ウミネコが頭上を飛び交い、みゃうみゃうと鳴き声を降らせている。
 私を見つめる直之様から、瞳を逸らすことができない。
 彼が、私を好き……? 華族という、この人にとっての名誉を抜きにしても……? 浮かんだ疑問を尋ねれば良いのに、どうしてかそれを訊くのが怖くなり、言葉に詰まった。
「海を見ながら、仏蘭西波止場まで歩きましょう」
 返事を求めるでもない直之様は、私に背を向けて歩き出した。彼に続いて桟橋を戻る。

 海岸通りの木陰に来ると、自転車に大きな箱を載せたその横で、おじさんが鐘を鳴らしながら声を出していた。
「アイスクリンにラムネ〜おせんにキャラメル〜いらんかね〜」
 そこへ近づいた直之様が、お財布からお金を出す。
「キャラメルをひとつね」
「ありがとうございます。どうぞ」
 キャラメルの箱を受け取った直之様は、何も言わずに私の手へその箱を持たせた。
 海岸通り沿いを歩いて行く。左は海。道を挟んだ右側は立派な洋館が立ち並んでいた。
「大きな建物が多いのですね」
「港の傍ですから、外国人向けのホテルが多く建っています。今度、中にある料理店へ行ってみましょう」
 日除けのパラソルを差したマダムと、そのご主人とみられる外国の方が、私たちの少し前を歩いていた。ホテル前には海軍の格好をした方が数人いる。
「直之様のお勤め先は、このお近くなのですか?」
「そうですね。もう少し横浜公園寄りになりますが」
「お勤め先がお近いから、ご実家を出られて、こちらにお住まいでいらっしゃるのですよね」
「まぁ、それもありますが」
 直之様が歩く速度を緩めた。
「蓉子さん。西島家で俺の名前だけ、違うことにお気付きですか?」
「お名前?」
「俺の父は長太郎、兄は長一郎、兄の子どもは長二郎。皆、父の名にある『長』が付く」
 言われて初めて気が付いた。確かに彼だけ、お名前が違う。
 海側を向いて立ち止まった直之様が、ここからも見える先ほどの客船の方へ目をやった。日はゆっくりと落ち始めている。
「俺には今の兄の下に、もう一人、兄がいたんです。その二人の兄は、蓉子さんも以前お会いになった、父の正妻である母から生まれました」
 直之様のご実家へ伺ったことを思い出す。私を花嫁修業に預かるのを拒否した、お方。
「正妻から男子が二人生まれれば十分だと思われたのでしょう。俺は生まれた時から父の継承者である『長』と言う名を受け継ぐ者ではなかった。後から聞いた話ですが、兄の母も俺に『長』の名を付けさせるのは、殊の外嫌がったそうです」
 顔を傾けた直之様が苦笑した。
「それはそうでしょうね。父が芸妓に産ませた子どもを家に引き取るだけでも、母にとっては苦痛だったでしょうし、ましてや兄を差し置いて父を継ぐ可能性がほんの少しでもあることなど、想像したくもなかったのでしょう」
「直之様は、本当のお母様のことをずっとご存知でいらしたの?」
「いえ。知ったのは二番目の兄が亡くなった後です。彼は病に侵され、俺が中学に入った年に亡くなりました」
「……そうでしたの」
「兄が亡くなり、しばらくして母に言われました。直之は、この家を継ぐ資格などないのだから大人しくしていなさい、と。俺は幼い頃から兄を越えてはいけないと常に教育されていましたし、元々家を継ぐつもりもなかったのに、わざわざ母が確かめに来るのはおかしいと、そこで気付いたんです」
 彼は私の手から黄色いキャラメルの箱をお取りになり、蓋を開けてキャラメルを二粒取り出した。
「あなたもお食べなさい」
 包み紙をひらいて一粒を口に入れた直之様は、蓋を閉めたキャラメルの箱と、もう一粒のキャラメルを私の手に載せた。
 口へ放り込んだキャラメルは、舌の上でゆっくりと甘く溶けていく。
「ツネから無理やり聞き出しました。俺の本当の母は、あの母ではない。芸妓の女だと知り、納得しました。それまでの靄が急に晴れた気がした。幼い頃から名前に関して疑問を感じていましたし、母の俺に対する態度も普段から違和感のあるものでしたから、訊いて良かったと心の底から思いました」
 明るく笑う彼の言葉を、真剣に受け止める。
「俺は家を出る決心をしました。実際に家を出たのはもっと後ですが」
「それで今のお家に?」
「祖母の亡き後、あの洋館を管理する人間が必要でしたからね。ちょうど良かったのでしょう」
 桟橋の方から飛んできたウミネコを、二人で同時に仰いだ。
「父を恨んだりはしていません。寧ろ感謝している。西島の家に置いてくれた父の気持ちに応えて、しっかりとした経営者になれるよう、今は努力をしている最中です」
 私へ視線を下ろした彼に、お辞儀をする。
「教えて下さって、ありがとうございました」
「面倒なお話をしてすみません」
「いいえ。お伺いして良かったと思います。何も知らないよりは、知っておいた方がいいでしょう」
 独特の雰囲気を持つ直之様のご実家。その中で、私が想像するに難い思いを、この人はたくさんしてきたのだろう。多くを語らない直之様の心中を思った。
 空に浮かぶ雲が茜色に染まり始めている。再び、海岸通り沿いを歩き始めた。
「蓉子さん」
「はい」
「今夜、俺の部屋にいらっしゃいませんか」
 前を向いたままで直之様がおっしゃった。しばらく沈黙してから、静かにお返事をする。
「まだあるという、先日の……続きのことでしょうか」
「先ほどのような接吻では、俺の気持ちを理解してもらえそうにもないので、わかっていただけるようなものをしたいと思ったのですよ。続き、といえばそうなりますか」
 理解してもらえるような接吻……? さきほどのようなものとは、違うというのだろうか。
「それも、花嫁修業の一環になるとおっしゃるの?」
「他の方はどうか存じませんが、俺とあなたの間では花嫁修業と呼ぶに相応しい行為ではないでしょうか」
「……直之様がそうおっしゃるのでしたら、よしなに」
 彼のお部屋を訪れた夜を思い出し、胸が震えた。


