書斎のドアを開け、大きな椅子に座る父の傍に近寄る。こちらを見てにやりと笑った父が、一旦窓の外へ視線をやってから告げた。
「直之、来週の土曜だが、長一郎と共に夜会へ行ってくれないか」
 贅沢過ぎるこの空間は、目の前にいる家の長を象徴しているかのように息苦しい。
「いや、参った。子爵家の夜会に招かれていたんだが、後から同じ日に公爵家の晩餐会に招かれてしまってな」
「では公爵家を優先させれば宜しいでしょう」
 葉巻を吸い込んだ父は、ゆっくりと煙を吐き出しながら、俺の答えに一見困ったふうな表情をした。しかしそれは勿論本心などではない。財閥とはいえ、いち平民の彼にしてみれば華族からの誘いが重なるなど光栄の極みであり、内心笑いが止まらないのだろう。
「まぁ、そういう訳にもいかんのだ。どこでどう繋がりが出来るか分からんからな」
 最近このようなことがある度に呼び出され、正直うんざりしていた。
「子爵家のお名前は」
「何と言ったかな。後で横山に聞いてくれ。場所は葉山だそうだ」
「葉山ですか。また随分と遠い場所に」
「別荘と言ってたかな。ついでだ、鎌倉の猪俣のところにも寄ってくれ。どちらも顔見せ程度で構わん。お前たちが二人で行けば、面目が立たぬということもないだろう」
 顔見世程度で良いのなら断ってもいいだろうに。心の中で溜息を吐き、自分の予定を変更する為の算段を考えた。
「直之」
「はい」
「お前、秋から留学の予定だったな?」
「ええ。半年ですが」
「お前が帰ってくる前に百貨店事業へ乗り出そうと思っている。いずれ、お前に任せるつもりだ」
「百貨店、ですか?」
「そうだ。こちらからも派遣するつもりではあるが、お前も欧州で有名百貨店の様子を良く見てきてくれ。いいな」
「……わかりました」

 自室の窓を目いっぱい開けると、樹々にとまった油蝉の鳴き声が部屋中に響き渡った。夏の盛りを肌で感じながら、文机の上に本を広げた。先月の初め、父の知り合いから欧州土産に頼んだ英吉利の児童書。暇を見つけては、英文の下に日本語訳を書き綴っている。
 西島財閥の長を父に持つ次男でもある俺は、将来を自分勝手に決められる身ではなかった。それは父の銀行を継ぐ予定の兄も同じだ。ならばせめてその狭い世界の中で誰にも不服を言わせないようにと、何でも身に付け、こなせるようにしてきた。
 学校の勉強と運動、それ以外の場所では乗馬やテニスなどの社交的なスポーツに西洋のマナー、立ち居振る舞い、ダンス。兄を越えてはならないことを踏まえつつ、何があっても良いように控え目に勉強を続けていた。英語だけは少々苦手な為、こうして原書を丁寧に読み込むようにしていた。

++

 鎌倉の帰りは、実業家の猪俣氏が出してくれた自動車で葉山へ。薗田という子爵家の別荘前まで送っていただいた。
 門の前で後ろを振り返った兄が目を細め、遠くへ視線を投げた。
「ほう、なかなか良い場所に建っているな」
「そうですね」
 夕陽が落ちたばかりの水平線が良く見える高台に佇んだ洋館。緑の濃い環境は山手に住む祖母の家を彷彿とさせた。
 入口のガス灯下で家令が恭しく頭を下げる。
「いらっしゃいませ。お荷物をお預かりいたします」
「ああ、お願いします」
「俺は必要なものが入っていますので結構です」
「かしこまりました」
 荷物を預けた兄が、こちらを見て呆れた声を出した。
「必要なものってお前、また本を持って来たのか」
「ある程度の時間を過ぎれば退屈ですからね。兄さんのところにはたくさん人が集まるでしょうが、俺は毎度暇を持て余していますから」
「西島家の時期当主に媚を売りに来るのは当然のことだ。ま、俺だって親父の話しかしないけどな。お前の周りには御婦人方が集まるのだからそれで良しとしろ」

