男の手によって放たれた数匹の蛍が、薄ぼんやりとした明かりを暗い部屋に灯していた。
 部屋の隅、畳の上に座る男は、空になった虫かごを横に置いた。良い返事をするまでは電灯を点けさせないという。

 一匹の蛍が私の着物の袂に留まった。藤色のお召しが緑の光で妖艶な色に変わる。
「こういう土産も良いでしょう」
 穏やかな声に返事もせず立ち上がった。閉まった障子の向こう側の月明かりを頼りに歩み寄ると、続いて後ろから畳を踏む男の足音が近付いた。
 目の前の木枠に蛍が留まっている。障子を開けて逃がしてやろうと手を伸ばしたその時、名前を呼ばれた。
「蓉子(ようこ)さん」
 真後ろに立ったのだろう。彼は両側から伸ばした手を障子につき、どこへも逃がさないよう私を閉じ込めた。蛍は飛び立つことなく、鈍い光を点滅させ続けている。
「他に候補がいるとしても、あなたは俺の妻になりますよ。断ることが不可能なのは、ご存知でしょうから」
 弟たちとは違う大きな、骨張った手の甲を見つめる。男の纏う外国製の香水が私を包んだ。私を縛り付ける香りは、その場で泣き崩れてしまいたい気持ちを呼び起こした。
「……まるで、人質のようね」
 虫かごから放り出されても、狭い場所で飛び回ることしかできない。
 私も、この蛍と同じ運命を辿るの?
「大切にしますよ。誰よりも、どんな男よりも、あなたを幸せにします」
 後ろから私を抱きすくめた彼が耳元で静かに囁いた。私の瞳はきっと、口に含まれた飴玉のように濡れているのだろう。諦めと哀しみと、その狭間で彼の手に触れられたことによる、男女の温もりの心地良さを知ってしまいそうな罪悪感のせいで。
 囁きの余韻を残す部屋の空気が私を俯かせる。無防備になった首筋へ、彼が顔を埋めるのを許した。誓いが嘘ではないと証明するかのように、彼は何度も優しく同じ場所へ口付けを落とし、見えないしるしを私の肌に刻んだ。


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 友人たちと教室の窓辺に立ち、外を眺める。
 校舎の横に並ぶ、咲き始めの遅かった今年の桜は、四月に入ってようやくその花を散らし始めていた。
「次の桜を見る頃には、私たちも卒業しているのね」
「卒業したらどうなさるの? もう決まっていて?」
 手を伸ばして花びらを掴んだ背の高い友人の言葉に、別の友人が問いかける。
「どうって、それまでに縁談があれば退学をして即結婚。もしくは卒業後に二、三年お家で花嫁修業をして、お父様の決めたお相手と結婚。それだけよ。体操しようがブーツを履こうが自転車に乗ろうが、結局はお母様たちの時代と変わらず良妻賢母を目指す……私たちもそれだけなのよ」
 手のひらに置いた花びらをふっと吹き飛ばして、くるりと私たちの方を振り向いた彼女は、はきはきとした口調で言った。
「自由を謳歌しようなんていう大正の世とは名ばかりで嘆かわしいわ。結婚相手を自分で選び取れる時代なんて、いつになったら来るのかしら」
 花びらは風に乗り、どこかへ行ってしまった。
「しっ。そんなこと先生のお耳に入ったら、どんなお叱りを受けるかわからないわよ」
 指を立てた友人の隣で、もう一人の友人が教師の真似をする。その口癖がそっくりで、皆で小さく笑った。

「私ね、最近小説を買ってきてもらうのよ、内緒で」
 私たちは滅多に外へ買い物に出ることはない。欲しいものがあれば御用聞きに品物を頼むか、女中に言付けて買ってきてもらう。
「少女小説でしょう? 私だってそれくらい何冊も持っているわ」
「違うの。男女の恋愛小説よ、大人の」
 誇らしげに言った背の高い彼女を、皆で一斉に見上げた。大人の、という言葉に反応したのは私だけではないことにほっとする。
「身分違いの恋に身を焦がすお話だったわ。悲しいことに最期は心中してしまうのだけれど」
 両手で胸のあたりを押さえ、切なそうに溜息を吐いている。男女の恋愛感情なんて私にはまだ想像すらできなくて、彼女とは意味の違う溜息を吐いてしまう。
「素敵だけど、現実的ではないわね。私たちは決められた相手と結婚するのだから、自由恋愛なんて夢のまた夢だわ」
「憧れるくらいはいいじゃないの。何も悪いことではないでしょ」
「はしたないかもしれないけれど、やっぱり憧れる世界よね」
 私たちを迎えに来ている女中たちは痺れを切らして待っているだろうに、あと少し、あと少しと、放課後の楽しいおしゃべりが尽きることはなかった。
 でも今日は、そろそろ先に帰らせていただかないと。