 オリエンタルホテルの前で河合さんが待っていた自動車に乗り、直之様のお家へ帰った。外は日が落ちたばかりで、涼しげな空気が夜の始まりを告げている。
「お帰りなさいませ」
「ただいま」
「お風呂の用意ができましてございます。蓉子様は二階のバスルウムに」
 玄関で出迎えたツネさんが私たちに言った。
「ありがとう」
「お食事は軽いものをご用意しておりますが」
「ああ、すまない。俺はいらないな。蓉子さんは?」
「私もまだ、お腹がいっぱいで。すみません」
「かしこまりました。直之様、お風呂の後、お部屋にお茶をお持ちいたしましょうか」
「いや、仕事をしているので部屋には来ないでくれ」
「そうでございますか」
 お仕事をされるということは、先ほどの接吻のお話は御冗談だったのだろうか。そうとも思えない雰囲気ではあったけれど……
「蓉子様はいかがなさいましょう?」
「いただきます」
「それではお風呂から上がられた頃、お部屋にお茶をお持ちいたしますので」
「ありがとうございます」

 早速お風呂をいただき、浴衣に着替えて、お部屋に戻った。鏡台の前に座り、濡れた髪を櫛で梳く。
 それにしても大きな客船だった。ホテルのように大きいのだもの。明日学校で、勝子さんたちにそのお話をしてみよう。
 買っていただいた、たくさんのおリボンを鏡の前に並べた。どれを着けて学校に行こうかと考えるだけで笑みが零れてしまう。
 ドアをノックする音がした。立ち上がってそちらへ向かう。
「はい。どうぞ」
 扉を開けると、そこにいたのはツネさんではなかった。
「蓉子さん、お邪魔しますよ」
「直之様?」
 中に入った直之様はドアを閉め、お部屋を歩いて私のベッドへ腰掛けた。彼もお風呂を終えたのだろう、髪は濡れて、寝巻用の浴衣を着ていた。
「どういうことでしょう?」
「何となく、あなたが俺の部屋へ来ては下さらないような気がしたので、俺がここへ来ました」
「これから、お仕事をされるのでは?」
「邪魔が入らないように、わざとそのように言ったのですが……やはりあなたには、わかっていただけなかったようですね」
 悪戯っぽく笑った直之様が手招きをする。心臓がどきどきと大きな音を立て始めた。
「蓉子さん」
 名前を呼ばれただけで体が熱いなんて。私は……どうしたというの?
「早くこちらへ」
 おずおずと直之様に近付き、隣へ座った。彼が体を寄せてくる。ぎし、とベッドが軋んだ。
 誇りを失うことのないよう、心まで許す気はなかった。今もまだ胸の奥に燻っているものはあるはずなのに、彼の傍いると忘れてしまいそうになる。だって、この人は。
 この人は、薗田家が困窮しているからといって私を蔑むこともなく、無理に言うことを聞かせるでもなかった。それどころか…
「蓉子さん、もっと傍に」
 私の為にこの部屋を用意し、家具を入れ替え、洋服を誂え……私を女学校に通わせ、友人との約束を歓迎し、熱が出た夜は一晩中傍に付いていてくれた。今日は買い物に連れ出し、広い海に浮かぶ外国の客船を見せてくださった。
 私の知らない世界を惜しみも無く教えてくださる。何も知らずに生きてきた私を、結婚と言う名の檻に閉じ込めるのではなく、逆に解放して下さった。取引の為に私へ求婚したはずのこの人が……私を。

