蒸し暑さと、朝から元気よく鳴いている蝉の声に目が覚める。
 ベッドの上で寝返りを打ち、明るい日差しの入る窓へ目を向けた。ここまで届かない微風がレエスのカーテンを少しだけ揺らしている。
 もうすぐ夏休みも終わりだというのに、私の心は未だに止まったまま。

 直之様が迎えに来て下さった雨の日から一週間。
 実家に戻りたくなかった私は、待合茶屋から直接山手の直之様のお家へ帰っていた。その後すぐに月のものが始まったこともあり、この部屋で一日の大半を過ごしていた。
 鏡台の上の花瓶へ視線を移す。二日置きにツネさんが飾ってくれるお庭のお花が綺麗。直之様がお話してくださったのか、ツネさんは何も訊かずに私をそっとしておいてくれた。
 水色の小花模様の枕に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。
 いつまでもこうしている訳にはいかない。今日はお庭にでも出てみようかしら。

 扉をノックされた。
「おはようございます、蓉子さん。ちょっといいですか?」
「……どうぞ」
 起き上がり、乱れた髪を撫でつけて整える。
 部屋に入って来た直之様は、お仕事へお出かけになる直前のお姿だった。
「おはようございます、直之様。すみません、私……いつまでもぐずぐずと」
「いいんですよ。ゆっくりしていなさい」
 ベッドに座る私の横に来た直之様が、顔を覗き込むようにして言った。爽やかな香水の香りがふわりと鼻先をくすぐる。
「今日は、あなたに会わせたい人がいましてね」
「会わせたい人?」
「ええ。夕べ遅くに到着されていたのですが、あなたは既にお休みのようでしたので、今連れてまいりました。部屋に入れても構いませんか?」
「それはあの……私、起きぬけで支度もまだですので」
 慌てる私に、直之様が優しく笑った。
「では、その者に支度をさせましょう」
「え?」
「どうぞ、入りなさい」
 彼が入口に向かって声を上げた。緊張しながら寝巻の合わせに手を置き、彼と一緒にそちらを見つめる。
「失礼します」
 この声は……
「姫様……!」
「サワ!?」
 扉を開けて入って来たのは、良く知った顔。私を見た途端、涙をぼろぼろと零したサワは、こちらへ駆け寄り膝を着いた。
「サワ、どうしたの!? どうしてここに?」
「西島様が、私を蓉子様のお付きにしてくださると……!」
 泣きながら、くしゃくしゃの笑顔を私に見せたサワは、床に両手を着き直之様に頭を下げた。
「ありがとうございます、本当にありがとうございます」
「いいんですよ。さあ、顔を上げて。蓉子さんが驚いていらっしゃる」
 サワを起こした直之様が、私に顔を向けて言った。
「ツネもミツコも結構な歳ですからね。二人とも、もう少し若い女中が欲しいと言っておりましたから、ちょうど良いでしょう」
「直之様……」
 彼の優しさに心を打たれた。
 雨の中、絶望の淵に佇む私を助けて下さっただけでなく、その後もこうして、私の好いようにと計らって下さる。それはこの家に招かれた時からずっと、変わることがない。
「いろいろと話もあるでしょうから、ここで二人で朝食をとるといい。サワ、持ってきてくれるね?」
「はい。姫様、少々お待ちくださいね」
 涙を拭いたサワは、嬉しそうにお部屋を出て行った。
「直之様、ありがとうございます」
 傍に立つ彼に頭を下げる。
「あなたに相談もなく勝手に決めてしまい、申し訳ありません」
「そんな、とても嬉しいです。先日実家に戻って、それからずっとサワのことが気がかりでした。ですから本当に……ありがとうございます」
 嬉しさに自然と涙が浮かぶ。これからサワが傍にいてくれることに心から安心した。
「これで、あなたにも元気が戻れば宜しいが」
 微笑んだ直之様はかがんで私の頬に口付けをし、仕事だと言ってお部屋を出て行かれた。

