担任二日目のジレンマ

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(8)担任二日目のジレンマ




 朝から晴れ渡った空の、保育二日目。
 はっきり言って、怒涛のごとく過ぎていった昨日は、どんな保育をしたのか全くと言っていいほど何も覚えちゃいない。緊張感と子どもの泣き声と、俺の話が通じないのと子どもたちの言葉が通じないのと、あとはほんと、何だったっけ?

 子どもたちが慣れるまでの二日間、自由遊びは教室で行なう。童謡のCDを流し、おもちゃが散らばる部屋の中、朝の挨拶が始まる時間まで思い思いに遊んで過ごすのだ。
 そんな中、せいいちくんは登園してからずっと、俺のキャラものエプロンの裾を引っ張ってヒクヒク泣いていた。何月生まれだったかな。早生まれじゃなかった気がする。
「おっおっおっ」
 泣きながらひとこと発するたびに、彼の着ている青いスモックの裾がひらひらと揺れた。
「どうしたの?」
「まっまっまん……」
「……」
「おっおっ、まっまっ、おっ」
 お前、朝来た時からそれしか言ってないぞ。
「おっん、まっ、おま……んっんっ」
 コラコラコラ、それ以上言ったら全年齢版で連載不可能になるからやめなさい。
 わかってる。おにーちゃんとママ、だろ? 確かお兄ちゃんは年長のクラスにいたはずだ。だからってそこに連れてくわけにもいかないしなあ。とりあえず抱っこしてみるか。
「せいいちくんのお誕生日はいつかなー? お誕生表で、一緒にお名前探そうか?」
「おっおにおっ、まま、んっんっんっ」
 頑張ってる頑張ってる。えらいぞ、よく耐えて。
 それにしても綺麗な涙だなあ。瞳もきらきら輝いてる。ほっぺもつるっつるだから、雫が自然にポロポロ下へ落ちてくんだ。でも鼻水がすごいな。拭いてあげようとエプロンのポケットからティッシュを取り出した。
「う、ううっ」
「ぬおおおっ」
 ぎゃー俺のTシャツに鼻水こすりつけた! でもちょっと笑ってくれたからいいか。やっぱり笑うと可愛いよな。泣いてても可愛いけどさ。

「ゆーすけ先生ー。ひよこ2組の子、はみ出してたよー」
 その時、しっかりとした言葉遣いで年長男児が現れた。ドア際に立つその手には、うちのクラスの男の子、しゅうへいくんの手がつながれている。
「え!」
「くま組まで来てたから、連れて来た」
「あ、ありがとう! 全然気付かなかったよ。本当にありがとう」
「いいえ。まー困ったことがあったらオレたちに言えよな。助けるし」
 何て頼もしいんだ! 年長すげーよ、マジすげーよ。5歳児がものすごい大人に見える……! 素晴らしい。
「年少さんって、かっわいーよねー! あたしも先生のこと助けてあげるからね」
 一緒についてきた年長の女の子が言った。語尾にハートマークついてんぞ。みつ編みを指でくるくる弄び、スカートの裾をひらひらさせている。何者だ君は。
「お前、先生にないしょで勝手に部屋出たらだめだぞ」
「うん」
 お兄ちゃんみたいだな。しゅうへいくんも素直に頷いた。
「じゃー先生またね」
「ありがとう!」
「ばいばーい」
 完全に手の振り方が女子高生だ。いやでも助かったよ、ほんと。気をつけてたのに、いつの間に出て行ったんだ。そのまま園から出るなんてことがあったら……想像しただけでぞっとする。まあ玄関にも門にも主任と園長がいるから、そんなことないだろうけど。でも細心の注意を払わなければいけないな。
 今、清香先生は数人をトイレに連れて行っているからここにはいない。とりあえずホッとした。見つかったら、何言われるかわかったもんじゃない。
「しゅうへいくん、何して遊ぼうか?」
「……えご」
「え、えご?」
 まただ。話の前後をよく汲み取るんだ裕介。何かで遊ぶ。男の子だしな、ぬいぐるみとかじゃないだろう。
「ぶおっく。えごの」
「あ、ああ。レゴのブロックかな?」
 しゅうへいくんは笑って頷いた。
「よし、一緒にお部屋で遊ぼうね」
 と言ってるそばから、おかっぱの女の子が一人、俺の横をするりと抜けて部屋から出て行き、一段降りた冷たい階段へ座り込んだ。せいいちくんを左手に抱いたまま右手にしゅうへいくんを連れて、女の子へ声を掛けた。

「さっちゃん、どうしたの?」
 バッヂにはさちこ、と書いてある。
「さっちゃんじゃない! さーちゃん!」
「ごめんごめん。さーちゃん、お部屋行こう?」
「……」
「先生とお手々繋ごうか?」
「……」
「お部屋でお母さんごっこする?」
「……」
 シカトです。完璧なシカトです。さーちゃんは俺の存在を全く無視して、階段の下を睨んで沈黙している。泣くのを我慢してるのか、それとも怒ってるのか、唇を噛み締めていた。
「さーちゃ、」
「うっさい! あっちいって!」
 ええええ!? う、うるさいだとお? その声に驚いたのか、せいいちくんが再び泣き始めた。しゅうへいくんも、もう少しで涙が零れそうだ。ああ、どうしよう。話を聞いてあげたいけど、この二人を一度部屋へ置いてくるか迷う。

「裕介先生!」
「はいいっ!」
 清香先生の怒声が俺の背中へ飛んできた。何だよ血相変えて。みんな泣いちゃうからやめてくれ。ダッシュで駆け寄って来た清香先生は、しゃがんでいる俺を見下ろした。
「何してるの。一人の子だけに構ってたらダメでしょ!」
「いや、だって今」
「いいから! 私が見てるから、二人と一緒に早く部屋に戻って全体を見なさい」
「……はい」
 そんなに怒ることか? そりゃ、皆のところへ帰らなきゃいけないのはわかってるけど、今はさーちゃんが気になるのに。
「じゃあ、すみません。さーちゃんをお願いします」
「わかったから、早く」

 後ろ髪を引かれる思いで、さーちゃんの元を去った。振り向くと、さーちゃんは清香先生と笑顔で話をしている。
 くそー! 俺がさーちゃんの担任なんだぞ!? もう少し時間があれば俺だって。いや、今さーちゃんとやり取りしてる間、清香先生がちょっとくらいクラスを見ててくれたって良かったじゃんか。その間に俺がさーちゃんと仲良くなれたかもしれないのに。
「……」
 でも清香先生にクラスを仕切られるのも、それはそれで嫌だ。でもなあ、でも、いやでも……ああ、何だかもやもやする!

 さーちゃんがどうしてああいう行動に出たのかも、しゅうへいくんが部屋から出て行った理由も、まだよくわからなかった。一人ひとりともっと接したいのに、やることに追われて時間が無い。

 べそをかいてる二人の男児を連れて教室へ戻ると、恐れていた光景がそこにはあった。





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