黒い森

5 ダークチェリーの口づけ(1)




 残暑が厳しく、そのせいもあって苛立ちが増していた。西日が強い下校の時間帯が一番嫌いだ。歩いていても電車に乗っても、日差しを避けるのに苦労する。

 電車のドア際に立った僕は窓の外を眺めながら、この先のことを考えていた。
 いい加減、来月からバイトを減らさないと、マスターに叱られそうな雰囲気だ。大丈夫だと言っても納得してはくれないんだろう。心配するマスターとは反対に、僕は勉強のことよりもバイト代が減ることに焦りを覚えていた。
 電車を降りて改札を出る。纏わりつく熱い空気に反応した、背中に流れる汗が不快極まりない。こんな気持ちで家にいるのは息が詰まりそうだ。僕は木陰を歩きながら、一旦家に帰って図書館へ行くことに決めた。自転車で行ける距離の新しくできた図書館は夜九時までやっている。

 コンビニの前を通り過ぎ、傍の角を曲がろうとした時だった。小走りの靴の音が近付き、すぐ後ろで止まった。
「椿樹、くん?」
 振り向こうとした体より先に記憶が反応する。……この声だ。
 タイトルのわからないブルース。あの甘ったるい歌声に似ていたのは、これだ。
 ゆっくり振り向くと、期待に漏れずその人が立っていた。彼女は半袖のブラウスの胸に手を当て、大きく息を吐いた。
「あの、覚えてる? 私のこと」
「覚えてる。恵人の友達でしょ?」
「そう」
 今日は髪を下ろしている。ショートパンツから伸びる脚が、やけに白く僕の目に映った。九月も終わりだというのに、元気に鳴き続ける蝉の声が煩い。何でこんな所に、いるんだろう。
「家、この辺なの?」
「ううん、遠いよ。待ってたの、ずっと。そこのコンビニで」
「恵人と待ち合わせ?」
「違うよ」
「恵人の連絡先、知らないの?」
「知ってるけど、今恵人くんは関係ない」
 彼女が何を言おうとしているのか見当が付かなかった。鞄を肩に掛け直し、額から流れ落ちた汗を拭う。
「椿樹くんを待ってたの」
「……僕?」
「そう。今日は午後の授業、無かったから」
 すました顔で彼女が言った。こんなふうにストレートに言われたのは初めてだ。僕を待っていても、そのプライドからか、偶然を装う女ばかりだったのに。
「何だよ怖いな、ストーカー? 僕、なんかしたっけ? 恵人に僕の連絡先聞けばいいじゃない」
 鼻で笑って、柄にも無く戸惑った自分を誤魔化そうとした。この女、何なんだろう。
「椿樹くんに、直接言いたかったの」
 初めて会った時も、そうだった。
「何を?」
 僕の中の何かを、刺激する。
「下の名前。教えてなかったから」
「それだけ?」
 僕の問いに彼女は視線を外して頷いた。
「……ふうん」
「別にもう知りたくないんだったら、それはそれでいいの。これ、恵人くんに返しておいてくれる?」
 大きなバッグに手を突っ込み、彼女は先日恵人が貸した本を取り出した。
「自分で渡せば? 家においでよ。待ってれば帰ると思うよ。遅くはならないって言ってたから」


 何も言わずに家までついて来た彼女に、念のため玄関先で尋ねる。
「僕の部屋に来る?」
「ううん。迷惑じゃなければ、この前のリビングで。駄目だったら玄関でいい」
 間髪入れずにきっぱりと言い放った彼女に驚いた。待ってたなんて言うから、少しは期待してるのかと思ったけど、そういうことじゃなかったんだ。
「駄目じゃないよ。どうぞ」
 ますます興味が湧いた。この間と同じ欲が僕の中で顔を出す。今、恵人は家にいない。
「お邪魔します」
 リビングの扉を開けてエアコンをつける。
「座って、そこ」
 キッチンへ行き冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出した。昨日僕が買ってきたばかりのそれを開け、コップに氷を入れて上から注いだ。リビングのソファで待つ彼女へ差し出す。
「で?」
「え?」
「教えてくれるんでしょ? 名前」
 受け取ったコップの表面に現れた水滴を、彼女が親指で撫でた。
「きぬか、て言うの」
「きぬか? 変わってるね」
「うん。糸へんの絹に、華は草冠で難しい方の、はな」
「絹って豆腐の?」
 僕の問いに一瞬目を丸くした彼女は噴き出した。
「何?」
「椿樹くんて面白いね。お豆腐なんて言われたの初めて」
 楽しそうにクスクスと笑い続けている。
「絹華さん」
「うん」
「きぬか、きぬか、きぬか」
「やめて。なんか恥ずかしい……」
 コップを額に付けて、彼女が視線を落とした。怒っていないのは柔らかな表情を見ればわかる。でも僕は敢えて、彼女に許しを請うような媚びた声を出した。
「覚えたよ」
 恵人のいないところで彼女のことを、ひとつ、知った。僕はそれが、たまらなく嬉しいんだ。
「忘れない」
 僕の呟きに反応した彼女は、両手で額に付けていたコップを膝の上に下ろした。視界がひらけた眼差しは僕に向けられている。行き場のない空気が僕たちの間を流れた。