「そこにお座りなさい」
 窓辺にある小さなテーブルに食事の用意をしてくれたサワに声を掛ける。磯五郎が運んでくれた椅子に座った。
「宜しいのでしょうか。私が姫様とご一緒に食事など」
「直之様がおっしゃってくださったのだから遠慮しないで。私もサワとお話しながら、お食事したいの」
 躊躇うサワに、テーブルの向かいに置かれた椅子を再度勧める。
「では、お邪魔いたします」
 こんなこと初めてね、と笑いかけると、サワもふふと笑った。
「ここへ来ることを望んでくれたの? ありがとう、サワ」
「直之様のお蔭なのです。私の無理を聞いて、御前様を説得して下さいました。姫様の為だと言って……。直之様は本当に蓉子様のことを大切に思っていらっしゃるのですね。私まで嬉しくなりました」
「お父様は、すぐに納得されたの?」
「……はい」
「私がいない間に、嫌な思いをすることはなかった?」
「姫様のお傍にいられないことが一番の苦痛でしたもの。ですから、何も」
 私が冷製のスウプをスプーンで喉に流し込むと、サワは温かいパンをひと口齧った。
 あの日のことがどうしても気になった私は、ひとつ深呼吸をしてから、彼女に言った。
「先日は取り乱したりして、ごめんなさい」
「まぁ、そのようなこと……! 姫様がお怒りになるのは当然でございます。それよりも、蓉子様をあのように傷つけることにしてしまった私共がいけないのでございます。本当に、大変申し訳ありませんでした」
「お父様は何故、私からあの方を隠していらしたの? あんなこと、すぐにわかってしまうでしょうに」
「御前様なりに、お考えがあったのでしょう。蓉子様が家を出られて間もなくご同居、ということを姫様にお伝えするのは、御前様としても気まずいご様子でおられました。お正月頃ならば、蓉子様にお知らせしても良いだろうと、おっしゃっていましたから」
 申し訳なさそうにサワが続けた。
「梓乃様を住まわせていらした家を、手放したのだそうです。奥様が亡くなられ、蓉子様も家を出られたということで……梓乃様をこちらに」
「初めからそのおつもりだったのね。家が困窮しているから、私を直之様の元へ早く行かせたいのだと思っていたけれど、そうではなかった。……あの人がいたから、なのね」
 珈琲をひと口のみ、窓の外へ目をやった。陽射しの強くなってきた屋外を見ていると、お母様のお墓へ行った時のことが、夢のような気がした。
「……私ね、お母様のお声を聴いたの」
「奥様のお声を?」
「ええ。お母様のお墓があるお寺から、暫く行った先に川が流れているの。幅は狭いのだけど、その分流れが早かった。川を覗いていたら確かに聴こえたの。蓉子、って」
 サワは食事の手を止めて、私の話を真剣な表情で聞いている。
「でもそれは私を呼ぶ声ではなかった。こちらへ来てはいけないって拒否するような、そんなお声だったの。私はお母様の元へ行きたいと思ったのに。何もかも忘れて、お母様に私のことを連れて行っていただきたいと思ったのに」
「姫様、それだけはなりません。奥様のお声の通りでございます。まだあちらへ行ってはいけないのです」
「サワ」
「そんなことをなさったら、直之様がどれだけ悲しまれることか。直之様だけではございません。光一郎様も光二様も、薗田家で働いている方も皆……私だって、どんなに、悲しい、か」
 再び涙を零したサワは顔を伏せ、肩を揺らした。
「御前様も悲しまれます……!」
「……ありがとう、サワ」
 私の為に泣いてくれるサワを、心からありがたい存在だと思った。
「ごめんなさいね、心配をかけて」
「姫様がお謝りになることなどございません」
「話が長くなったわね。さ、食べちゃいましょう。ここのお食事、とっても美味しいでしょう?」
 大きく頷いたサワは涙を拭き、笑顔で私と一緒に朝食の続きを始めた。

 サワが来てくれたお陰か、月のものが終わったせいなのか、気分がすっきりとした私は朝食後、お庭に出ることにした。サワはその間、ツネさんたちにお仕事を教わっている。
 大きな麦わら帽子を被り、木陰を選びながらお庭を歩いた。花壇の隅の方でしゃがんだ背中に声を掛ける。
「おはようございます、友三」
「おや、久しぶりじゃないか姫さん」
 顔を上げた友三の笑顔が、何だか嬉しかった。土を弄る様子を隣にしゃがんで間近で見る。
「いつもより遅い時間だけど、気分が良いので来ました」
「毎日こう暑くっちゃ、具合も悪くなるわな。花はさっきツネさんに渡したよ」
「明日からは私が来ますから、お願いね」
「無理だけはしないようにしてくださいよ。庭で倒れたら全部俺のせいになるんですから」
「あら、じゃあそうしてみようかしら」
「意地悪な口叩けるようになったんなら、もう大丈夫だな」
 眉をしかめた友三と目を合わせ、次の瞬間声を出して一緒に笑った。
 空が抜けるように青い。背の高い鳳仙花の鮮やかな花が目の前にある。豊かな土の匂いと緑の匂いが心地良かった。
「ねえ、友三」
「何です?」
「私、ここが大好きよ。直之様と皆さんのいらっしゃる、この山手のお家が」
 手を止めた友三が私を振り向き、不思議そうな顔をした。
「ここはもう姫さんの家でもあるじゃないか」
「……私の?」
「皆そのつもりでいるが、違うのかい? 直之様は初めから、そうだとおっしゃっていましたよ」
 口の端を上げて笑った友三が、手元に視線を戻した。
 ここが、私の家。皆がそう思っていてくれたことに胸が熱くなる。
「ありがとう」
 小さく呟いた私に、友三は何度も、うんうんと頷いた。

 その夜、久しぶりに早いお帰りの直之様と一緒に夕食のテーブルに着いた。
 滋養になるからと、今夜は鰻のお重と肝のお吸い物。胡瓜と若芽の酢の物に刻んだ生姜がたっぷり載った小鉢も並ぶ。たれに浸された鰻は、ふっくらとしていてとても美味しかった。
「蓉子さん、来週俺と一緒に軽井沢へ行きませんか?」
 突然の言葉に驚いて顔を上げる。
「軽井沢、ですか?」
「ええ。月末なら休みが取れそうですので、よろしければぜひ」
 確か、勝子さんが別荘に行くとおっしゃっていたのが軽井沢だった。
「蓉子さんは軽井沢に行かれたことはありますか?」
「いえ、ございません」
「そうですか。あちらは既に初秋に入っているようで、随分と涼しいようですよ。三泊ほどですが、いい気分転換にはなるでしょう」
 こちらはまだ、じっとりとした暑さが続いているというのに、もう初秋だなんて。避暑地というのはそんなにも夏の往くのが早い場所なのかと驚いた。
「ありがとうございます。でも直之様、お仕事の方は」
「盆休みをほどんと取っていなかったので、いいんですよ。仕事は落ち着いている時期なので大丈夫です」
 お重の鰻を食べ終えた直之様が、思い出したように言った。
「学期始めが被りますが仕方がない。その体の調子では、どのみち学校へ行くのもまだおつらいでしょうから、思い切って休みなさい」
「はい」
 荷物持ちに磯五郎を連れて行きましょう、と直之様が笑った。

 知らない土地へ彼と二人。
 少しずつ癒されていた私の気持ちは既に、訪れたことのない軽井沢へと向かっていた。