早起きのツネさんは、既に玄関周りとホールのお掃除を終わらせていた。
 階段の下にある柱時計は六時半を指している。毎朝何時に起きているのだろう、と心配になってしまう。薗田家の使用人たちと比べても、ずっと早いのではないかしら。

 ツネさんに朝の御挨拶をして、直之様の今日のご予定を伺う。
「本日は日曜ですので、直之様は遅くまでお休みです。十一時頃に起きられて、朝食と昼食をご一緒にとられますが、蓉子様はどうされますか?」
「そうね。では同じに」
「かしこまりました。そのお時間までに何か召し上がりたい時は、お声を掛けてください」
「それまで私は何をしたらよろしい? お掃除やお洗濯のお手伝い?」
「滅相もございません! そのようなこと、あなた様にさせるなど」
 眉を上げてツネさんが言った。
「でも、それでは花嫁修業にならないのでは……」
「蓉子様は、いずれこちらの奥様になられる方なのですから、全体の指示を仰げるよう、お努めいただきたいのです」
「全体の指示?」
「表(おもて)で行う会計や事務などは河合が受け持ち、裏(うら)の家事は私が細かく決めておりますが、お客様がいらした時のお持て成しの仕方、家の中の気になる場所や日々のお料理の味付け、直之様のお好きな物やご趣味周りのことなどは、蓉子様からご指示をいただきたいのです」
 ツネさんの着ている襟の高いワンピースは、いつでも皺ひとつない。着物を着ていたばあやもそうだった。いつもきちんとしていて隙がない。
「それにはまず、使用人がどのようなことをしているのか、見ていただく必要があると思っております。その場で必要な時だけ、お手をお貸しくださいませ」
「わかったわ」
 ツネさんはひとつ咳払いをして、何かを思い出したように言った。
「そういえば、まだ庭師とお顔を合わせていらっしゃいませんね?」
「ええ」
「この時間は、家の中に飾る花を切り取っていると思われます。花壇にいるはずですので、ご案内いたします」
「大丈夫よ。私、一人で行けるわ。お名前はなんとおっしゃるの?」
 ツネさんが驚いたお顔で私を見た。
「……では、お声を掛けてやってくださいまし。友三(ともぞう)と申します。今日お邸に飾るお花を持ってくるようにとお伝えください」

 玄関からお外に出ると、着物の袂が風に吹かれて、バタバタとはためいた。見上げた空は雲の移動が早い。庭に出る手前で、俥の前にいた磯五郎が私へ手を振った。
「蓉子様、おはようございます」
「おはようございます。今日は少し風がありますね」
「こういう日は俥が重いんですよ」
 磯五郎は、まいったまいったと言いながら、持ち手を布で磨いていた。
「あの、友三さんという庭師の方はどちらに?」
「ああ、あれですよ。あすこにいる、少し髪の寂しい男です」
「まぁ、そんな言い方して」
「本当のことじゃ、ありませんか」
 笑っている磯五郎が指差した先に、初老の男性がいた。
 お庭の小路を通り、後ろ姿のその人に声を掛ける。
「おはようございます」
「んー?」
 男性は背を丸めたまま振り向いた。欧式の庭らしく、様々な花が入り乱れて咲き誇っている。
「庭師の友三さんでしょうか。私、先日からこちらにお邪魔している薗田蓉子と申します」
「あー、あんたがお姫さんか。直之様から聞いておりますよ」
 友三さんが笑顔で答えた。怖そうな人ではないことに、ほっと一息つく。
「これから、いろいろ教えてくださいね」
「はいよ。棘は全部外してある」
「ひゃ!」
 変な声を出してしまった。
 だって突然たくさんのお花を渡されたから。くるりと新聞紙に巻かれた、真っ白い大輪の薔薇。
「そろそろ薔薇は終いだってツネさんに言っといてください。ああそれから、俺のことは友三と呼び捨ててくださいよ。ガラじゃないんでね。いいですかい? お姫さん」
「は、はい」
「それが今日の分。玄関にでも飾ってやってください」
「ありがとうございます」
 小さくお辞儀をして、その場を後にした。