 玄関ドアが開く音がして、どちらからともなく視線を外した。廊下の足音が近付き、リビングの扉がひらいた。
「お帰り。恵人」
「お邪魔してます」
 僕と彼女を見比べる恵人の顔は、驚きだけじゃない焦りを隠し切れていなかった。
「え……絹華? どうしたんだよ。何でここにいんの」
「本、返しに来たの。ありがとう長い間」
「なんだよ、連絡くれれば大学で受け取ったのに」
 声が上ずっていることに笑い出しそうになってしまう。わかりやす過ぎるよ、恵人。
「近くまで来たから。突然ごめんね」
「ああ、いや……いいんだけどさ。急だったから、ちょっとびっくりしちゃって。わざわざありがとな」
 彼女の言葉に恵人は顔を赤くして答えた。見ているこっちが恥ずかしくなってしまう。
「ちょうど良かった。これ、二人で食べな」
 恵人は手に持っていた茶色の紙袋を、僕たちの前のローテーブルに載せた。
「何とかチェリーっていうさくらんぼ? 大きくて赤いやつ。俺あんま好きじゃないんだ」
「どうしたの?」
「商店街歩いてたら、八百屋のおばちゃんがくれた」
「武蔵屋の?」
「そうそう。あのおばちゃん、まだまだ元気だよな〜。洗ってあるからそのまま食べれるってよ。旬はとっくに過ぎてるけど、これは高級品仕様だから美味いんだってさ」
 値段は関係なしに、こうして無邪気に何かを貰ってくる兄を、昔から飽きるほど見てきた。八百屋だけじゃない、近所の人たち、親戚、僕の友人でさえも兄には心を許してしまう。警戒心を持たせない屈託の無い笑顔と、愛想が良く、それが嫌らしく見えない性格は、それだけで特殊な才能の持ち主に思えた。
「俺シャワー浴びて来るわ。母さんは?」
「さあ? そろそろ起きて来るんじゃないの」
 そうか、と頷いた恵人はリビングを出て行った。

 僕は恵人が置いていった紙袋から「何とかチェリーっていうさくらんぼ」をプラスチックの入れ物ごと取り出した。恵人が貰ってくる直前に洗ったのだろうか、赤く大きな実の表面に細かい水滴が付いている。ソファを立とうとすると、彼女が言った。
「お皿、いいよ。このままで」
「そう? じゃあ、どうぞ」
 艶々としたさくらんぼの茎に二人で手を伸ばす。
「赤黒いからダークチェリーっていうのかな」
 彼女が摘まんだそれは、重たそうな実をぶら下げて揺れた。
「これ、アメリカンチェリーじゃないんだ?」
「言い方が違うだけで、どっちも同じだったと思う」
 いただきます、と言って彼女が一粒口に入れた。大きな果実を転がし、頬が膨らんでいる。
「これを砂糖漬けにして、生クリームの上にたくさん載せてるケーキが好きなの。名前は忘れたけど」
「ふうん。なんか甘そう」
「甘いの嫌い?」
「果物は食べられるけど、ケーキは好きじゃない。絹華さん、もっと食べていいよ。残っても困るから」
「ありがとう。甘くて美味しいね」
 種を取り出した彼女の唇が赤く濡れた。
「付いてるよ」
「どこ?」
「口のとこ」
 慌てた彼女は指で口の端を触った。
「違う、反対側……」
 同時に席を立った僕は、初めて彼女が家へ来た時と同じように、すぐ隣へ座った。
「え……」
 顔を上げて戸惑う彼女の瞳を見詰め、再び沈黙を引き込む。
 いつもみたいに期待されたから応えるんじゃない。これは僕の、意志だ。

 彼女の半開きになった唇の端に素早く顔を寄せて、甘酸っぱい雫を舐め取った。




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