100titles [036]

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鳥籠




 あっという間に群青色へ染まり始めた夕暮れ時の町を、二人乗りをした自転車で通り抜けていく。頬にあたる冬に近い秋風は澄み切って、もう随分と冷たい。
 緑が増えるにつれ街灯が少なくなり、何度目かの緩やかな坂道を上りきったその場所で、ブレーキをかけたあなたがここだと教えてくれる。

 古い三階建てのコンクリート造りのアパートメント。
 傍に立つ大きな銀杏の樹には幾重にも重なる葉の黄金が、暗がりの中でも明るさを携え、そっと建物にもたれ掛かっていた。
 石段を四段上ると、入り口には木製の格子にガラスがはめ込まれたドア。見上げると外灯の電球には、平たく丸いホウロウ製の可愛らしい傘がついていた。

 灯りが、傷と埃でうっすらと曇ったガラスの向こう側を浮かび上がらせている。そこには無造作に置かれた竹箒が二本とブリキの塵取りがひとつ。横には部屋へとつながっている筈の薄暗い階段。
 ぎぎいと、彼が手をかけたドアが音を立てる。
 今時珍しいことに、ノブは鈍い色の真鍮、分厚い木製部分は水色に近いグレーに塗られた隙間から淡いグリーンが覗き、幾たびか塗り替えられたらしいことがわかる。もしかして……階段の入り口ごとにドアの色が違うのかしら。緊張していた私をその期待がほぐしてくれた。
 中に入ろうと一歩足を踏み出した時、別の棟から微かに音色が届いた。

「……チェロね」
「今日は、愛の挨拶が何度か聴こえてくるんだ」
「素敵」
「今の僕達にぴったりだと思わない?」
 彼は右手で私の荷物を持ち、左手で私の右手をしっかりと握り階段を上がった。

 二人がやっと通れる幅の、いくつも染みのあるコンクリートの狭い階段。踊り場には裸電球がついている。
 初めて訪れたはずなのに、その匂いは幼い頃に連れて行かれた、蔦の絡まる古くて大きい青山のアパートメントを思い出させた。階段の先に見えた小さな部屋は、何箇所かがお店になっていてとても驚いたのを覚えている。
 ――同時に浮かんだ父母の顔を、慌てて心の中のビンに詰めて蓋をした。いくら隠しても透けて中身は見えるのに、それには気付かない振りをして。

 小さな荷物と共に、あなたに連れられてこの部屋へやってきた。

 重たい鉄製のドアには新聞が入る横長の穴が空き、その下には小さな箱のようなものが付いている。何を入れるんだろう。ドアは外側も内側もミント色のペンキで隅々までしっかりと塗られていた。靴を三足も置いたらいっぱいになってしまう玄関から中へ入り、彼が電灯を点けるとオレンジ色に輝いた部屋がひとめで見渡せた。

「ごめん、狭くて」
「ううん、全然そんなことない」
「気に入った?」
「とっても。私こういうところ好きよ」
「良かった。僕も好きなんだ、古い建物」

 一人暮らしをしていた彼は都心から離れ、郊外にあるこのアパートメントを選び引っ越した。私達が今こうして二人でいることを、まだ誰も知らない。
「駅からは遠いけど、前に比べて家賃は随分安くなって助かったんだ。ちょうど前の部屋が更新時だったしね」
 優しく微笑んだ彼を申し訳ない気持ちで見詰めていると、何かを勘違いしたのか慌てて付け加えた。
「大丈夫。風呂もトイレもついてるし、新しいのに替えられてたよ。こっちも……びっくりするほど古くて狭いけど」
 はにかむあなたを今すぐ抱き締めてあげたい衝動に駆られるけれど、そんなことをしたらきっと私は何を言ってしまうかわからない。だから今はただ一緒に笑うだけ。

