お昼ご飯はオーガニックのお店で和食をいただいた。
 店長は料理そのものよりも、器に興味を持ったようで、他のテーブルのお客さんの分もちらちらと見ていた。
 食べ終わって外に出ると、暑さは少し和らいで、涼やかな風が二人の間を通り過ぎていく。フレアスカートの裾が揺れた。秋が近いのかな。
「ああいう小ぶりな器だったら、女性客が食べやすいのか。あれだったら、どんぶりフェアもいけるかもしれない」
「どんぶり?」
「親子丼以外にも三種類くらい用意すんの。普通のと、小ぶりなのを用意して選んでもらえば食べやすいかなって」
「確かに小ぶりだと女性は頼みやすいかも。種類を選ぶのも楽しそうですね」
「だろ? ちょっと考えてみるか」
 腹ごなしに器を置いてあるお店を見て回った。お店を出るたび、満足げな表情の店長を見て私も嬉しくなる。

 どこかで休もうということになり、チェックしておいたお店を訪れた。
 一軒家をまるごとカフェにしたここは、こじんまりとしていて誰かのお家にお邪魔したみたい。五つあるテーブル席が埋まっていたので、窓際のカウンター席に並んで座った。
「そういえばさ」
「はい」
「今さらだけど、こんなふうに俺と出掛けたりして、彼氏に怒られないの?」
「彼氏はいないから、全っ然平気です」
 即答してしまった。中学からずっと女子高で、大学に入ってやっと出来た彼氏とも、すぐに別れてしまったし……。流されるようにして付き合い始めたんだけど、いざ、そういうことする段階になったら無理で、本当に好きじゃないって気付いたんだよね。悪いことしちゃったなぁって今は思ってるけど……。
「あ、ああそう。ああそうなんだーへえー、そう。あ、カプチーノ美味いな」
 店長が何度も頷いた。そんなに確認しなくても……。
「永志さんこそ、怒られないんですか? 素敵な彼女に」
「俺もいないから大丈夫。今くるみちゃんと、いっちゃいちゃしてても、全っ然平気」
「そ、そうなんですか? 絶対いると思ってました」
 ほんとに? なんだか素直に頷けない。疑いたくなるほど意外だよ。
「今は忙しいし、そんな暇ないよ」
 彼はメレンゲがたっぷり載ったレアチーズケーキにフォークを入れた。
 私の前にあるのはカップケーキ。ペパーミントグリーンの小さなお皿の上にちょこんと載っている。天辺には生クリームがたっぷり絞ってあった。
 ……これ、もう少し小さくして、プチカップケーキにするのはどうだろう。午前中に私が食べたプチフールみたいに、プチカップケーキを選んでもらうの。カラフルなクリームを載せてデコレーションを派手にすれば、小さくても目立って可愛いはず。
 メモを取り出し、素早くアイディアを書き込んだ。ついでに絵で説明も描き加える。

 店内に流れている楽しげな音楽のお陰で、おしゃべりの声が近くのテーブル席に丸聴こえということはなかった。
「くるみちゃんはさ、どんな店が理想?」
「理想、ですか?」
「もしも、だけど、もしもくるみちゃんが自分の店を持ったとしたら、どんな店にしたい?」
 こんな店内がいいな、こんなお菓子を作りたいな、ってささやかなものだけど、夢見たことは何度もある。
「そう、ですねえ。カフェでも、ケーキ屋さんでも、雑貨屋さんでも、何でもいいんですけど」
 誰にも話したことはなかった。
「あんまり……目立たなくていいんです。こんなところにお店があったっのかなって、偶然見つけてもらえるような感じで。隠れ家的な」
 隣の店長は手を止めて、私の話を黙って聴いていた。
「流行に囚われていないけど、いつ行っても新鮮で、そこにいるだけで気分が変われる。嫌なことがあった時とか、落ち込んだり、悲しかったり、そんな時に思い出してもらえるようなお店が理想です」
 そうか、と呟いた彼が続けて言った。
「じゃあ、そうしよう」
「そうしようって?」
「椅子カフェ堂を、そういう店にしようよ。くるみちゃん」
「うーん。でも、目立たないと人が来ないんじゃ」
「あーそっか、それはちょっと困るな。でも、思い出してもらえるようなお店って、そういうのいいじゃん」
「……そうですよね。永志さんは? どういうお店にしたいんですか?」
「そうだな。俺は誰でも気軽に入れる店がいい。値段は高くないんだけど味は良くて、何度でも来たくなる店だな」
 急に聞いてもらいたくなった。二人の距離が近い、この場所で。