 肩を抱いた彼は、私にそっと唇を合わせた。
 優しくついばむようにしながら、蓉子さん、と何度も囁いている。考えようとしても、またその温もりに遮られてしまう。私を抱き締める彼の手に力がこもった。と同時に、重ねられた唇に何かが入り込み、口の中が生温かくなった。驚いて咄嗟に彼を押し退けると、唇を離した直之様が私の顔を覗き込んだ。
「大丈夫ですよ。もっと俺のことを知って下さい」
「こんな、淫らなこと、いけません」
 肩を縮ませ体をよじろうとしても、直之様の腕の中に閉じ込められて、好きなように動けない。彼の香りに眩暈が起きそうになる。
「淫らで結構。他の誰でもない、婚約者の俺だけに見せるのなら構わないでしょう」
「結婚してから、こういった接吻をするものでは、ありませんの……?」
「続きを教えると言ったではありませんか。約束を果たしているだけですよ」
 強く唇を重ねられ、舌でこじ開けられようとした。恥ずかしさに気が遠くなりながら、その唇を閉じて抵抗する。
「口を開けてごらんなさい、蓉子さん」
「駄目。んう……!」
 言葉を吐き出した隙を突かれ、とうとう彼の舌で押し開けられてしまった。再び生温かいものが口の中に入り込んでくる。耳に舌を入れられた時よりも、もっと……切なくなるような感覚に、どうにかなってしまいそうで、怖くて硬く目を閉じた。
 息が上手く出来ない。顔を離そうとしても頬を彼に押さえられ、戻されてしまう。
 接吻をしながら、直之様は私をベッドに優しく押し倒した。手を握り、髪を撫で、足を重ね、そんなふうになりながらも唇だけは放してくれない。
「ん……んうう、んん……」
 掬い取られてしまった舌が、彼の唇に吸い付かれた。知らぬ間に涙が零れている。口中を舐められながら、段々と頭がぼんやりしてきた私は、いつしかされるがままになっていた。

 しばらくそうして、ようやく唇を離してくれた直之様は、零れた私の涙の痕に口付けをした。眉根を寄せた彼が荒い息を何度も吐く。私の瞳を覗き込むようにした直之様が、いつものように口の端を上げた。
「具合が良かったでしょう」
「そんな、こと……おっしゃらないで……こんな、はしたない」
 顔が一層熱くなり、自分のものではないように、唇から小刻みに息が吐き出される。
「もっと俺にください。蓉子さん」
 体を起こした直之様は私の浴衣の襟元へ手を掛けた。
「もう堪忍して下さ、あ……駄目!」
 以前のように襟元を引き、大きく開いた胸元へ直之様が接吻した。でも、何だか前とは違う。熱くて少し……痛い?
「何を……?」
 少しだけ顔を起こしてみる。
 彼は私の胸元に顔を埋め、音を立てて長い時間吸い付いていた。唇を離した彼は、その痕を確かめるように指で摩り、舌で舐めてから、別の場所へ同じように吸い付いた。ちりちりと熱さを伴う痛みを感じながら、すぐ傍で行われている一部始終を見てしまい、どうして良いかわからず、ただ首を横にいやいやと振り続けるだけだった。
「直之様」
「……」
「何をなさっているの? 痕が付いてしまう……!」
「どれだけあなたを好きなのか、わかってもらえるような接吻をすると話しました。その証拠です」
「……証拠?」
「誰にも見えない場所ですから大丈夫ですよ。ああ、ツネがあなたの風呂の様子を見に来たら、わかってしまうかもしれませんね」
 間近でくすっと笑った彼の顔が、意地悪をする子どものようだった。何も言い返せずに、ひたすら彼のお顔を見つめるしかできない。
「瞳が潤んでいます。喜んでいただけたようで、俺も嬉しいですよ」
「喜んでなど……」
「素直におなりなさい」
「あ……っ」
 心をも溶かしてしまいそうな、低く優しい声が私を支配した。
 直之様が鎖骨の下へ唇を押し付けた時だった。ドアをノックする音が部屋に響く。

