「忘れ物ないね? 出るよ」
「お願いします」
朝の八時。店長が運転する車の助手席に乗せてもらい、椅子カフェ堂から朝市に向かって出発した。
「一時間くらいしかいられないけど、勉強にはなるから」
「はい。すごく楽しみです」
椅子カフェ堂のある駅の向こう側に、昔ながらの商店街が広がっている。私たちがいる側は比較的若い世代の街で、商店街側は地元の人が来る場所。その商店街は週に三回朝市を開催していて、店長もそれをよく利用していた。
今日これから訪れるのは商店街の朝市ではなく、椅子カフェ堂から少し離れたところにある、月二回だけ日曜日に大きな広場で行なわれる朝市。私が作ったプリンをお店で出すことに決まり、卵や牛乳に拘りがあるなら、関東近郊や、その他の地域からも出店が集まって来る、この朝市で探してみたらどうだろう、と店長が提案してくれた。
朝六時に椅子カフェ堂に入ってプチケーキは焼いておいた。最近凝っているマシュマロフォンダントの飾りも完璧。生クリームは戻ってからでも十分間に合うから大丈夫。
車を十五分ほど走らせ、会場に着いた。
公園の広場に出店がずらっと並んでいる。お店の上は青い空に気持ち良く映える、濃いグリーンのテントが張られていた。駐車場に車を停め、軽い足取りで早速お店へ向かう。あーわくわくする!
商店街の朝市と少し趣が違い、こちらは外国のマルシェという雰囲気。並んだ木箱にフルーツや野菜がぎっしりと詰まっている。
ぴかぴかのトマト、葉の青々とした冬菜、泥の付いたさつまいもと人参。艶のある柿、青林檎、シロップ漬けの剥き栗、色とりどりの手作りジャム。大人のこぶしほどもある玄米のおにぎりや手作り味噌、小さな壺に入った梅干し。
どれもこれも美味しそうで目的を忘れてしまいそうになる。時間的に、まだそれほど混雑はしておらず、いろんなお店を見て回れた。
「店長、あれは何の野菜ですか?」
「ホソバワダン、って書いてあるね。聞いたことある気がするけど、なんだっけな……」
店長がお店のおじさんに声をかけると、どう、と葉っぱを一枚ずつ差し出された。
「かじってみー。体にいいから」
え、このまま? おじさんのニコニコ顔に押されて、恐る恐る口に入れてみた。
「くるみちゃん思い出した! って遅かったか」
店長早く言ってよおお! 口をへの字にして、その味に耐えた。
「超苦い、です……」
「ははっ、すげー顔」
店長が楽しそうに笑った。綺麗な葉の見た目とおじさんの笑顔に騙されたよー。店長もそれを齧って同じように顔をしかめてから、お店のおじさんに言った。
「これニガナでしょ? 沖縄の」
「当たり。青汁に入ってるやつねー。白和えにすると美味しいんだよ」
面白そうだと言って、店長はその葉っぱと大きなさつまいもとかぼちゃを買った。
口の中に残った苦みに耐え切れなくて、フレッシュジュースを販売しているお店に寄ってもらう。
「すみません〜」
「いいよ。慣れてないとキツイよな、あの苦みは」
梨と無花果のミックスジュース。ほわんとしたピンク色が可愛い。
「これ美味しいです。レモンと蜂蜜が入ってるのかな」
「ひとくちちょうだい。やっぱ俺もまだ駄目だ」
「あ、はい。どうぞ」
私からジュースを受け取った彼は美味しそうにそれを飲んだ。店長って、こういうの全然平気というか全く躊躇いがないんだなぁ。ケーキの時も思ったけど。大人だからいちいち気にしないのかな。一応私も大人なんだけど、どうしてもこういうのに照れがある。店長のことを好きだからかもしれないけど。
同じお店で蜂蜜を購入すると、ジュースのレシピをこっそり教えてくれた。何だか得した気分。
そこから、さらに奥のブースへと進み、ようやく目的のものに出会えた。ミルクプラントのマークが入った白い幟が、お店の前でバタバタと風に揺れている。同じようなお店が五店、横一列に並んでいた。
「店長、あの辺がそうですよね?」
「ああ。どこも良さそうだな。牛乳の試飲ができるね」
五店舗全ての牛乳を試飲し、飲み比べた。
「どう?」
「そこのお店が一番美味しいと思ったんですけど……。店長のミルクフォーム用の牛乳の味を知ってるから、なんとも」
「そうだな〜。ただ、あれはエスプレッソに合わせる牛乳だからね。プリンをあっさりめにしたいんだったら、俺はこっちの方がいいんじゃないかと思うけどな」
「一応買って作ってみます」
「うん、いろいろ試すといいと思うよ。焦らない方がいい。名刺とパンフを貰っておこう」
1リットルの大きな瓶入りの牛乳を専用の保冷バッグに入れてもらった。
「継続的に取り寄せができるかどうかも訊いておいて」
「はい」
他の二店で卵とバターを購入する。
生産者さんと直接顔を合わせて話を訊くことができるのは、なかなか経験できない貴重なものだった。取り寄せ方法や発注の最低数などの必要な情報も詳しく教えてもらった。
「また来ような。俺も結構買っちゃったよ」
「はい。また連れて来て下さい。とても勉強になりました」
「それなら良かった」
店長が車を発進させた。もうすぐ十時。楽しい時間は、あっという間に過ぎてしまう。
ちらりと運転席を見た。ハンドルを握る手、大きいな。切り傷はないみたいだけど、また新しい火傷の痕ができている。店長、彼女ってどれくらいの間いないんだろう。この助手席に乗ったことあるのかな。あーもう駄目だ私、黙ってると余計な事ばかり考えちゃう。膝の上に置いた卵の袋を触り、呟いた。
「職人さん、この材料で作ったプリン喜んでくれるかな……」
余分に作らないと、試食分を全部食べられちゃいそうな感じだけど。
赤信号で車が止まった。横断歩道を家族連れが歩いて行く。日曜日だから、どこかへ遊びに行くんだろうな。
「喜ぶんじゃない?」
「だといいんですけど」
「この前から思ってたんだけどさ」
「はい」
「くるみちゃんて、良晴のこと好きでしょ」
「……え?」
「いや、いいのいいの。俺、職場恋愛とかそういうの、禁止するつもりないから全然」
え、何? 意味がよく、わからない。
「店長、あの」
「良晴もいい感じだし、俺応援するからさ。相談に乗るから何でも言ってよ」
違う、って返したいのに、喉の奥に何かが詰まってしまったように言葉が出てこない。
彼の横顔を見たいのに、そっちを向けない。
頭が、がんがんする。どうして急に、そんなこと言うの?
信号が青になった。車が発信して、ゆっくりと景色が流れていく。でも私の心は立ち止まったままで、目の前の景色どころか、何も……見えない。
「よし、荷物下ろそう」
彼の声に顔を上げると、いつの間にか椅子カフェ堂の裏手に着いていた。
「……ありがとうございました」
「プリンも売れるといいな。あの良晴が、あれだけ美味しいって言ってたんだから絶対大丈夫だとは思うけどさ」
明るく声を掛けられて頷くことしかできない。そんな言葉を聞きたい訳じゃないのに。
ショックだった。
応援するって、何? 私が誰を好きになろうが、誰かと上手くいこうが、店長には全然関係なくて、別に何とも思われたりしない。そういうことなの?
期待していたつもりはなかったのに、こうはっきり言われちゃうと、さすがにキツイな。
足元がぐらぐらする。卵、落とさないようにしないと。大きな瓶に入った牛乳が、急に重さを増したように感じて腕が怠くなった。