 前が見えない程の大きな花束を持って、覚束ない足取りでお邸へと歩く。とても良い香り。何という薔薇だろう。
「蓉子さん!」
 突然現れた声に驚いて立ち止まる。駆け寄ってきた人は直之様だった。
「何をされているんです。俺が持ちますから、手を離して」
「おはようございます。これは私のお仕事ですから平気です」
「いいから。手に擦り傷でも出来たら大変だ。貸しなさい」
 強い口調に負けて薔薇を手放した。左手に花束を抱えた直之様は、私の隣に並んで一緒に歩き始めた。
「花嫁修業といえども、こういうことはしなくていいんですよ」
「何故ですか?」
「俺がさせたくない。それだけです」
 きっぱりと言い放ったその横顔は、少し怒っているようにも感じた。そうおっしゃるのなら仕方がない。ツネさんも似たようなことを言っていたのだし……
「昨日はありがとうございました。お陰様でお友達と楽しく過ごせました」
 元町から帰った私は、疲れの為に早めに寝てしまい、彼にまだ報告をしていなかった。
「何を食べました?」
「お稲荷さんと、アイスクリンの載ったあんみつです」
「すごい組み合わせだな」
 直之様がくすくすと笑った。何だか馬鹿にされているように感じたけれど、話を続ける。
「あとは雑貨屋さんに行って、便箋と封筒を買わせていただきました」
「他には何を買われました?」
「いえ、便箋と封筒だけです」
「それだけですか」
「ええ」
 立ち止まった直之様が私を見下ろした。何……?
「全く……欲のないお姫様だ。来週の日曜は俺と一緒に港の方まで付き合ってもらいますよ。いいですね?」
「港へ?」
「あなたの洋服と着物を誂えましょう。夜会用のドレスも作らないとなりませんしね。うちと取引している呉服屋と舶来の生地を扱った店がありますので連れて行きます。ついでに文具も見るといい。いくらでも買って差し上げます。靴やバッグ、宝飾類も」
「そんな、あれで十分です。お洋服も着物も間に合っています」
「俺がそうしたいんだから、従って下さい」
「……」
「約束ですよ、日曜日」
 直之様が右手の小指を差し出した。また指切りのお約束? 私も小指を差し出すと、以前のように絡めた指を三回揺さぶられた。
 指を放してから、また歩き出す。
「今日、俺は午後から会食に出掛けなくてはなりませんので、好きにしていてください」
「会食とは?」
「くだらない会合ですよ。取引の為には必要ですが、如何せん無駄な時間ばかり食う」
 鼻で笑った直之様が、ふと玄関の方を見た。開いたドアからツネさんが顔を出し、こちらを見た途端に小走りで駆け寄ってきた。
「な、直之様……! 申し訳ありません、お持ちいたします」
「いやいいよ、これくらい。どこへ置けばいい? 玄関か?」
「いえ、私がお持ちいたしますので」
 ツネさんは直之様から花束を取り上げると、裏の入口へと回った。私と直之様が玄関から入った時にはもう、奥から現れたツネさんが待機していた。
「直之様、お食事はいかがなさいましょう」
「先にお茶を貰おうかな。日本茶がいい」
「かしこまりました。しかし今日はまた、ずいぶんとお早いお目覚めでいらっしゃいますね」
「たまにはいいだろう。それともまだ寝ていた方がいいのか?」
 直之様が首を傾げると、ツネさんが慌てて否定した。
「いえ! とんでもございません。それでは急いでお茶をお持ちしますので、少々お待ちくださいませ」