「ねえ、ご存知? 先日学校をお辞めになった明子(あきこ)さんの結婚のお相手」
「知ってるわよ。いくらお相手が富豪のお宅とはいえ……お気の毒よね」
「いくら家の為だとしても、お金で買われるようなことだけは避けたいわ。何の為に今まで生きて来たのか、わからなくなってしまう」
 おしゃべりを続けるたびに揺れる、彼女らのおさげ髪に付いたリボンを順番に見つめた。大きさは違うけれど、白、紺、黒、それ以外の色は見当たらない。東京の中心地に位置する、華族の者が多く通うこの女学校では、私たち生徒は地味なものを着けるよう決められていた。海老茶袴に合わせる着物も地味な色合い。足元は留め具の付いた革靴もしくは編上げのブーツ。質実剛健、質素を良しとする教えに従っている。
「蓉子さん、どうされたの?」
「え?」
「さっきからぼんやりして。何か心配事? 最近、ふさぎこんでいない?」
 隣にいた友人が私の顔を心配そうに覗き込んだ。
「ううん、何でもないの。大丈夫よ」
 首を横に降り、微笑んで答えた。
 でも本当は……家にいる母のことが、一日中気がかりでならなかった。


 女中と共に俥で家に帰りつくと、ばあやが私を玄関に出迎えた。
「お帰りなさいませ、蓉子様」
 白いものが混じった髪をひとつに纏め、少々吊り上った瞳で彼女が私を見る。家の女中たちを取り仕切るばあやは、私や弟たちの教育係としても常にソツがない印象を醸し出していた。その厳しさに、ご飯も喉を通らないくらい、うんざりした時もあるけれど。
「お母様のお加減はどう?」
「今日は暖かいですから具合がよろしいようで、さきほど起き上がられました」
「そう。私が白湯をお持ちするから用意して」
「かしこまりました。……姫様」
「なあに?」
「お召替えの際は派手なものはお止め下さいませ。奥様のお体に障りますので」
「……わかったわ」
 少しでも明るい色味の着物でいれば、傍にいる人も明るい気持ちになれると思った私の策は、ばあやにとっては邪魔なものだったみたい。お母様は喜んでくださったのに。
 新しい着物なんて、ずっと手に入れていないのだから、それくらい許してくれても良いのに。
「……」
 何故か唐突に不安な気持ちに襲われた。
 今まで大して疑問を感じずに過ごして来たけれど、それが普通だったろうかと、改めて問えば何かが引っかかる。足を踏み出しながら、頭の中に浮かんできたものを慎重に拾い上げていった。

 この一年と少しの間、着物を新調していない。思い返してみれば、お母様も同じだったように思う。病床だからと気にも留めていなかったけれど、はたしてそうなのだろうか。
 もっと前はどうだったろう。縁側を歩きながら庭を見る。
 ここに居た専属の庭師が辞めたのは二年ほど前。必要な時だけ、どこかから別の庭師がやって来るようになった。その頃三人いた俥夫が今は一人だけ。この二か月で立て続けに三人の女中が辞めた。どこかへお嫁入りしたのだとばかり思っていたけれど、その後の音沙汰を誰も知らない。
 誰も知らない? 本当に? 知らないのではなく、私が知らされていないだけなのだとしたら?
 何かに気付きそうになり、胸がどきんと嫌な音を立てた。
 それほど大きな庭ではないから。俥は時代ではないから。弟たちが寄宿舎へ入ったのだから女中はそれほどいなくても良い。全て父が下した判断だと家令から聞いた私は、それを素直に受け止めていた。
 そういえば、お父様が葉山の別荘を手放したのは、四年前くらい前だったろうか……
 何を馬鹿な事を、と嫌な気持ちを振り払いながら長い縁側を進み、角を曲がって、奥の自室へ入った。
 母屋は代々続く日本家屋。そこから洋館へ繋がる廊下がある。二階建ての洋館はお客様をお迎えする専用の場に過ぎず、私たちは日本家屋の母屋に暮らしていた。明治の頃、華族としての体面の為に洋館を増築し、このような造りになったと聞く。

