に緊張した表情で仕事をこなしていて、明らかに以前よりも口数が減っていた。

 そんなふうになってしまったのも、あの男性客が店長に酷い言葉を投げかけてから。
 そのあと店長は何事もなかったかのように、あの男性のことをスルーしていたから、あの人が誰なのか、店長とどういう関係なのか、訊きたくても訊けない。本当は心配でたまらないのに。
 そんな中、職人さんは相変わらずマイペースで、店長の変化には気付いていないみたい。そういえば職人さんとのことを店長に誤解されたままなんだっけ。
 プリンはまだ上手くいかないし、なんか最近私ひとりでグダグダだよ。

 ラストオーダー直前、からりんとベルが鳴ってドアが開いた。秋の冷ややかな風と共に一人の女性が店内に入ってくる。
「いらっしゃいませ。おひとり様ですか?」
「はい」
「こちらのお席へどうぞ」
 うわーうわーもの凄い美人だ。背が高くて足が長い! 細いレギパンにピンヒールがよく似合ってる。モデルさんかもしれない。いいなぁ。3cmくらい身長分けて欲しいよ……。
 女性にお水とメニューを差し出した。よく手入れをされた長い髪。すごくいい匂いがする。私、香水なんていつつけただろう。
「お食事って、まだできます?」
 女性が顔を上げた。いけないいけない、美し過ぎて思わずじろじろ見てしまった。
「はい、大丈夫ですよ」
「じゃあロールキャベツと胚芽パン。食後にエスプレッソひとつください」
 メニューを指差した爪がきらりと光った。
「かしこまりました。少々お待ちくださいませ」
 厨房へ戻り、何となく自分の指先を見た。当たり前なんだけど爪は短いし、少し肌が荒れている。
「オーダー入ります。ロールキャベツと胚芽パン。食後にエスプレッソです」
「食事メニューこれでラストねー」
「はーい」
 あのくらいの身長だったら、背の高い店長とお似合いなんだろうな。何だかいちいちコンプレックスを刺激されてしまう。

 ロールキャベツを食べ終わった彼女に、エスプレッソを出した。
「いい香りですね。美味しそう」
「ありがとうございます」
「あの……こちらの店長さん呼んでいただけますか? 有澤さん、ですよね?」
 えー! まさかこの人も店長の知り合いだったの!?
「あ、はい。少々お待ちくださいね。今お呼びします」
 おじさんの時のような変な事にはならないよね? 厨房へ飛び込み、レシピノートと睨めっこしていた店長に声を掛ける。
「店長、お客さんが呼んでます」
「また? もしかしてこの前のおっさん?」
 ノートを閉じた店長が訝しげな顔をして、店内を映し出しているモニターを見た。
「いえ、すごく綺麗な人です」
「そんな知り合い、いたかな」
 厨房からホールへ出た店長は彼女を見て驚いた。
「貴恵(たかえ)?」
「永志くん、久しぶり!」
「ほんとに貴恵かよ〜! え、何これ偶然なの?」
「偶然といえば偶然かな。友達がFBで紹介してたお店のホームページを見たら、プロフィールの所に二人がいるじゃない? それでびっくりしちゃって」
「そうかあ。元気だった? 何年振りだろな」
「五年ぶりくらい? ねえあの椅子、もしかして良晴が作ったの?」
「そうだよ。呼んでこようか?」
 なぜか少し躊躇った女性は、そうね、と苦笑いをして頷いた。店長だけじゃなくて職人さんとも知り合いなんだ。横目で見ながら、別のお客さんの支払いに対応する為、レジに向かう。
「ごちそうさま」
「ありがとうございました」
 お客さんが店を出た時、私の後ろを通った職人さんが、貴恵さんと呼ばれた人の前に行った。
「お久しぶりです」
 彼女が先に挨拶する。
「……どうも」
「そこ座る?」
「忙しいから一瞬だけな」
 職人さんが彼女の向かいに座った。最後のお客さんが席を立ち、レジにいる私の方へ向かって来る。
「ごちそうさまね」
「ありがとうございました!」
 レジを済ませたお客さんのために、店長がドアを開けて挨拶をした。ついでに表の立て看板をお店に入れてくれる。

 職人さんと貴恵さんの話し声は、レジをしめている私の耳にもはっきり届いた。
「なに、元気にしてんの」
「うーん、良晴の顔見たら元気なくなったかな」
「何だよ、それ」
「嘘。元気出たよ、とっても」
 貴恵さんの笑い声が響いた。
「良晴は? 何だか不機嫌そうね」
「元カノが突然訪ねてくればそうだろ、普通」
「ひどーい」
 え、えええ、ええええ!! こっ、ここ、こここの綺麗な人が職人さんの!? 元カノっ!?
 そうかーそりゃあ私なんて好みじゃないよね。うん、仕方ないわー。ひとつも太刀打ちできるところがないし、というか勝負しようと思うこと自体がおこがましく思えてしまう。それくらい完璧な綺麗さだもん。

