ウミネコの声で目が覚めた。客船の丸い窓から覗く海原は、朝日に照らされ眩く輝いている。
 昨夜の交わりの激しさからか、俺の腕の中で目覚める様子の無い蓉子の寝顔見て、頬が緩んだ。子どもたちはツネとミツコと共に廊下を挟んで向かいの部屋にいる。皆もまだ、眠っているのだろう。
 ようやくこうして客船に乗る機会が訪れ、彼女との約束を果たすことが出来た。
 幼い蓉子と出逢い、再会し、結婚して九年が経とうとしている。蓉子を幸せにすること、その幸せを守ること、いつか客船に乗って外国を旅することを、彼女と何度も指切りした。そしてもうひとつ。蓉子が忘れているだろう約束を思い浮かべる。
 灰色の雲が重く垂れこめた夏の日。
 盆帰りをした蓉子を迎えに行く途中で、雨が降りだした。母親の墓参りをした彼女は強い雨に打たれ、橋の上でずぶ濡れになっていた。休ませるために訪れた待合茶屋で甘いキャラメルを分け合いながら、俺は深く傷ついていた蓉子に誓ったのだ。
 ――あなたに、二度と深い悲しみを味わわせないようにする、と。
 その具体的な機会を作るため、彼女が女学校を卒業する直前のとある日、俺は友人宅の夜会へ参加することとなる。

+

 東京の銀行家、房田大三郎氏の大邸宅で夜会がひらかれた。招かれた俺は房田氏と主賓へ挨拶後、会場の中を様々な人物たちと会話を交わしつつ、蓉子の父親……薗田家子爵である薗田光高氏に近づいた。
「お義父上、お久しぶりです」
「おお、西島殿ではないか。偶然だの。怪我の具合はどうだ」
「その節はご心配をお掛けしました。今はほとんど支障はありません。お義父上も腰の具合はいかがでしょうか」
「最近は調子がよい。このような場に参加できるまでになれたわ」
 髭を撫でながら、光高氏は大きな声を上げて笑った。
「それはようございました」
「蓉子はどうしている?」
「卒業前の勉学に励んでおりますので、今夜は一人で参りました」
「そうか」
「失礼ですが……そちらの御婦人は?」
 空々しくならないよう、俺は最新の注意を払って光高氏の隣にいる女に微笑んだ。話に聞いてはいたが、女と顔を合わせるのはこれが初めだ。
「梓乃と申します」
 女は俺と目も合わせずに小さく会釈をした。なるほど……厄介な女であることに間違いはなさそうだ。
 この屋敷の主、房田氏には息子が三人いる。そのうちの一人は俺と親友であり、薗田子爵とこの女は彼の招待でここへ招かれていた。勿論偶然などではなく、全てこちらの手筈通りである。
「先日、蓉子さんと籍を入れさせていただきました、西島直之と申します」
「あら、あなたが」
 ちらと俺を見た梓乃という女は、不満げに唇を結んだ。その意味は薗田家の家令、柏木から聞いている。妾の身でありながら、俺の薗田家への援助額に不満があると訴えているらしい。しかし金のことよりも……蓉子を苦しめた張本人であるということの方が、俺にとっては重大な問題だった。
「西島殿とお会いするのは初めてであったか」
「ええ」
 薗田子爵と梓乃が会話している間、もう一人招いていた人物をここへ呼ぶために視線を移そうとした時だった。
「西島様ではないか?」
「ご無沙汰しております、松永様」
 向こうからやってくるとは好都合だ。込み上げる笑いを抑え、今や俺の父も兄も見放している実業家に、薗田子爵と梓乃を紹介する。
「こちらは薗田子爵様です。以前、拙宅でお会いいただいた時に婚約者であった薗田蓉子さんの、お父上であらせられる方です」
「あなた様が! 横浜の西島家でお会いしましたが、御令嬢様は大変お美しい方でございました。私は松永と申しまして海運業を営んでおります。以後どうぞお見知りおきを」
「うむ」
 その後、薗田子爵が別の方々と挨拶している間に、つまらなそうにしている梓乃へ近付いた。彼女は全く社交的ではなく、かといって話しかけてくる者もいない様子だった。本当にこれで元芸妓なのかと疑ってしまうほどに愛想が無い。
「梓乃さん、いかがです。このような夜会は」
「そうね、御前様がもっとお連れくだされば、このような場に慣れるのも早いかと思いますけれど。なかなか、そうもいかないようで」
 金がないことを素直に口にしたくないのか、自尊心が余程強いのか。妾の分際も弁えずにこのような物言いをする女の言葉に、俺はゆっくりと頷いた。そして、離れたところにいる松永様へ視線を投げる。
「先ほどの松永様は海運業、とりわけ造船に力を入れていらして、一代で財を成した素晴らしい方なのですよ。西島家も一目置いている、大実業家です」
「それが、何か……?」
 俺の含み笑いに何かを感じ取ったようだった。
「俺の援助などよりも、ずっと贅沢をさせてくれるでしょうね」
「ど、どういう意味です」
「ここからは俺の独り言ですのでお気になさらず。容姿に劣等感のある彼は、正妻の他に美しい妾を欲しがっています。その方の為ならば財を尽くしても構わない、と耳にしたことがございまして」
 卑しい表情に変わった女の瞬間を見逃さなかった俺は、彼女に連絡先をしたためさせ、強欲な男の前に持って行った。
「松永様、一筆預かってまいりました」
 彼のずんぐりとした手に、畳んだ紙を渡す。
「これは……?」
「先ほどご紹介した薗田子爵の御手掛けの方からです。大きな声では申し上げられませんが」
 声を落とした俺に、松永様はごくりと喉を鳴らして注意深くこちらを見た。梓乃と同じ目の色に変わったことに虫唾が走る。
「いろいろとご不満がおありのようで、話を聞いてくださる優しい男性を探していらっしゃるようですよ。あなたの立派な風格や、品のある物腰を大変お気に入りのようでした」
「そ、それは、本当か?」
「本当でなければ一筆など書かれないでしょう」
 俺の囁きを聞きながら、彼は紙をひらいた。
「お、おお……!」
「後はあなたにお任せします。では」
 普段通りの笑みを投げかけた俺は、愚かな男から離れた。

