お父様から結婚のお相手を告げられた七日後の今日、早速その方がお見えになる。
 今までは時間を掛けて物事をゆったりと決める父だったのに、その決断の早さに私とばあやは驚きを隠せなかった。
 父が出掛けた後、弟たちはすぐに寄宿舎へ戻った。一日置いて母の具合が急激に悪くなった。お医者様が何度も訪れ、その度に入院を勧められたけれど、私がお願いしても、ばあやと家令で説得を試みても、やはりお母様は入院を受け入れようとはなさらなかった。

 母屋から繋がる洋館へ移動する。
 お客様を迎えるのは一階の広い応接間。二階の客室で控えているようにと言われ、部屋の大きな椅子へ座った私は、サワが迎えに来るのを待っていた。
 今日の装いはばあやに相談し、爽やかな翡翠色の着物に決めた。母から貰った真珠の帯留めを付け、マガレイトに結った髪は大きなリボンを二つ着けている。
 部屋の壁際にあるベッドには皺の無い真っ白なシーツが掛けられ、いつお客様がいらしても良いように整えられていた。
 カーテンの開いた窓の外は薄曇り。心にかかる靄に似た陽気だった。溜息を吐いたと同時に扉をコツコツと叩かれた。
「どうぞ」
 窓に視線を置いたまま、のろのろと立ち上がって返事をする。後ろでドアのひらく音がした。階下から立ち昇ったのだろう珈琲の仄かな香りが、部屋の空気を僅かに揺らした。
「ごきげんよう、お姫様。……とでも御挨拶すればよろしいのかな」
 低い声に驚いて振り向くと、そこには見たこともない男性がいた。入口に寄り掛かり、こちらを見ている。
「……どなた? サワ! いないの!? サワ……!」
「お付きの女中さんには下がってもらいましたよ」
 上着の襟もとに手を置いて正した男は、顔を少し傾けて微笑んだ。
「初めまして。あなたの婚約者候補の西島直之(なおゆき)と申します」
 この人が……。私に返事をする間も与えず、男が言った。
「入ってもよろしいでしょうか?」
「このような部屋で初対面の殿方と二人きりになるなど、許すわけがないでしょう。下がって……!」
 声が震えてしまう。西島と名乗った男は動ずることなく、口の端を上げた。
「あなたのお父様の御意向ですよ?」
「お父様の?」
「直接あなたを迎えに行って欲しいとおっしゃるので参りました。部屋に入っても構わない、二人で話をするようにと」
「そのようなこと、お父様がおっしゃるはずがありません」
「では、そのお父上に確かめていらっしゃるといい。ここを通って」
 男性は私から一度も視線を外すことなく、自分の前を指差した。負けじと私も彼を観察する。

 かっちりと固めすぎることのない、けれど清潔感のある髪。奥二重の目は大きめで形よく、無駄な肉付きの無い輪郭、少し大きめの口からチラリと覗く白い歯が印象的だった。襟の高いシャツの上に着た三つ揃えは、すらりとした背の高い体系によく似合っている。歳は私の八つ上だと、お父様から伺っていた。
「ここまで美しくおなりとは想像も出来ませんでした」
 穏やかな声に縛られてしまったかのように、そこから動けない。どこかで会ったことのあるような口ぶりに疑問を覚えた。
「あなたの絵葉書があれば、飛ぶように売れるでしょうね」
「失礼なことをおっしゃらないで……! 絵葉書だなんて、そんなもの」
 いくら見目が好くとも、こんな無礼な男に靡くような女だとは思われたくない。
「これは失敬。しかし世間では美しい芸妓の絵葉書などは、とても人気なのですよ」
 芸妓、の言葉に父のことが思い浮かび、頭に血が上った。一瞬険しい表情をした私を見逃さなかった彼は、自身もまた別の表情を露わにした。
「芸妓の言葉にそこまで反応されるとは、余程毛嫌いされているとみえる。違いますか?」
 眉根を寄せた男から目を逸らして口を引き結ぶ。表情を変えたとはいえ、心の中を見透かされたようで、何とも言えない悔しさが込み上げた。
「隠さなくてもよろしいですよ。寧ろその方が俺にとっても都合はいい。先にお話ししておきましょう」
「……何をです?」
「後からそんなことは聞いていないなどと、急にご機嫌を損ねられては困りますのでね」
 咳払いをひとつした男は、再び首を傾げて私を窺うようにこちらを見た。
「まだ中に入れては下さらないのでしょうか? もう少しあなたのお傍でお話したいのですが」
「一歩でもこちらへ入っていらしたら大声を出します」
 驚いて目を見開いた彼は、その後すぐに声を上げて笑った。
「さすがは華族のお姫様だ。俺にそんなことを言った女性は初めてですよ」
「誰とも知らぬ方と私を一緒になど、なさらないで」
 こんな物言いをしたのは私だって初めてのことなのに。両手を握りしめて、震えを抑える。
「わかりました。では、ここで続けることにします。よく聞いて下さい」
 ドアに背を預けて寄り掛かった彼は、片方の手をズボンのポケットへ入れ、ゆったりとした姿勢で話しはじめた。

