恋の一文字教えてください

5 桜貝色のビーチサンダル



 初の休日だから、昼くらいまでゆっくり寝てようと思ったんだけど、鳥の鳴き声が東京に比べて尋常じゃなく、ぱっちりと目が覚めてしまった。蝉も元気に鳴いてるし。
「う〜ん……涼しい〜」
 布団の上で伸びをする。窓から入る朝の空気が清々しくて気持ちいい。

 昨日、一昨日と柚仁の指示通りに何とか家事をこなし、昨夜は店番のことも教わった。
 料理は……かなり適当に作ったはずが、彼は意外にもひとつも文句を言わずに完食してくれた。幸香姉から借りてきた料理本を熟読して、もっと研究しよう。
「六時過ぎだけど、起きちゃおっと」
 後で昼寝すればいいか。時間を確認したスマホを折り畳みのローテーブルに置き、布団を畳む。
 Tシャツとデニムのショートパンツに履き替え、階下に下りた。物音はしない。柚仁ってどこで寝てるんだろう。起こしちゃ悪いので廊下をそろそろ歩き、洗面所へ向かった。
「散歩でもしようかな〜。まだ海見てないし」
 歯を磨き、顔を洗って呟く。
「……うーす」
「きゃ!」
 後ろから声を掛けられ、思わず悲鳴を上げてしまった。
「あ、おはようございます」
「そんなに驚くことねーだろ。休みなのに早いな」
「何か、目が覚めちゃって」
 横から歯ブラシと歯磨き粉を手にした柚仁に、どきりとする。なぜか作務衣姿の彼を思い出し、また顔が熱くなった。あーもう何なの、これ。
「まぁちょうどいいや。俺出掛けるから」
 髪ぼさぼさだ。寝癖つきやすいのね。
「え、どこに?」
「海まで散歩」
「私も行きたい!」
 歯ブラシを咥えた柚仁が、嫌そうな表情で私を見た。
「……一緒に?」
「まだ海を見てないから行きたいな〜と思ってたんですけど、道がわからなくて」
 ガシガシと磨きながら鏡越しに私の顔を見ている。見ているというか、睨んでいるというか。
「駄目なら別にいいんですけども」
「……」
 口を漱いでから、顔をバシャバシャと洗っている。返事を諦めかけたその時、彼がぼそりと呟いた。
「すぐ出るからな。玄関で待ってろ」
「やった、ありがとうございます!」
 海までの近道がこれでわかる。一人でぶらぶらしてもいいんだけど、朝早いからちょっと怖かったんだよね。
 急いで屋根裏部屋に上がり、押入れにしまっておいたビーチサンダルを取り出した。
「これこれ」
 ビーサンで歩き回るのって、海の傍っぽいじゃん? 引っ越し直前に買った近所の特売品。色がちょっと気に入らないんだけど、百円だったから贅沢言わない。つばの広い麦わら帽子を被り、ポケットへスマホを入れた。

 玄関を一緒に出た柚仁はTシャツにハーフパンツ、そしてやっぱり下駄だった。そこは外せないのね、拘りなのね。
 花岡家の門構え前にある路地。海とは逆の方面は緩やかな上り坂になっていて、天辺からは海が見渡せそうだった。
 涼やかな空気に包まれた町は静かで、犬の散歩をする人やジョギングをしている人が、たまにすれ違うくらい。ゆったりした雰囲気が心地良かった。
 カラコロと下駄の音を鳴らして進む柚仁は早足だった。慣れもあるんだろうけど、ついていくのが大変。というか……どうしよう。ビーサンが擦れて足が痛くなってきた。
 とりあえずは我慢して、その背中を追いかける。一度もこちらを振り向いたりしないところは流石だよ。私のことは本当、どうでもいいんだろうな。
「あ」
 川沿いを曲がり、潮の香りを強く感じた瞬間……海が現れた。
「わぁ、綺麗……!」
 朝の早い夏の海は真っ青ではなく水色がかっていて、穏やかな白い波がきらきらと輝いていた。
 横断歩道を渡り、砂浜に近い道路際の歩道を歩いて行く。砂浜には犬の散歩をしている人たちが数人と、サーファーが何人か海に入る準備をしているだけ。海の家も静まり返っている。
 潮風を全身に受けながら、立ち止まって海を眺める柚仁へ質問をした。
「結構泳ぐんですか?」
「真夏の海は入らない」
「なんで……?」
「夏休みの湘南なんて地獄だぞ? どこもかしこも人人人で、ろくに泳げやしない」
「まぁ、そうですよね」
 この道路って鎌倉と江の島に続いている海沿いの道だよね。車で走ったら気持ちいいだろうな。
「つっても夏休み直前の暑い日に少し入るだけだな。砂が体に付くの苦手だし」
「私もプールは入りますけど、海では泳がないです、そういえば」
 ふーん、と興味無さそうに返事をした彼と、しばらくの間ぼんやり海を眺めていた。
 こんなに近くで波の音を聴くのって本当に久しぶりだ。時間の経過と共に、空と海の色が青く青く染まっていった。