 店長がドアの鍵を閉め、窓際のロールスクリーンを下ろし、楽しげな会話を続けている二人のテーブルに着いた。
 明日はお休みだから仕込みがなく、手持無沙汰になった私はたいして埃の付いていない雑貨を磨き始めた。合間にチラリと三人の方を見る。気になるけど話に入っていくわけにはいかないし、もう帰った方がいいのかな。
「良晴の家具、いいね」
 貴恵さんがこちらの家具を指差し、職人さんに笑いかけた。び、びっくりした。
「ふん。あんだけ反対した癖に」
「だって普通は反対するでしょ? 急にあんなこと言われたら」
「まあまあ。もう店閉めるから飲みにでも行く? 明日定休日だし」
「永志。お前大丈夫なのかよ?」
 笑った店長を職人さんが睨む。
「何が?」
「根詰めてない? 最近」
 職人さん、本当は店長の様子に気付いてたんだ……。
「平気だよ。何だよ急に」
「永志くんって昔からそうだよね。誰にも言わないで一人でずーっと何かしてるの」
 貴恵さんが店長にクスッと笑いかけた。
 あ、私邪魔だ。
 突然いたたまれなくなって事務所に駆け込んだ。急いで着替えて荷物を持ち、ホールに戻る。
「店長。片付けは終わったので、お先に失礼します。レジはしめました。あとで確認をお願いします」
 笑顔が引きつってる気がする。
「あ、うん。ありがとう。お疲れ様」
「お疲れー」
 店長に続いて挨拶した職人さんの向こう側で、貴恵さんが私に会釈した。

 椅子カフェ堂を出て暗い空を仰ぐ。風が冷たい。
「はぁ……」
 私ができることって何だろう。
 チーズケーキを作ること? 椅子カフェ堂を変える為にアイディアを出し続けること? もちろんそれは本当に大切なことだけど、今はそうじゃなくて。
 あのおじさんが来てから必死に頑張っている店長を励ますでもなく、話を訊いてあげられるわけでもなく、気の利いた言葉なんてひとつも浮かばないで、この二週間、一人でオロオロしてただけの自分に落ち込んでるんだ私。
 少し寒い。そろそろ街路樹の葉が色づいてくるんだろうか。角を曲がって石畳の上を歩き始めた時だった。
「くるみちゃん!」
 外灯の下で振り向くと店長が駆け寄ってきた。
「どうしたんですか?」
 深呼吸した店長が私の顔を見つめた。カフェエプロンしたままなんて、緊急の用か何かなの?
「あのさ、気にしなくていいよ」
「……何の話ですか?」
「あの子、良晴の元カノなんだけど」
「あ、はい。さっき訊いてました」
「大丈夫だからさ。良晴とはもう、今は何でもないから」
「私、職人さんのこと別に好きじゃないです」
 顔がかっとして、その瞬間思わず口走っていた。
「人として好きですし尊敬もしてますけど、異性として好きっていうわけじゃないです」
「え、あ……そうなの?」
 そんなことで追いかけて来たの? そんなに私が職人さんを好きだと思ってたの? 私と職人さんを上手く行かせるためにここに来たの?
 ふと、貴恵さんの姿が頭に浮かんだ。
 久しぶりに見た店長のリラックスした顔。職人さんの店長に対する気遣い。昔からそうだよね、という彼女の言葉に疎外感を覚えた。思い出なんて何一つ共有していなくて当たり前なのに、私、一人でいじけてた。
「俺、勘違いしてたのか」
「……そうです」
「いやだってさ、くるみちゃん良晴と仲いいし、俺と話してる時と全然態度違うじゃん」
「な、何もわかってないです。店長の馬鹿……!」
 どうして逆に受け取っちゃうの?
「馬鹿ってなんだよ」
 彼の声が不機嫌なものに変わった。
「俺は、くるみちゃんの為を思って協力しようと」
「だからそれが全然わかってないんです。私の為って言いながら、何も、見えてない……」
 違う。店長は悪くない。悪いのは私。勝手に恋しておきながら、勘違いされたからって落ち込んで。自分の気持ちを伝えてもいないくせに八つ当たりして、一番見せたくない人の前で嫌な私を押し付けてる。もうやだ。
「いいからもう、放っておいてください」
「なんで」
 店長に手首を掴まれた。私の手、爪は短いし何も塗ってないし、水仕事で少し荒れている。あの綺麗な人の手と比べられたくない。
「は、放して」
「いやだ。放っとけないよ、何そんなに怒ってんの」
「私だって怒ることもあります。……怒っちゃ駄目ですか」
 もう言ってることがめちゃくちゃ。嫌われた絶対。店長の迷惑になりたくないって思ってたくせに、今まさに迷惑かけてる。最低だよ。
「ちょっと待ってて」
「え?」
「駅まで送るから絶対ここにいてよ。いい? 勝手に帰ったら怒るからね」
 そう言い残して店長はお店に戻り、再び私のところへ走って来た。エプロンは外して大き目のパーカを羽織っている。