 二階会場内で着席をし、食事が始まった。適当に挨拶を交わし歓談に相槌を打つ。適当なところで席を立ち、給仕が飲み物を作っている壁際のテーブルへ向かった。
「ウィスキイを」
「かしこまりました」
 すぐ後ろのテーブルに座る女性たちの話し声が届いた。
「あら、西島家の次男の方だわ」
「素敵な方よね。優秀だとお聞きするし、将来が楽しみだわ。お兄様よりもずっと見目が宜しくていらっしゃる」
「そうは思いますけれど、あの方は」
「母方の出なんて、そうそう関係ありませんわよ。宮様の中にもそういうお方はいらっしゃるではないの」
「お父上が宮様や華族の方ならまだしも、平民であれば尚更母の出を気にするのではなくて?」
「何をおっしゃるのよ。西島家といえばここ数年、押しも押されもせぬ財閥のお家。今後まだまだ繁栄を約束されているというお噂よ」
「お金があれば宜しいと。そうおっしゃるのね」
「あら、ほほほ。はっきりおっしゃること……!」
 わざと聴こえるように言っているのだろうか。
 父の代役でこのような場に訪れるようになってから数回。俺はその度、御婦人方の下劣なおしゃべりというものに辟易していた。愚かなことに、それまでは夜会に出席しても気付くことはなかった。父の傘の下では何も聴こえなかったのだろう。
 同じように席を立った兄の周りには人が群がっていた。先ほど兄本人が言ったように西島家跡取りに媚びを売るのは当然のこと。弟の自分がここにいる意味とは一体何なのか。

 馬鹿馬鹿しくなった俺は鞄を持って会場を抜け出した。使用人は少ないのか誰にも会わずに階段を下り、さらに廊下を奥へとゆっくり進んだ。薄暗い静かな空間を靴音だけが響いている。
 明治の中頃にでも建てられた洋館なのだろうか。細部にまで凝った造りが成されており、それらを見ながら歩くだけでも、退屈だった自分にはなかなか楽しいものがあった。

 庭へ通じる三段ほどの階段が見えた。椅子が並んで置いてある。灯りも点いているし、あそこでならゆっくり休めそうだ。
 その場所へ近付いた時、話し声が聴こえた。柱の陰に立って様子を窺う。
 椅子に座る少女と、その前にしゃがむ女中。あれは、この家の娘ではなかったろうか。下げ髪に白いリボンを着け、揃いのような白い夏用のワンピイスを着ている。
 子爵家のご令嬢……か。将来は全て良い方に決まっていて、何の苦労も知らずに過ごしているのだろう。
 せっかくいい場所だと思ったのだが仕方がない、別を探すか。踵を返そうとした時、少女の言葉が俺の足を止めた。
「お父様が知らない女の人に好きだとおっしゃっていたの。今日は、このお別荘にお泊りしなさいって」
 彼女たちからは死角になっているのか、こちらには気付かない様子だった。
「ねえ、タミ。どうして? お父様がお好きなのはお母様ではないの? 私、あんなことおっしゃるお父様は嫌。……嫌よ」
 はっきりとした口調は途中で涙声に変わっていた。
「姫様。御前様は奥様のことをお好きでいらっしゃいます。ですからご安心を」
「お母様のことがお好きなら、なぜ知らない方にもそんなことをおっしゃるの?」
「それは……」
 女中が口ごもる。俺は無意識にその女中とツネを重ねていた。いや正確に言えば、涙声の令嬢と自分を、だ。
「ごめんなさい、タミ。困らせたりして」
「姫様がお謝りになることなどございません。さぁ涙をお拭きになって。会場へ戻りましょう」
「行きたくない。今は……お父様のお顔を見たくないの」
「姫様」
「見たくないの……」
 令嬢は十くらいだろうか。会場で挨拶した時は、はきはきとした口調の利発そうな、華族の娘独特の雰囲気を持っていたが……
 父親である薗田子爵の行ないに涙を零す少女に胸が痛んだ。
 中学に入った時、自分の出を知り、苦しんだ自分と重なる。父には何人も妾がいた。まさか自分がその妾の中の一人の子、それも女中ではなく芸妓の子だなどと……心のどこかでわかっていたつもりでも、真実を突きつけられ、つらい思いをしたのは確かだ。