 台所の棚の前でツネさんと一緒にお茶のご用意をする。
 彼女は溜息を吐いたかと思うと、選んであった湯呑を棚に戻し、違うものを選び始めた
「ツネさん、どうかされたの?」
「あ、いえ……」
「?」
 口ごもった彼女は、茶筒を取り出しながら、話し始めた。
「直之様のなさることに驚いているだけでございます」
 黒く平たい急須にお茶の葉を入れている。
「先日は、蓉子様の使われたお湯をご自分でお使いになると言われるし、今朝はとてもお目覚めがお早くて日曜とは思えませんし、お花を抱えていらっしゃったりして……とにかくこのようなことは全て、今まででしたら考えられないことなのです」
「そうなの?」
「そのようなご様子を初めて拝見したものですから、つい動揺してしまいました。申し訳ございません」
「ツネさんが動揺されるなんて……」
 ええ、と頷いた彼女が再び話を続けた。
「あなた様のお部屋を整える際も、直之様は見たこともないような張り切りようでして。毎日花を飾る様にとお申し付けになったり、シーツや包布などは何種類もお揃えになりましたし、一度部屋に入れた家具などは、やはり蓉子様には別の方が合うとおっしゃって、結局また全て買い直して業者に入れ替えさせたのです」
 三枝さんからお湯を受け取ったツネさんは、片口にお湯を注いだ。
「お小さい頃から、それほど感情をお出しになる方ではなかったのです。何でもご自分でされますから、お手のかかることもありませんでした。いつもご自分の身を弁えていらして、決して出過ぎることなく、私たちにも穏やかで冷静な方が……」
 ツネさんは急に私へ向き直り、真面目なお顔で言った。
「とても嬉しそうにしたり、時に苛々してみせたり、突然頑固になられたり……どうも、あなた様のことになるとご様子が違うのですよ、蓉子様」
「……」
 その意味するところを、私が勝手に想像してはいけない気がして、返事も出来ずに俯くだけだった。


 午後四時過ぎ。会食に行かれる直之様をお見送りしてから、お部屋に戻った。
 窓際で真っ黒な空を眺めていると、ちょうどぽつぽつと雨が降り出した。風が強く吹き、ガラスが揺れている。お夕食の前に宿題を終わらせないと。
 椅子に座って机の上で教科書を広げた。けれど、英文を読もうとしても頭の中に文字が入って行かない。風と雨はますます強くなり、家全体を揺らし始めた。
 お昼過ぎくらいからずっと頭が重く、ぼんやりとしいる。お天気が悪くなったせいなのか、朝に比べてとても寒い。ずっと体がぞくぞくしている。動く度に、足の付け根や背中に鈍痛が走った。
「昨日、自転車に乗ったから、よね」
 呟いた時、ドアをノックされた。
「蓉子様」
「はい」
「お茶をお持ちしましたが、いかがでしょうか」
「……いただくわ。どうぞ」
 喉がカラカラだったから嬉しいのだけれど、頭だけではなく、体も重たくなっていて上手く立ち上がれなかった。何とか腰を上げた途端、視界が揺れて、大きな音と共に全身に衝撃を受けた。
「何事です!? まぁ蓉子様! 蓉子様……!」
 遠くでツネさんの私を呼ぶ声が聴こえた。


 瞼の向こう側が明るい。いつの間にか私はベッドに横たわっていたようだった。
「お疲れによる発熱ですな。肺は正常です。ゆっくりお休みくだされば、すぐによくなるでしょう。お注射もしておきましたので」
「ありがとうございました」
 誰かがお部屋でお話をしているようだけれど、どうしても瞼が開かない。眠気は私を放してくれず、体の熱が動くことを許してはくれなかった。
 しばらくそうしていると、私はどこか違う場所にいた。

 あれは、お庭? 
 ああ、そうだ。お母様のいらっしゃる離れから見えるお庭だ。私は縁側に立っている。黒揚羽がひらひらと飛んでいた。菖蒲が綺麗に咲いているから、お母様に教えてさしあげよう。お部屋に生けたら喜ばれるかしら。
「お母様……」
 振り返ると、お母様がいらっしゃらない。それどころか、ここは離れなどではない、直之様のご実家だった。きらきらと光るシャンデリアが眩しい。広い広いお部屋の大きなテーブルに着席する私は、皆さんのお顔を見ていた。
「蓉子さんのお父様は何をしていらっしゃるのかね?」
 何も、していないのです。
「地味なお着物でがっかりしたわ」
 あまり派手な装いは、ばあやに叱られます。
「華族のお姫様に教えて差し上げることなんて、何もございませんわよ」
 では、どうすればよろしいのでしょうか……? 
 お返事をしたいのに、どうしても声にならない。
「何が不満か。お前は薗田家から出て行かなくてはならぬ身だ」
 お父様? どうしてそのようなことをおっしゃるの? 私が、邪魔なの? 
 喉が苦しい。……誰か、誰か。