+

 十年近く経った今も、あの時の彼らの顔が忘れられない。
 松永様の海運業は、俺の父と兄、そして俺の予想通り、数か月後に没落し困窮した。あの女がどうなったのかまでは俺の知るところではない。妾を奪われた蓉子の父親はその後夜会に出入りすることもなく、持病の腰痛が悪化し、この九年間、自宅で大人しく過ごしている。蓉子を苦しめることはこの先も、ないだろう。
「直之、様……?」
 俺の腕の中で顔を上げた蓉子が、寝惚けまなこで呟いた。潤んだ大きな瞳と、まだまだ若々しい、さくらんぼの様な唇が可愛らしい。言葉を発する前に吸い付きたくなる。
「何を、笑っていらっしゃった、の?」
「すみません、起こしてしまったか」
「きっと素敵な夢を見られたのね? 私にも、教えて……」
 白い肌の肩を抱き寄せて唇に接吻する。
「んっ……ん」
 彼女が身動きできないほどに強く抱き締め、答えの代わりに柔らかく生温かい口中を舐め尽した。
 教えて欲しいと言われても、本当のことを話したら、あなたはどんなお顔をされるだろうか。どのように思われるだろうか。戸惑いか、驚きか、それとも恐れと取られるか。そのどれをも味わわせたくはなくて、伝えることは躊躇われる。唇を離して、そっと額を合わせた。
「この先もずっと、あなたを悲しませないようにする為には、どうしたら良いかを考えていたのですよ」
「もう悲しみなんてどこにもありません。いつも直之様がお傍にいてくださるのですから」
 俺の首に両手を回した蓉子が、微笑みながら甘く吐息した。

 彼女の黒い髪に指を入れ、優しく梳いていく。
 葉山の別荘で出逢った後、英吉利へ留学した俺は、半年後に日本へ帰って、あなたを見失った。
 何かの偶然で兄があなたを思い出し、見初めたりなどしないようにと、早々に彼の正妻を兄に強く薦めたことも。薗田子爵を見つけてすぐから、手を尽くして他の婚約者候補達をあなたから遠ざけたことも。再会後は夜毎あなたを思い、自涜の快楽にお連れしていたことも。今さら伝える必要などない。
 接吻と愛の囁きに織り交ぜて、その心と身体に永遠に沈殿させることが出来れば、それでいい。
「後でリボンを着けましょうか。お小さいあなたが俺にくださった、白いリボンを」
「まだ、お持ちだったの?」
 はにかんで頬を赤くした彼女と笑みを交わす。清らかで可憐なリボンはどこに飾っても、今なおあなたにお似合いだろう。この旅の間に使い道を探るのも楽しいかもしれない。
 再び深く接吻をし、彼女の体を味わい始める。

 波の音が……ベッドの上で体を揺すり続ける二人と、どこまでも共鳴していた。





またいつか番外編が書けたらいいなと思います♪