「まず初めに、俺は正妻の息子ではありません。妻妾腹など、さして珍しくもありませんが……母親は芸妓の出です」
「!」
「あなたが今感じられた通り、俺は卑しい身分の女から生まれた者です」
 自嘲するように笑った男は初めて視線を逸らし、そこから窓の向こうを見やる様子で言った。
「父は一代で財を成しました。父の正妻は豪農の娘。その土地では有名な地主です。その母から生まれた兄の妻は財閥の娘。父も兄も金は腐るほど持っている。しかし金はあっても、世間的な名誉は与えられていない。そこで」
 一度溜息を吐いた彼は再び私を見た。
「正妻の息子ではない俺が、あなたのような方と結婚をした場合、周りの人間がどう変わるのか興味があります」
「私のような者……?」
「華族にお生まれの方……あなたについて言えば子爵令嬢のことです。俺の父のような成金者が欲しがりやまない、上等な名誉そのものの存在です」
「ご自分の名誉の為に、私と結婚を望まれるの?」
「どう捉えていただいても構いませんよ。あなたも家の存続の為……下賤な物言いをすれば金の為に俺を選んだのでしょうから。お互いそれで、いいじゃありませんか」
「まだ選んでなどいません……!」
 怒気をはらんだ私の口調など気にする様子もなく、失礼、と告げた男は内ポケットに手を入れ懐中時計を取り出した。
「もう少しお話していたいのですが、残した仕事がありますので、今日はこれで失礼します」
 時間を確認した彼はポケットへ懐中時計をしまい、私へ軽くお辞儀をした。
「また近いうちにお伺いしますよ、蓉子姫」
 背を向けた男の足音が遠ざかる。

 ふらりと足を踏みだし、近くのベッドへうつ伏せた。
「いやよ。あんな人、いや……!」
 不躾な言葉を次々に浴びせられた私の心は今にも折れそうだった。あの人と結婚なんて考えたくない。断りたい。他に候補がいらっしゃるのなら、その方にしていただきたいと、お父様に伺いたい。
 廊下を再び足音が近付いた。男が戻って来たのかと顔を上げ、立ち上がり身構える。
 予想は外れ、ドアの向こうから現れたのは満面の笑みを浮かべた父だった。
「どうだ? 蓉子」
「お父様、私」
 泣きそうになるのを堪えて父の顔を見つめた。
「いい男だったろう? ああ見えて漢気もあるのだ。当然仕事もできる。縁談が山のように来ているらしいのだ。ぼやぼやしていると他の女に取られてしまうぞ?」
「……」
「仮祝言だけでも早いところ決めてしまおう。好い日を選ばなくてはな、蓉子」
 無言の訴えなど届くはずもなく……高らかに響く父の笑い声だけが部屋中を駆け巡った。

 月のもので気分が悪いのだと、ばあやに嘘を吐き、急いで自室へ戻った。
 障子と襖を隙間なくぴったりと閉める。誰とも話したくない。顔を合わせたくない。この顔を見られたくない。
 自動車の発車する音が遠くから聴こえた。つい今しがた起きた洋館でのことを思い出し、きつく唇を噛み締める。
 あんなふうに無防備な状態で男性の前に晒されるなんて。今まで、どんな場所でも男性と関わることなく慎ましくしろと、家でも学校でも教えられてきたというのに。お父様は、私があの男に何をされても良いと判断された。きっと……そういうこと。
 何かが、私の中で剥がれ落ちていくのがわかった。
 畳の上で足袋を滑らせ、本棚の前に進んでいく。薄曇りが濃い曇り空になったのか、部屋はますます暗くなった。
 大切にしている、あの外国の本を取り出す。頁を捲ることなく胸に抱き締めて僅かな慰めに縋った。

 その晩、容体が急変した母は意識の戻らぬまま、帰らぬ人となった。