黒い森

1 腐った牛乳




 目を覚ますと、そこはたいてい夜だった。

 湿った土の上に裸足の足が投げ出されている。
 誰もいない。誰も来ない。
 風も吹かない。雨も降らない。
 月明かりが木々の間から細い光を落としている。

 横たわる僕の前には露に濡れた雑草。その匂いだけが僕をくるんで温める。
 白いボタンダウンの長袖シャツと、同じ色のパンツを穿いた僕は背中を丸め、両膝を折り、両手は後ろ手に、何かで拘束されていた。
 くくられた両足首は傍にある大きな樹に縄か何かのようなもので繋がれ、体勢を変えようとするたびに、痛みが走った。
 暗く静かな寂しい場所に置かれた身動きの取れない体。その状況が僕をとてつもなく安心させた。

 誰も何も訪れなくていい。
 そう、思っていたのに。





 学校から家に帰り、リビングのソファに鞄を置いた。
 外の湿気が家の中までも不快にしている。エアコンをつけ、蒸し暑さに辟易しながらキッチンに入り、冷蔵庫の扉に手をかけた。
 昨日買っておいた炭酸飲料のペットボトルの隣に、まだ開いていない牛乳パックが並んでいる。取り出してすぐに日付を確認した。三月十日。ちょうど、四か月前。
 パックの上部を広げて白い液体をシンクへ落として、流した。
 排水口がその全てを飲み込んでいく様子を見詰めながら、目に映るものとは全く別の……そう、まるで違う物思いに僕は耽った。


 玄関のドアがひらく音がした。廊下を進む足音が近付き、そして止まり、リビングの扉が押された。
「おかえり、恵人(けいと)」
 ソファに寝転がって雑誌を読んでいた僕を、扉の取っ手を持ったままの兄が驚いた顔で見た。
「なんだ、椿樹(つばき)いたのか」
「靴見ればわかるじゃん」
「玄関散らかってんだから、わかんねーって。お前、バイトは?」
「シフトが店長の勘違いだったみたいでさ、急に休みになったんだ。……お客さん?」
 起き上がって兄の後ろの人影を確認する。
「ああ。大学の……えーと、友達。き、美好(みよし)さん。あれは俺の弟ね。椿樹」
 兄が紹介しながら横へ一歩ずれると、その人が現れた。
「こんにちは」
 丈が短めのワンピースを着た人は、ひとつに結わいた長い髪を揺らして僕に頭を下げた。
「……どうも」
 雑誌を閉じて、形だけの挨拶をした。
「椿樹。俺、汗かいちゃってさ。部屋で着替えてくるから、悪いんだけど何か飲みもん出してあげて」
「いいよ」
 テレビをつけて音量を少し上げた。知らない女と二人になる居心地の悪さを誤魔化す為には仕方がない。
「ソファに座って待っててくれる? 本は着替えたらここに持ってくるから」
 恵人が指差した僕の方に彼女が近づいて来た。同時に僕は学校鞄をソファからどかして床に置き、すぐそこにあるキッチンに向かった。
「お邪魔します」
 すれ違いざまに彼女が呟いた。

 食器棚からグラスを取り出し、氷を三個入れた。テレビから夕方のニュースが流れている。梅雨は明けたらしく、明日から夏日が続くようだ。
 麦茶を注いだグラスを、彼女の前にあるローテーブルに置いた。
「どうぞ」
「ありがとう。いただきます」
 小さな口元は幼くすら見えるのに、トーンの低い柔らかな声にギャップを感じた。それとは別に、何かが気に掛かる。
「あの」
「はい?」
「高校生、だよね。何年生?」
 立ち去ろうとした僕の制服を見上げて、彼女が言った。
「三年です」
 今度は僕が彼女を見る。派手ではないけれど、地味というわけじゃない。それなりに化粧をした顔、嫌味の無い香水をつけ、髪は濃いめの茶に染めている。どこにでもいそうな、大学生なのに。
 ソファに浅く腰掛け、涼しげな色のワンピースから出ている、傷の無いつるりとした両膝。そこに視線を落として、ようやく気が付いた。
 その膝は、無理なく自然な形で寄り添っていた。
 汗を掻き始めたグラスを取る指先にしても、口へ流し入れるゆったりとした動きや、うなじから背中へヴァイオリンの弦でも仕込まれているのではと思わせる姿勢の良さからも、滲み出る育ちの良さが嗅ぎ取れた。その場限りの造られたものでは、ない。
「そう。じゃあ、一個下なんだね」
 品良く微笑んだ唇は、一体どんな時にだらしなくひらくのかと、下卑た想像をして笑みが漏れた時だった。
「あんまり、恵人くんと似てない、ね?」
 癇に障ることを言われ、自分の部屋へ行くのをやめた。
「どのへんが?」
 一歩踏み出し、彼女の頭上から言葉を落とす。
「どのへんって、顔とか声とか、雰囲気とか」
 胸がざわつき、喉の奥がひりひりした。
「もっと具体的に言ってよ」
 彼女の座るソファへ、弾みをつけて腰を落とした。予想した通り、隣に座った僕を目を見ひらいて見詰めている。けれど、一瞬動揺したように開いた唇は、すぐに閉じられてしまい、元の高潔さを取り戻していた。そのことが僕を再び苛立たせる。気に食わないな、その表情。