 部屋の一角にある、ガスコンロが置かれたキッチンの壁には、玄関のドアとお揃いの色をした細かいタイルがきちんと貼られていた。横には彼が以前から使っている小さな冷蔵庫とその上には温めるだけのレンジ。
 飴色の床板には、そこかしこにたくさんの傷が付いている。壁だけでなく梁や柱、窓枠も全て乳白色のペンキで塗られていた。前の住人が置いて行ったという、アルミの電球の傘がこの部屋によく似合っている。その下に並んで座ると、床を手のひらでさすりながら彼が言った。
「ここさ、自分達で好きなように塗り込んでもいいんだ。釘を使って壁に棚を付けてもいい。自由にさせてくれる」
「自由なのね」
「そう、自由」

 あなたのことが好きで好きで、ここまでついてきた。もう、誰かに反対や邪魔をされて傷つくことなんて、ない。
 私より二つ年上なのに、ずっと幼く見えるその横顔と柔らかい髪が好き。いつも遠くを見て、何かを追いかけている瞳が好き。寂しげに見えるその背中に、いつだってしがみついて温めてあげたい。

 だからずっとここに閉じ込めておいて欲しい。
 どこにも行きたくない。傍に置いて欲しい。

「鳥みたいなこと言うね」
「……鳥でいい」
「じゃあ、ここは鳥籠だ」
「うん、飼ってくれる?」
「いいよ。水もごはんもマメに取り替えてあげなきゃね」
 彼は楽しげに私の顔を覗きこむと、ふと何かに気付いたように目を丸くした。
「でも……僕も鳥籠の中にいるんだから、どうしようか」
「ほんとだ。じゃあ、二人で飼われるの」
「誰に?」
「ええと……管理人、さん?」
 私の言葉へ大げさにため息を吐いた彼は肩を竦めた。
「全く期待できないよ。ここに来て二週間になるけど、いつもどこかに行ってしまって全然見つからないんだ。あっという間に僕達なんて忘れられて、飢え死にだね」
 すぐ傍で視線を合わせた後、同時に吹き出して、お互い肩を寄せながら笑った。

 前の部屋であなたが使っていたパイプのベッドには、枕が二つ並んでいる。ひとつは一目でわかる真新しいもの。ベッドの下には、無造作に積み上げられた分厚いたくさんの本と雑誌。小さな平机にはメガネがひとつ、古いノートパソコンとあなたの大事な勉強道具。いつもお気に入りで着ている、くたくたになった白い麻のシャツが壁に掛けられていた。元々少なかった彼の荷物は、以前見た時よりもさらに減っていた。それもきっと全部、私の為。

「……邪魔、しないようにするね」
「何も言わずに、勝手に飛んでいったらダメだよ?」
 彼は緩く巻かれている私の栗色の髪を、ほんの一掴み手に取って言った。
「自分から、飛び込んだんだもの」
 そんなこと思いつきもしない。目を伏せる私の髪へ顔を近づけた彼の声が優しく伝わる。
「屋上があるんだ。明日そこから周りを見よう」
「ほんとに? ねえ、来る途中の小学校の側に駄菓子屋があった」
「うん。そこも行ってみようか」
「100円までね?」
「遠足より少ないな」
 髪から手を離した彼がクスリと笑った。
「図書館もあるのね」
「寒い日も暑い日も、昼間はそこでしのげる」
「いい考えだわ」
 彼もまた、彼の生き方を理解してはくれない両親の元を二年前から離れていた。
「それからパン屋さんにね、アルバイト募集の張り紙があった」
 私の顔を見詰めたまま、彼はベッドに座った。軋む音と共に、たくさんの皺がシーツに出来る。
「お友達に聞いたの。パン屋さんで働くとね、残りのパンをくれるのよ。そしたら二人で分けっこできるでしょ?」
「……」
「大丈夫。自分の食べる分くらいは稼がなくちゃ」
 明るい声で彼に言い聞かせる。うんうんと頷いた彼は出窓へ目を向けた。

 このアパートには音大や美大の学生、卒業生だけでなく、脚本家や作家、写真家など目の前にいる彼の様に、働きながら何かを目指し勉強している者が多く住んでいた。実際彼は、この場所を演劇に携わっている知人から教えられた。弦楽器を奏でる住人らの棟は別にあり、練習が許可されている時間内にはそこから音楽が届く。