「私がお店で頑張っている理由は」
「ん?」
「突然すみません」
「いいよ、続けて」
 一度アイスコーヒーをストローで吸って、ほろ苦さを喉に流し込んでから、話を続けた。
「私、好きなことを仕事にするなんて、考えたこともありませんでした。そういうのは才能がある人だけがすることで自分には関係ないんだって。だから周りの流れに乗って、とりあえず就職しました」
 夢を語ることすら、恥ずかしいと思っていた。
「就職先がつらくてたまらなくて二年で辞めました。そのあとも、とにかく普通の職に就ければいい、きちんとしたお金が入ればそれが一番いいって。だから永志さんに初めて会った時、採用って言われた瞬間、次が決まるまでの繋ぎとして適当に働こうと思ってしまいました。ごめんなさい」
 店長は目の前の窓の外へ視線をずらし、声を出さずに頷いた。
「でも椅子カフェ堂で永志さんが淹れてくれたカプチーノを飲んで、そのあとお店を変えたいってお話を聞いた時、ショックを受けました。適当にやろうとしていた自分が、すごく恥ずかしくなった。お店と一緒に変わろうと思ったんです、自分も」
 今まで喉の奥につかえていた正直な思いを一気に話した。嘘、偽りなく。大きく深呼吸して、アイスコーヒーを飲んだ。
「チーズケーキはね」
 椅子の背もたれに寄り掛かり、店長が静かに話し始めた。
「施設に入ってる、ばーさんが昔、俺に何度か作ってくれたんだ。兄貴が二人いるんだけど歳が離れててさ、親は働いてたし、ばーちゃん子だったの俺。ずい分でかくなるまで」
 私も窓の外を見ながら、知らない頃の店長を頭に思い描いた。
「ばーさん、じーさんと定食屋やりながら、いつかハイカラな喫茶店やるんだって、俺にいつも言ってた。ハイカラってわかる?」
「なんとなく」
「俺的に、きっと今風なカフェのことだろうと解釈して、店をカフェにしたんだ。別に定食屋でも良かったんだけど」
 すぐ傍にある彼の横顔を見上げて、今度は私が頷く。
「チーズケーキに拘ったのは、その味が忘れられない、っていう俺の我儘なんだ」
「我儘?」
「甘いものを出そうって決めてから、お菓子を作れる子を紹介してもらったんだけど、合わなくてさ。くるみちゃんに要求したようにお願いしたんだけど、プライドが耐えられなかったらしくて、できるわけないってキレられた。まあ普通の反応だと思う」
 苦笑した店長は、カプチーノをひとくち飲んだ。小さく溜息を吐き、話を続ける。
「その子が辞めて、あとから入って来た子たちも同じ。作れないのは仕方がないから諦めたんだけど……客が来なくて暇だからさ、ずっとスマホ弄ってたり、店の漫画読んでて客が来ても気付かなかったり、勝手に早退決めてたり、そういうのが続いてさ。俺、その辺許せない性質だから、結局皆辞めさせた。一人で出来る訳ないのに、それでもいいと思った。俺が上手くコミュニケーション取れてなかっただけなんだけどね」
 職人さんが言っていたのは、このことだったんだ。
「本気で悩むこともあって、すごい焦ってたんだ。それでこの先どうしようかって悩んでたところに、くるみちゃんが店の前に立ってたのを見つけた」
「え……」
「試しに訊いてみたら、チーズケーキが作れる、なんて言うもんだから、それだけで勝手に気持ちが救われちゃったわけ。別に作れなくてもいいから、この子に来てほしいなーって思った。俺の直感、大当たりだったよ」
「私も、店長に声を掛けてもらって良かったです」
「そう思ってくれる?」
「当たり前です」
 良かった、と店長が笑った。私も一緒に微笑む。
「椅子カフェ堂の椅子は良晴が作った椅子、カフェはそのまんまカフェ」
「堂、は?」
「『有澤食堂』の堂」
 ぽつんと呟いた横顔に胸が苦しくなった。
「残したかったんだ。少しでもいいから。ドアのベルと一緒に」
 苦しくなっただけじゃなくて、涙が出そうだった。有澤食堂の、堂。椅子カフェ堂という名前には、そんな意味が込められていたんだ。
 私も大切にしたい。出会いは変わっていたけれど、知ってしまった今は、その名前がこれ以上ないほど、あのお店にしっくりくる。
「もしまだあるなら、今度有澤食堂の頃の写真を見せて下さい」
「ああ、いいよ。昭和な雰囲気のいい写真だよ」
「ありがとうございます」
「くるみちゃん」
「はい」
「椅子カフェ堂も雑誌に掲載されるような店に、なれるかな?」
 私の方に向き直った彼の真剣な声。急にどうしたんだろう。
「なれたらいいです。そんな夢みたいなこと、叶ったら素敵です」
「だよなー。なかなかそうはいかないよなー」
「叶えるお手伝いをさせてください。頑張れば、きっといつかはそうなれます……!」
「だな。最初から諦めちゃダメだよな」


 お店を出て、すぐ隣にある雑貨屋さんに入る。そこにも器があったから、店長がそれを見ている間に私も他の雑貨を見て回っていた。
 ラベンダー色の薔薇のコサージュが飾られた、小さなクッションみたいなサシェがあった。二段重ねて、くすんだピンク色のリボンでプレゼントみたいに留めてある。
「いい香り」
 手に取って匂いを確かめていると隣に来た店長が言った。
「買ってあげるよ」
「そんな、だめです。自分で買います」
「いいよ。今日のお礼」
「だって、さっき食べたのも全部ごちそうになったのに」
「あれは必要経費。これは俺個人から。他にも、もっといいよ。持っておいで」
 そんな優しい笑顔でそんなこと言わないで下さい。なんかもう、駄目だ、私。
「これだけで十分です」
 あ……思わず言ってしまった。クスッと笑った店長が私の手から、そっとサシェを取り上げた。
「くるみちゃんは、こういうのが好きなんだね」
「え、はい」
「知ることが出来て良かったよ。また今日みたいに、付き合ってくれる?」
「もちろんです。私で良ければ」
「ありがとう。買ってくるから待ってて」

 レジカウンターに並ぶ店長の背中を遠くから見つめる。
 本当にまた一緒に出掛けてくれるの? 気紛れで言ってるわけじゃなくて?

 店長の性格を教えられた時のもやもや、椅子カフェ堂に忘れ物を取りに行った時に見てしまった彼の横顔、リニューアルの時の女性客の反応を知って起きた感情。いちいち思い出さなくても、もうとっくにわかってる。
 私、いつの間にか店長のこと……好きになってたんだ。