 何も言わずに歩き出した柚仁に、慌ててついていく。もう行くぞ、くらい声掛けてくれてもいいのに、何だかなぁ。
 進んだ先の信号で海沿いの道路を渡り、海とは反対方向へ進んだ。それにしても足が……指の間と甲の痛みが限界に近くなってる。我慢できずに、ずりずりと足を引き摺らせて歩いていると、柚仁が私を振り向いた。
「俺はそこの店で珈琲飲んで帰るから」
「あ、そうなんですか」
「お前は?」
「私、お金持ってないんで帰ります」
「あそ」
「はい。それじゃあ失礼します。連れてきてくださってありがとうございます」
 お辞儀をして、そそくさとその場を離れた。足引き摺ってるの見られたら、益々嫌がられそう。自分からついていきたいって言ったクセに、このざまだもん。道行く人も増えて来たし、もう怖くない。
 本当は私も珈琲飲みたかったな。というか、ここからどうやって帰ればいいんだろう。何となく、こっちかなという方角へノロノロと歩き出して、ポケットのスマホを探った。
 突然、カラコロと下駄の音が後ろから聴こえた。え、まさかの柚仁? それはないない。一応振り返ると、彼が目の前にいた。
「ったく、面倒くせぇ女だな!」
「ひっ、あ、わ……ごめんなさいっ」
 叩かれるのかと思って身構えたその手を、ぎゅっと掴まれた。
「給料から引いてやるから、一緒に来い」
「え」
 手、繋いじゃってるんですけど……。足痛いのなんて一瞬で吹っ飛んじゃったよ。ずんずんと歩く柚仁に引っ張られて、よろめきながらお店に入った。

「いらっしゃいませ〜。あ、花岡先生」
「おはようございます」
「おはようございます。お好きな席へどうぞ〜」
 柚仁の馴染みのお店? 窓の大きい明るい店内が素敵。ずいぶん朝早くからやってるんだ。珈琲の香りに混じって焼き立てパンの匂いも漂っている。
 海が少し見える窓際の席に着いた。
「座ってりゃ、少しは良くなるだろ」
「……すみません」
 私の足のこと気付いて、気を遣ってくれたの? 彼の意外な言葉に戸惑った。
「お待たせしました」
 オーダー後、無言でいた私たちの前に、口の広い瓶に入ったアイスコーヒーが運ばれた。最近、このスタイルを雑誌でよく見かける。
 肌の色が黒く背の高い、髪も日焼けした店員さんは、いかにも海の男って感じ。サーフィンもやってそう。
「珍しいですね花岡さん。可愛い女の子と一緒とか」
 からかうように笑いながら店員さんが言った。いえいえ、ただの家政婦なんです。と、柚仁が答えるのを期待したんですが。
「可愛いってさ」
 そう不機嫌な声で言われても、何て答えればいいの。家政婦だってことを知られるのが嫌だとか?
「……はは」
 苦笑いする私に、店員さんがにっこり笑った。真っ白い歯が眩しいです。

