散歩道にあるベンチに重たい鞄を置いて座った。
「……疲れちゃった」
 見上げると青い空に雲が三つ浮かんでる。七月上旬。梅雨の晴れ間の水曜日。風は爽やかだけど日差しが強くなってきた。

 私の前を、ベビーカーに赤ちゃんを乗せたママたちが、楽しそうにおしゃべりをしながら通り過ぎた。その後ろから、もっと上の世代の奥さまたちが、カラフルなショッピングバッグを手に歩いて行く。私の就活用の黒いスーツが、何だか浮きまくってるよ。

 世間でいうところの、所謂ブラック企業を辞めて二か月。あの地獄のような日々は一体何だったんだろうと、ベンチの上でぼんやり考える。
 残業残業で、帰りは毎日のように終電ぎりぎり。社内では、どこを向いても全員がぴりぴりしていて、仕事を聞くのも教えてもらうのも神経すり減らしながらだったせいか、入社してわずか二か月で体重が7s落ちてしまった。持ち帰った仕事で休日が潰れることも、よくあったっけ。もちろん休日出勤なんて当たり前。
 二年間頑張ったけど、もう限界だった。心も体もボロボロ。体力はある方だったのに、段々対応できなくなってきて、それでも具合が悪くなったら点滴打ちに行ってそのすぐ後に仕事して……なんて、わけのわからない生活、よくやってたよ。
 親はゆっくり休めと言ってくれたけど、そろそろ次を探さないと、って焦ってる。今は就活中だけど、中途採用の面接は厳しい現実が待っていた。今日の面接でも、二年で辞めたことに対する非難の目がキツかったし……。

 落ち込んだ気分で地面に視線を落とすと、鳩が近付いて来た。どこからかもう一羽飛んできて、一緒に私へ向かって歩いてくる。うじうじしてても仕方ない。鳩は好きだけど、戯れてる時間はない。
「よし、行こ!」
 鞄をごそごそやって雑誌を取り出した。表紙には大きく「居心地のいい東京カフェ巡り」と書いてある。死にそうになりながら働いていた頃から、私の唯一の趣味であり癒しでもあるのが、このカフェ巡り。休日にどうにか時間を見つけて、おしゃれな空間で美味しもの食べてコーヒーの香りに包まれて……そうして何度救われたかわからない。

 この街でのカフェ探しは久しぶり。今日頑張ったご褒美に、美味しいの食べに行くんだ! 頑張ったっていっても、先週から三社回ってどれも駄目っぽいけど……。
 あーもう、ネガティブはやめやめ! 頭をぶんと横に振って、雑誌を手にしたまま鞄を持って立ち上がった。スマホで場所を確認しながら歩き出す。
 緑の多いこの街は、一年前に駅がリニューアルされたのに影響を受け、一気に素敵なお店が増えた。洋服、雑貨、インテリアショップ、そしてカフェ。大型のショッピングモールではなく、散歩道に個人店がぽつぽつと点在しているから、好きなコースを歩きながら回れる。

 駅から続く石畳の上を辿った。可愛い雑貨屋さんのウィンドーに、ガラスの器や陶器のカトラリーがお行儀よく並んでいる。傍にあるイタリアンのお店から、お腹が空いてしまうような良い香りが漂い、向かいの和菓子の店先でおまんじゅうを蒸かしている湯気が、もわもわと立ち昇っていた。散歩道に沿って並ぶ大きな樹に濃い緑の葉が茂り、風に吹かれて、さわさわと揺れている。
 歩いているだけなのに楽しい。このゆったりと流れている時間が素晴らしいよ。目的の場所はとりあえず後にして、しばらくは気ままに歩くことに決めた。

 初めて入る路地の角を曲がってみると、少しひらけた場所が現れた。昔ながらの乾物屋さんと金物屋さんが並んでいる。その隣のパーキングを過ぎたところに一軒家があった。上に掲げられた看板の文字を見て、木製のドアの前で立ち止まる。
「椅子カフェ、堂?」
 何のお店なんだろうと、置いてある立て看板にも目をやった。

 コーヒーとごはんと椅子、あります。
 (11:00〜20:00 LO19:30)