 気まずいけど言葉が見つからない。心臓が痛いくらいに大きく鳴っている。黙っていると、彼はにこりともせずに私に訊いた。
「何色が好き?」
「どうしてですか」
「いいから。何色が好き?」
「……ピンク」
「わかった」
 店長は私の手を取り、ずんずんと早足で歩き出した。手を握られて恥ずかしいとかそんなことを思う間もなく、引っ張られるようにして石畳の上を歩き、駅のお花屋さんに辿り着いた。可愛く仕上げてあるプチブーケを、毎日帰りがけに眺める大好きなお店。
 私の手を離した店長は店員さんを呼び、お花を指差した。
「それとそれとそれとそれ入れて、大きい花束にしてください」
 薄いピンク、淡い桃色、濃いショッキングピンク。細かい小花に、大きな花弁の花に、豪華な花。
「ご予算は、どれくらいでお作りすればよろしいでしょうか」
 店員さんに言われた彼は、パンツの後ろポケットから財布を取り出して、お札を渡した。
「これで」
「承知しました。おリボンは何色がよろしいですか?」
「リボンもピンクにして下さい。それ、時間かかる?」
「十分程いただきます」
「じゃあ十分で戻るから、作っておいて下さい」
「かしこまりました」
 頷いた店長は、また私の手を取って歩き始めた。
 一体どうしちゃったんだろう。彼の顔を見上げても、気付かないのかわざとなのか、知らん顔して歩き続けてる。私が訳の分からないことを言ったから怒ってるの?
 駅向こうにあるケーキ屋さんの前に来ると、そこで彼は立ち止まった。
「くるみちゃん、嫌いなのある?」
「? いえ、特には」
「すみません。このショーケースの一番上の段のケーキ、端から一個ずつ詰めてくれます?」
 私が返事をしたと同時に、店長がお店の人に向かって言った。は、端から全部!?
「かしこまりました。全部で十個になりますが、よろしいでしょうか」
「うん。お願い」
 ケーキの箱を受け取った店長は、私を連れてお花屋さんに戻った。お店の人が綺麗なブーケにまとめたお花を受け取ると、彼は私を連れて駅の改札まで来た。

「くるみちゃん」
「……はい」
 店長は私の右手にケーキの箱を握らせ、胸の前に花束を差し出した。彼は真剣な面持ちで静かに言った。
「誤解したお詫びと、いつもありがとうっていう俺の気持ち。こんなんで機嫌直してくれなんて、都合いいかもしれないけど」
 ケーキで詰まった箱が重たい。視界が淡いピンク色で一杯になっている。
「いろいろごめん。明日はゆっくり休んで。……おやすみ」
 目の前のお花がゆらゆら揺れて、ぼんやりと滲んできた。胸が痛い。慌てて彼のパーカを引っ張る。
「くるみちゃん?」
 一歩踏み出した彼は足を止めて、私の顔を覗き込んだ。
「永志さん、ずるいです。こんなことされたら、どんな人だって機嫌良くなっちゃう」
「くるみちゃんだってずるいよ。泣かれたら気になっちゃって俺、店に戻れないじゃん」
 二人で顔を見合わせて、少しだけ笑った。いろいろな気持ちが混ざって複雑だけど、彼の言葉が嬉しかった。
「皆と一緒に飲みに行く?」
「ううん。大丈夫です」
「そっか」
「困らせてごめんなさい。店長は何も悪くないです。馬鹿なんて言ってほんとに……ごめんなさい」
 困ってないよ、と笑った店長は、私の頭をぽんぽんとしてくれた。
「気を付けて帰んな。おやすみ」
「おやすみなさい」

 私が改札を通っても、エスカレーターに乗っても、彼はまだこちらを見ていた。左手をポケットに入れ、右手を私に向けて振っている。
 ……大好き。
 いつかその言葉を伝えたい。でも彼の迷惑にはなりたくない。どうしたらいいのか、わからない。
 腕の中でこちらを見つめる可愛らしい色の花たちが、その香りで私の胸の痛みを慰めてくれた。