 一度座った位置から、さらに近くへと座り直す。香水だけじゃなく、夏の匂いが混じっているのがわかる、そんな距離まで。
「教えて。僕、恵人と違って頭悪いから、わからないんだ」
「顔は全部、違うよ」
「あとは?」
「声は恵人くんの方が高いみたい」
「それで?」
 すぐ傍にいる僕から視線を外せず、グラスを握りしめて震えないようにしている。ああ、そういう顔の方が、さっきよりもずっと可愛いじゃない。
「椿樹くん、の方が……線が細い」
 僕の名前を呼んだ声が、まるで親に許しを請う子どものようだった。私は何も悪くないのに、何で怒ってるの? 勝手に脳内で再生された知るはずの無い幼い彼女の声は、何故か僕の怒りを静め、それは瞬時に興味へと変わった。
「名前、なんていうの?」
 こんなこと、今まであったかな。気に入らないのに、可愛く見えるなんて。
「え?」
 だから。
「美好、の先」
 兄が連れてきた、この人のことを。
「教えてよ、下の名前」
 兄の知らない場所で、知りたくなった。
「……き」
 ゆっくりと差し込まれた鍵に反応した扉のように、僕が与えた飲み物で光った唇が半開きになり、彼女はその名を口にしようとした。

「悪いな」
 兄がリビングのドアノブを向こう側から動かした瞬間に、彼女から離れて立ち上がった。リビングに入り、彼女が持つグラスを見た恵人が大きな声で言った。
「あ、俺も飲も。ここエアコン効いてるなー」
「恵人」
 兄を追って再びキッチンへ入る。パントリーの前に立つと、キッチンカウンターの向こう、少し離れた窓際で、ソファに座る彼女の後姿が見えた。テレビの音量はそのままだ。
「どうした?」
 冷蔵庫から麦茶を取り出した恵人は、食器棚から取り出したグラスに並々とそれを注いだ。
「最近じゃ珍しいね、お客さん。高校の頃は恵人の友達よく来てたけど、大学入ってから初めてじゃない? 彼女?」
 小声で話しかける。
「ばっ、ちーがうって。彼女が探してる資料がなくてさ、俺が持ってるって言ったら、今すぐ貸してってなって、それで来ただけだよ。それだけ」
 紅潮した頬を悟られないようにと、恵人は顔を逸らして麦茶を飲んだ。素直で優しく、隠し事の出来ない兄の性格は、誰からも好かれていた。僕が幼い頃から、ずっと。
「牛乳パックが入ってたよ。開けてないやつ」
「牛乳パック?」
「賞味期限、四か月前の」
 僕の言葉に眉根を寄せた兄は、飲み干したグラスをシンクに置いた。
「意外と臭わないもんだね。別に腐ってなかったのかも。パックは洗って切りひらいて、そこ」
 水切りカゴに立てておいたそれを横目で確認した恵人は、僕を振り向き、その瞳に憐れみの色をのせた。
「お前、まさか飲んでないよな?」
「飲むわけないよ。小学生じゃあるまいし」
 肩を竦めて困ったように笑って見せた。
「だな」
「うん」
 尚も確かめるように目で問いかけた恵人に答える。笑い話にもならない滑稽な思い出。嫌な味を甦らせようとする唾液を、静かに飲み込んだ。
「最近ひどいな。今度俺も病院付添いで行くわ。叔母さんばかりに任せるのも悪いし」
「もちろん僕は行かない方がいいよね?」
「ああ」
 溜息をひとつ吐いた恵人は、彼女のいるリビングへ戻った。

 兄のすぐあとにリビングへ入り、読みかけの雑誌を掴み、床に置いた学校の鞄を拾い上げた。
「椿樹、今日母さんと会った?」
「ここ二、三日、声も聞いてないけど。でも恵人が帰って来たから、そろそろ部屋から出て来るんじゃない? じゃあ、ごゆっくり」
「お前、部屋にいんの? 出かける?」
「いるよ。都合悪かったら出るけど」
「何だよ都合って」
「声、聞かれたくなかったら外に出るけど、ってこと」
 わざとおどけて見せた。日に何度も、このまがいものを積み重ねていくのが、僕の日課のようなものだった。僕はいつまでも兄にとって、良い、弟だ。
「だから、そんなんじゃないって。これ飲んだらもう帰るんだから、あとは送ってくるだけだよ。な?」
「……うん」
 兄の隣に座っていた彼女は、空のグラスを手にしたまま僕を見詰めていた。恵人の照れ笑いに釣られることなく、ただ僕を。それは数秒の出来事に過ぎなかったけれど。

 不意に。
 あの暗い場所のどこかで、しじまの片隅で、幽かな何かが落とされた気配を感じた。




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