 窓の隙間から今度はヴァイオリンの甲高い音色のカンパネラが、途切れ途切れに部屋の中へと入り込んで来た。

「皆、上手なのね。たくさん練習して」
「この国に住んでいる限り、文化じゃ食えないってわかっていてもね」
「……」
「何の価値も与えられず、金だけが湯水の様に消えていく」
 視線を窓へ向けたまま淡々と紡がれる彼の声が、痛くて苦しい。気付かれないようそっと息を吐き出したのに、すぐさまそれは彼へと伝わっていた。
「君が傷つくことないよ。……皆ここよりもずっと狭い、本当の鳥籠の中に住んでる」
 片膝を抱きながら振り向いた彼の瞳を見つめて、必死にその言葉を受け入れる。
「けど、それを選んだのは最高の贅沢で、その贅沢を得る為の代償だとは思っているけどね」
 二人の間を今にも消えそうなヴァイオリンの鐘の音が切なく通り抜け、彼の表情が私の胸をきつく締め付けた。
「私、どんなことがあってもずっと傍にいるわ。だから……追い出さないで?」
「そんなことしないよ。傍にいて欲しいって思うのは僕の方だから」
 温かいその手は、子どものように縋ろうとする私の頬を撫でた。

 いつか、と彼が呟いた。
 私を見つめるその視線の先には、私の心の奥にある隠せない丸見えの瓶があるのがわかる。今は、そう思ってくれるだけでいい。彼の精一杯をただただ、この体全部で受け止める。
「連絡だけはするんだよ? きっと君が思っている以上に心配してる」
「もう、関係ないもの」
 全てを捨ててここへ来た。彼に会うことはもちろん、声を聴くことすら許してはくれない父と母も。
「それは駄目だ」
「どうしても?」
「どうしても。いいね?」
「……わかった。でも、この場所を教えるのはいや。いいでしょう?」
「……」
「決めたの、私」

 立ち上がり、ミルク色に塗られた木枠の出窓へ近寄ってみる。そこには何の模様もない質素な木綿のカーテンがかけられていた。彼が用意してくれたもの全てが愛しく感じる。
 その場にしゃがみ込み、窓際に置いた鞄のファスナーをゆっくりと開いていく。
「これから寒くなるでしょう? お揃いのカップとね、コーヒーと紅茶をたくさん持って来たの」
 角の丸くなった平机の上に二つのカップを並べると、電球の光が頼りない影を落とした。
「あとは一緒に掛けられる大きなひざ掛けと、自分の着替え。荷物を作っておくだけで疑われそうだから、準備もできなくて……。あなたにこれしかあげられないの。ごめんなさい、私」
 ひざ掛けを差し出し、座ったまま振り向こうとした私の後ろから彼の両手が伸び、抱き締められた。
「何もいらない。君がいてくれればいい」
 彼の手に強い力が加わり、耳元には苦しげに囁く声が響く。
「僕も君に、これ以上何もあげられない」
「……もうたくさん、もらってる」

 さっきからずっと、迎えに来てくれた時からずっと、何度も何度も込み上げる涙を気付かれないよう飲み込んでは、胸の奥に生まれた大切な思いを壊さないよう、大事に寄り添って温めている。
 こんなにも美しいものをどうして捨てられるだろう。何故皆馬鹿げていると決め付けるのだろう。彼という人に出会っただけで、味わったことのない幸せを手に入れることが出来たのに。あとはもう、何もいらない。
 例えその先は見えなくとも、今はただこうして銀杏の葉の様にあなたの傍に寄り添って、そっと息をしていたい。

 低い位置にある出窓へ二人並んで腰を掛け、カーテンを開けて夜空を眺める。
 静かな夜に浮かぶ三日月が流れ星に気が付いて、遅れを取らないよう急いで瞬いた。

 いつの間にか胸に沁むヴァイオリンの音はどこかへ消えて、入れ替わりに届いたチェロの音色が、ここへ到着した時と同じ様に再び二人を優しく包み込んだ。









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