 美味しいアイスコーヒーで満たされた私たちはお店を出た。
 しかし……50メートルも進まない内にまた痛くなってきたよ。
「柚仁」
 声を掛けた途端に舌打ちをされた。……怖いんですけど。
「先に帰っててください。私、マイペースで行きますんで。連れて来てくれたのに、ごめんなさい」
 あ、そう。って、さっさと置いて行くと思ったのに。
「乗れ」
 立ち止まった柚仁が私の前にしゃがんだ。
「え、え?」
「ちんたら歩かれると逆に恥ずかしいんだよ。いいから乗れ」
 おんぶってこと!? そっちの方が恥ずかしいんじゃ……!
「早くしろよ」
 逆らったら余計に彼の機嫌が悪くなりそうで、お言葉に甘えて、彼の肩に掴まり体を寄せた。それを合図に私を背中に乗せた柚仁が立ち上がる。おんぶって、こんなに体が密着したっけ……?
「やっすい、使い捨て目的みたいなビーサンなんか買うから駄目なんだよ」
「……ですよね」
 叱られつつも別のことばかり気にしていた。
 私はショートパンツだから、柚仁の手が直接太腿の裏に触れていて、今さらだけどすごく恥ずかしい。……重いだろうし。
 私をおぶって歩くリズミカルな下駄の音が体に響く。歩く速度は家を出た時と変わらないように感じた。
「下駄でこういうこと出来るって、すごいですね」
「お前にも買ってやろうか、下駄」
「え、えーとそれは、遠慮しときます」
 海に出るまで早足で追いかけていた背中が、今目の前にある。柚仁の肩に乗せた私の手のひらに、Tシャツ越しの彼の熱い体温が伝わった。そっと顔を傾けると、彼の頬に流れ落ちる汗が見えた。
 小さい頃に、こんなことがあったような。おじいちゃんではない、お父さんでもなく……大人ではない年の近いお兄ちゃんみたいな存在の人に。って、そんなことあるわけないか。私には姉が二人いるだけで従兄弟もいないんだから。


「遅いなぁ、どこまで行ったんだろう」
 葉山に行くと言って柚仁が出掛けてから、数時間。時計の針は二時半になろうとしていた。今朝おんぶをさせてしまったお詫びとして、お昼ご飯を作って待っています、と言ったんだけど……戻って来ない。もうどこかで食べちゃったのかな。
 和室のテーブルに置いた、土鍋で炊いたおこげご飯の塩むすび。ラップのかかったそれを見つめて溜息を吐く。あとは肉じゃが、胡瓜とミョウガの酢の物にお味噌汁を台所に用意してある。先に食べちゃおうかな。
 と、思ったその時、玄関の引き戸が開き、どたどたと廊下を歩いてくる足音が近付いた。帰って来た! 座っていた体の向きを変えて彼を迎える。
「お帰りなさい」
「ん」
 柚仁が袋を差し出した。
「? 何ですか」
「開けてみ」
 どかっと座り、胡坐をかいて私を見ている。袋の中身を取り出すと、そこには。
「あ、ビーチサンダル!?」
 色は淡い桜色で鼻緒が白。
「可愛い色……! 桜貝みたい」
「げんべいのは、お前が履いてたやつよりずっと履きやすい筈だ。そっちの袋も開けてみ」
 言われた通り、もう一つあった紙袋を開けてみる。手に触れた柔らかなものを引き出した。
「か、可愛い〜! これは……鹿?」
「犬だろ。犬飼ってる店のロゴだから」
 首回りがグレーで、全体はエメラルドグリーンのタンクトップ。真ん中に鹿に似た犬のロゴが入っていた。形が女の子らしくて、すごく可愛い。
「家政婦の制服にな。着ろよ」
「こんなに可愛いの着て仕事できませんよ! お出かけ用にします」
「勝手にしろ」
 ボトムはパンツでもスカートでも何でも合いそう。
「あの」
「ん?」
「これを買う為に葉山へ行ってたんですか?」
「俺も欲しいのがあったから。お前のはついでだ、ついで」
「お金はコーヒー代と一緒にお給料から引いておいてくださいね」
「いいよ。それはやる」
「……え」
「コーヒー代はもらうから、それでいいだろ。その代わり、しっかり働け」
 ぶっきらぼうに言い放つ彼の言葉が、とてつもなく優しく感じるのはなぜ……? 私のことはどうでもいいんだなんて、卑屈に思った自分が恥ずかしい。胸に何かが込み上げ、なかなか言葉が出て来なかった。
「何だよ」
「あ、ありがとうございます……! 大切に着ます。ビーチサンダルも大事に履きます」

 どうしちゃったんだろ、私。
 これを着て桜貝色のビーチサンダルを穿いて……柚仁と一緒にどこかへ出掛けたい。そんなこと思うなんて。