「蓉子様」
 ツネさんのお声に体が強張った。扉の方へ顔を向ける。灯りが付いたままの部屋が私の目に映った。
「お茶をお持ちいたしました」
 起き上がろうとした私を、直之様が押さえ付けた。再び唇に接吻をされ、言葉を発することを許されない。
「ふ……んんっ」
 咬みつく様な口付けに全身の力が抜けてしまう。どうにか顔を逸らして、小声で彼に訴えた。
「直之様、意地悪をなさらないで……お願い」
「蓉子様? またお具合でも?」
 ドアの向こうからツネさんの心配そうなお声が届く。今、扉が開いてしまったら……考えただけで、味わったこともないような羞恥が体を駆け巡った。
「違うんです、ごめんなさい。私、とてもくたびれてしまって、もう寝ますので、お茶は」
「左様ですか」
「すみません、あ……っ」
 直之様は私の首筋を舐めながら、襟の合わせの奥へ手を差し入れた。やめて、と小さな声で抵抗してもやめてはくれず、とうとうその手は私の胸を直に包み込んでしまった。
「蓉子様?」
「お休みなさ、い、ツネさん」
 こんな、こんなこと……こんな淫らなことを、私が……
「お休みなさいませ」
 直之様の接吻を口に受けながら、ツネさんの遠ざかって行く足音を聴いていた。

「もう、お止めになって……ん……っ!」
 離しても尚、追いかけてくる直之様の執拗な口付けに、体の奥から何かが込み上げた。彼の舌に味わい尽くすようにされて、声を呑み込もうとしても、どうしても漏れ出てしまう。浴衣は肩から大きく肌蹴、露わになった片方の胸が彼の手に弄ばれ続けていた。優しく揉むようにしたり、指で撫でさすったり……どうしてこのようなことをなさるのか、わからない。その手の感触と口の中にいる彼の舌に翻弄されながら、助けを求めるように呻き続けた。
「ふっ、んん……ん……」
 でも、何故だろう。
 体が、切ない。
 何か、足りない……そんな気持ちが、私の中で大きくなっている。
 訳も分からず怖くなった私は、直之様の背中に手を回していた。気付いた彼は、ベッドと私の背中の間に手を差し込み、私の体を強く、きつく抱き締めた。直之様の浴衣も胸元が肌蹴ており、私の肌に直接彼の肌が合わさった。
 温かい。今日食べたキャラメルのような甘いものに、私の体も思考も包まれてしまったよう。
「蓉子さん、綺麗ですよ。とても……柔らかくて、絹のような肌が吸いついてくる」
「……直之様」
「あなたが好きです、蓉子さん。本当はもっと、あなたの奥深くまで触れたいですし、俺にも触れて欲しい。……でも今夜は、ここまでにします」
 起き上がった直之様は何度か息を吐いてから、私の襟元に手を置き、丁寧に合わせて浴衣を元に戻した。
「また具合が悪くなられて、熱でも出されたら大変ですので。この続きはまたにいたしましょう。今日は朝から引っ張り回して、すみませんでした」
 お返事の代わりに首を小さく横に振る。まだ息が荒く、上手に声を出せない。
「楽しい一日でしたよ。あなたと港に出掛けられて」
 直之様は私の手を取って甲に接吻をした。
「蓉子さん、あなたは?」
「……楽しかったです」
「それは良かった。また俺と一緒に出掛けてくださいますか?」
「ええ」
 私の返事に満足そうに頷いた彼は、ベッドから立ち上がった。
「では、ゆっくりおやすみなさい。蓉子姫」
「直之様も、おやすみになられるの?」
「いや、俺は少し書き物がありますので起きていますよ」
「……そうですか」
「ではまた明日」
「おやすみなさい」

 直之様はご自分の浴衣を直しながら、ドアへと向かった。静かに扉を開け、お部屋を出ていく。
 あろうことかそのお背中を……引き留めてしまいそうになった。
 執拗だと困らせられたはずなのに、彼があっさりとご自分のお部屋に戻ってしまうことに、私は……寂しさを感じていた。