 海老茶袴と着物から、家で過ごす為の着物に着替えた。用意してもらった白湯をお盆へ載せ、母のいる離れへ向かう。離れは洋館とは真反対の位置にあった。
 渡り廊下を歩くと春の花の匂いが風に乗って私の前を通り過ぎた。日の傾きかけた青い空を見上げ、そっと息を吸い込む。春は……心弾むその匂いの裏側に、どこかもの悲しさを隠しているように思う。
 離れの奥にあるお部屋の前で声を掛けた。
「お母様、蓉子です。入ってもよろしい?」
 どうぞ、というお返事を聞いて襖を開ける。
「お帰りなさい」
 布団の上でお座りになり、肩から羽織を掛けている母が私を見上げた。
「起き上がったりして、お加減はよろしいの?」
「ええ」
 力なく笑った母の傍に正座する。湯呑に入った白湯を渡すと、口をすぼめてひと口飲まれた。
「学校のお話を聞かせて頂戴」
「はしたないお話よ。それでもよろしくて?」
 わざと明るい声を出して母の顔を覗き込んだ。元々やせ気味の母の体は一層細くなり、目の下は落ちくぼんで、肌の色は青白かった。心配する私たちに入院を勧められても、母は頑として聞き入れようとはしない。
 頼りたいお父様は数日前に別の家へ出掛けられてから、まだお帰りにならない。そのことを思うと、決まって胸が針で刺されたように、ちくんと痛んだ。
「それでね、男女の恋愛のお話になったの」
「まぁ、学校でそんなお話をするの?」
「お母様の時代とは違うのよ、私たちは」
 友人を思い浮かべて得意げな顔をしてみせる。少しでも母の周りを楽しげな雰囲気にしたかったから。
「結婚相手を自分で決めたい、なんて方までいたわ」
「そのようなこと……」
「無理なことはわかっていて、おしゃべりしているの。それがとても楽しいの」
 お母様に笑いかけて、はっとした。今までにこやかな笑みを浮かべていらしたのに、がらりと表情が変わっている。胸がどきどきと早鐘を打つように鳴った。よろしくないことを言ってしまったのかしら、と不安になる。私が調子に乗り過ぎて、嫌な思いをされたのかもしれない。
 両手を握って俯き、正座している自分の膝を見る。下げ髪が垂れ、頭の上でリボンが動いたのを感じた。
「蓉子」
「……はい」
 顔を上げると、お母様は遠くを見つめていた。縁側の向こう、離れから見える小さな庭を。母の穏やかな目に、訳も分からず胸が苦しくなってしまい、慌てて私も庭へ視線を移した。新緑の色を付けた紅葉の葉が風にそよいでいる。
「あなたは、私のようになっては駄目よ」
 溜息と共に漏らした声は、庭で元気に鳴いて飛び回る小鳥とは正反対のものだった。
「お母様?」
 母を振り返り、その意味を問う。
「私のように何も出来ない、何も言えない、籠の中から出られない鳥のような女になっては……駄目」
「……」
「あなたは美しくおなりだわ。それが心配なのよ」
 布団の端を握りしめて私に言った母は、そこで言葉を終え、再び庭を見やった。

 お母様とこんなふうに話をするようになったのは、つい最近のこと。
 私たちが幼い頃から部屋に閉じこもりがちだった母。一緒に食事をとることも滅多になく、広い家の中で出くわすことも少なかった。母屋にいることが苦痛だと言って、半年前からこの離れで過ごしている。
 ひと月前、近寄りがたい存在だった母を無理にお見舞いした時、彼女の纏った空気に囚われた私は、少しでも一緒に時を過ごすことを、その場で決めた。……もう、お母様は長くない。直感できるほどに、短い期間でその容貌は変わっていたから。

「少し休みます」
 母の掠れた声に、私は長いこと庭を見つめていたような錯覚に陥った。実際はそれほど時間は過ぎていない。
「そうね。お邪魔してごめんなさい」
 横になるのを手伝い、布団をかけてさしあげる。灯りを点け、縁側の障子を静かに閉めた。母のお付きの女中へ声を掛けてから、そこを後にした。

 母の苦痛……苦悩の原因は父にあった。
 母屋には父の手が付いた女中が二人。同じ屋根の下に住み、今も働いている。その内の一人は母のお付きの女中だった。
 彼女らの息子は私の母の息子として育てられた。いずれはこの薗田(そのだ)家を継ぐ男子として。私が弟たちの真実を知ったのは数か月前。辞めることになった女中に口止めする形で、ばあやが話していたのを偶然聞いてしまった。それまで私は彼らを、同じ母から生まれた弟たちだと疑わずにいた。
 そして今、父は別の女性に夢中になっているという。女中たちの噂によると相手は芸妓だ。こことは別に家を借り、芸妓を囲って住まわせ、父はそこへ通い詰めている。
 芸妓とは美しくとも卑しい身分の者たちなのだと、ばあやから散々教え込まれていた私は、父の行いを知ったその時、初めて母を……可哀想なひとだと思った。