 頭を横に振り、鞄の中にある児童書を取り出した。
 表紙には少女が描かれているし、内容もそれほど難しいものではない。俺が書き込んだ日本語訳があるから読めるだろう。気を紛らわせる為に、一時凌ぎにでもなってくれれば良いが。
 渡す為に一歩踏み出そうとして躊躇われた。彼女は子爵令嬢だ。財閥家とはいえ平民でその上、母が芸妓である俺とは身分が違い過ぎる。卑しい出の自分の持ち物を渡すなど失礼に当たるだろう。しかし……
「直之、何してるんだ?」
「あ、兄さん」
 煙草を吸いに来たのだろう兄が、すぐ後ろにいたことも気付かなかった。
「いや、あのお方のご機嫌が悪そうなので、この本を渡そうかと」
 俺の視線を追って、少女に目をやった兄が笑みを浮かべた。
「……この家のご令嬢か」
 紙巻煙草の箱を取り出した兄は声を潜めた。
「しかしなるほど、個人的に子爵令嬢と繋がりを持っておくのも悪くはないな。真面目なお前が、たまには気の利いたことを思いつくじゃないか」
「そういうんじゃありません」
「いいから早く渡して来いよ」
「……」
 俺が兄と同じ立場だったなら、どうだろうと考えた。会場で御婦人方が話していたように、父親が平民である場合、母の身分で立場が変わることもある。正妻を母に持つ兄と、芸妓から妾に身請けされた女を母に持つ俺とでは、天と地ほどの差がある。
「全くもどかしい奴だな。俺が渡して来るから貸せ」
「あ」
 俺の手から本を奪った兄は少女に近付いた。悪いことをしている訳でもないのに身を隠すようにして、柱の陰からその様子を窺う。
 顔を上げた令嬢が嬉しそうに本を受け取った。俺のこの時の気持ちをどう表せば良いのか、わからない。複雑な気持ちに囚われた自分は、彼らから目を逸らした。

 あっさりと彼女に本を渡した兄が羨ましかった。俺が感じている卑屈さなど、兄は微塵も持ち合わせてはいないのだ。
 こちらへ戻って来た兄が白い布を差し出した。
「なかなか良いお嬢さんだ。自分のリボンを外して手渡されたぞ。お礼だそうだ、お前が取っておけ」
 上機嫌な顔で、先ほどの紙巻煙草に火を点ける。
「ま、どうせ俺たちのことは忘れるだろうがな。こちらは財閥とはいえ、彼らから見ればただの平民だ。おそらく今夜のことなど、気にも留めないだろうよ」
 離れた場所から、そっと彼女の横顔を伺う。頁を捲った少女の表情から泣きべそが消え、笑顔が生まれたことに安堵した。
 手のひらには……たった今まで彼女が着けていた白いリボン。
 これを見る度に、少女の横顔に重ねた自分を思い出すのだろう。


+++


 あの時の少女が、これから俺と夜会へ出掛ける為に身支度を整えていた。
「今日は、どのようなリボンを着けられるのか」
「急に、どうされたの……?」
 胸にネックレスを着けながら、妻がこちらを振り向く。椅子から立ち上がり、振り向いた蓉子に近付いてそっと抱き締めると、俺を見上げた彼女はその美しい華の様な顔に微笑みを載せた。
「直之様に買っていただいたものを着けます」
 返事をした彼女の顎を持ち上げ、唇に接吻した。
 白いリボンを見る度に思い出したのは、傷ついた少女の涙と、本を捲って生まれた笑顔。
 唇を離し、今度は広く開いたドレスの柔らかな肩に押し付けた。蓉子の体が小さく震える。
「直之様……」
「いつも、あなたの傍にいます。あなたの傍にいて、あなたの感じたことを、全て知りたい」
 ずっと気に掛かっていた彼女の笑顔を守る為に。いつでも、どんな時も……こうして。





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