 ひんやりとしたものが額に載せられ、そこでようやく声が出せた。
「サワ……? ありがとう」
「サワはここにはいませんよ。俺がついていますから、安心しておやすみなさい」
 サワが、いない? この声は誰だったかしら……。でも、この方のお声を聴いたら何だかとても安心した。手を伸ばすと、優しく握ってくれる。やっぱりサワでしょう? 寝苦しい時に付いていてくれるのは、サワくらいしかいないもの。


 小鳥の鳴き声で目を覚ました。瞼を上げて天井を見つめる。お部屋は薄明るく、朝なのだとわかった。
 背中が少し痛い。伸びをしようとして、右手が握られていることに気付き、驚いた。……誰?
 恐る恐るそちらへ目を向けると、私の手を握っていたのは、椅子の上で座ったまま眠る直之様だった。ネクタイを外した白いシャツにグレイのおズボン。会食から帰って、そのままのお姿のよう。手を握られたまま寝返りを打とうとすると、彼が目を覚ました。
「……蓉子さん」
 反対の手で目を擦りながら私の顔を覗き込む。
「どうです? 具合は」
「ええ。少し背中が痛いくらいで、あとは何も。お世話をお掛けして申し訳ありません」
「疲れからくる熱だそうです。この一週間、いろいろと急がせてしまいましたから、そのせいだったんでしょう。謝るのは俺の方ですよ」
 手を離した彼はゆっくりと立ち上がり、窓際へ歩いて行った。
「良い天気だ。カーテンを開けましょうか」
「ええ」
 カーテンを開けた彼は外に目をやった。窓も少しだけ開けてくれる。
「昨夜の風で庭が荒れてるな。友三が早速、忙しそうにしてますよ」
 笑った直之様は私の方へ歩いて来た。部屋は明るく、昨夜の嵐が嘘のように穏やかで清浄な空気が入り込んでいる。
 再び近づいた彼に問いかける。
「昨夜はずっと、ついていてくださったの? お帰りになってから……ずっと」
「ええ」
「お忙しいのに、ごめんなさい」
「俺には、あなたをお預かりした責任がありますからね」
 彼は私のすぐ傍の位置に座った。ベッドがその重みで軋む。
「直之様は」
「ん?」
「お小さい頃、何をして遊ぶのが、お好きでしたの?」
「何です、突然」
 ツネさんから聞いた彼の幼い頃のお話を思い出していた。聞き分けが良く、手のかからなかったという子ども。でも本当は寂しい思いをされたのではないの? 何となくわかる。私も、同じだったから。
「外でも遊びましたが、本を読むのが好きでしたよ」
 直之様のお顔を見上げた。涙袋の下が薄っすらと黒くなっている。ほとんど眠っていないのだろう。……そうさせてしまったのは私。
「本を……?」
「ええ。あなたは?」
「私も、本を読むのは好きです」
 そうか、と頷いた直之様が、私の額に手のひらをあてた。熱が下がっていると確認した彼は、かがんでその場所に軽く接吻をした。ふわりと彼の香りが近付き、柔らかくて温かい感触が先日のことを思い出させる。
 彼の部屋で過ごした夜の行いを。
「いきなり、何をなさるの……!」
 顔を熱くした私の反応に、直之様が笑いながら立ち上がった。
「ご安心を。病人にこれ以上のことはしませんよ。今日は一日寝ているといい。学校には連絡を入れておきます」
 椅子にかかっていた三つ揃えの上着を持った彼は、出口へ向かって歩いて行った。
「俺は支度をしてすぐに仕事へ行きます。今ツネをここへ呼びます。とても心配していましたよ。倒れたあなたを、ツネがベッドに運んだらしいですから」
 あのツネさんが……?
「まだまだ若い者には負けないそうですよ。ありがたいことだ」
「ツネさんに、お礼を言います」
「そうしなさい」
「直之様」
 ドアに手を掛けた彼の背中へ声を掛けた。
 気を許したわけではない。私へ向けた不躾な言葉を忘れたわけではない。けれど。
「ありがとうございました。お仕事、行ってらっしゃいませ」
 夢にうなされた私は、この人の声に安心して眠れた。握ってくれた手の温もりが、まだ残っている。それは事実だから。

「どういたしまして、蓉子姫」
 私を振り向き、口の端を上げて笑った直之様の表情は、初めて逢った時よりもずっと、優しげに感じられた。