「……」
 なぜ椅子。
 コーヒーとご飯ていうのもなんか、ちょっと違うっていうか……。でも、もしかしたら最近こういう、ちょっとへんてこなのが流行ってるのかもしれないし。不思議系っていうの? よくわかんないけど。
 ランチ800円。パスタ900円。親子丼700円。中華定食900円。何系のお店なんだろう。
 大きな窓がドアの横一面にあるけれど、カーテンが引いてあって中がよく見えない。そもそも人の気配がしない、気がする。コーヒーのいい匂いがほのかに香ってくるから、営業はしてるんだろうけど……。
 ドアの横の壁に、貼り紙がしてあった。

 ホールスタッフ急募。二十歳以上。詳しくは店内にて。

 カフェのスタッフ、か。大学の時憧れたけど、結局違うバイト続けてて、出来なかったんだっけ。一度でいいから働いてみたかったな。
 お菓子作るのが好きだから、こじんまりしたスイーツショップをやってみたい、なんて思った頃もあった。趣味が高じてネットショップひらいてる主婦の人もいるけど、あれもいろいろ決まりがあるんだよね。前に調べてみたけど、親とマンションに同居している私には到底無理なことばかりだったし。
 第一夢だよ、そんなの。もっと現実的に生きよう。好きなことが仕事になるなんて、そんなのは一部の才能がある人だけ。
 ……でも私、好きでもない仕事の資格取ってどうするんだろう。今より上の資格取って、頑張ろうって思ったけど、本当にこれでいいのかな。私、一生このままなんだろうか。
「君、お菓子作れる?」
「きゃ!」
 振り向くと、背の高い男の人が私を見下ろしていた。
「作れる?」
「は、はい?」
 何なの、この人。
「お菓子作れるかなーって思って。貼り紙見てるんでしょ?」
「あの、もしかして、ここの方ですか?」
「そう。店長、兼オーナー」
 嘘、若っ! 驚いた私に、男の人はにっこり笑って言った。
「ここで働きたいの?」
「え……」
 ここで、働きたいんだろうか……私。
 だからいつまでも、ぐずぐず頭の中で考えて、この場を離れなかったの? それとも今の状況から逃げ出したいだけ?

 思わずその人から目を逸らして俯いてしまった。黒いヒールの革靴に、黒いスーツ。三年前、就活した時とほとんど変わらない格好。そうだ私、あれから何も変わってない。急に惨めな気持ちになって唇を噛みしめた。
「作れる? お菓子」
 男の人はもう一度、今度は私の頭の上から声を掛けた。その声にハッとして顔を上げると目が合った。この人180p以上あるみたい。
「何でも、っていうわけじゃないですけど、少しは作れます」
 私は150ジャストだから首が少し痛い。
 落ち着いてよく見ると、店長と言ったその人は結構、というか、かなりかっこいい人だった。髪は少し茶色で柔らかそうなショート。大きめの瞳も髪と同じ色。腕まくりした長袖の白いシャツの裾を、腰の細い黒いパンツに入れている。右手にコンビニの袋を持っていた。
「得意なのは何?」
「チーズケーキ、です」
 男の人は一瞬黙ったあと、にやっと笑って頷いた。
「いいねえ」
「?」
「よし、採用決まり。どうぞ店に入って」
 その人は私の背中にそっと手を置いて、前に進むよう促した。え、決まりって、嘘でしょ?
「いや、あの、ちょっと、あの」
 ……でも。
 ちょうど、いいのかもしれない。
 資格を取るにも時間がかかる。どうせ今日行ったところも内定通らないだろうし、だったらいっそのこと、次が決まるまでの繋ぎとしてバイトをしてみてもいい。それが前から働いてみたかったカフェなら尚更いいんじゃない?
 この店長も優しそうだし、なんかちょっとかっこいいし。名前はへんてこなカフェだけど、きっと中は雑誌で見るようなおしゃれな内装で美味しいメニューがあって……。うん、いいじゃん。ここで頑張れるかもしれない。最近ネガティブすぎるんだからさ、ポジティブになろうよ。

 店長がドアを押すと、からりんとベルが鳴った。ああ、いい音。鼻先をくすぐるコーヒーの香りが、さっきにも増して強くなる。なんか急にテンション上がってきた! 素敵な予感がする……!
 期待を胸に店長のあとについて一歩前に出した私の足は、なぜかそこで止まってしまった。
「どうしたの? 遠慮しないでどうぞ、ほら」
「あ、はい」

 扉の向こうに広がっていたのは、微妙ーーな空間だった。