ぎんいろ 安弘編

6 ぎんいろ




 まひるを抱っこひもに乗せ、少し遠回りをして、久しぶりに大きな川の土手まで散歩に来た。家を出てすぐにまひるは泣き止み、眠ってしまった。

 土手へ上り、道なりにゆっくり歩く。遠くの夕日が空を赤く染め、上の方に星がひとつ現れた。ぼんやりと進んでいる内に、大きな銀杏の樹の傍まで辿り着いた。
「綺麗だな」
 立ち止まって、半分ほど葉が落ちた銀杏の樹を見上げた。風に吹かれた銀杏の葉が、一枚二枚とひらひら舞い、土手の下へと落ちていく。
「あ……」
 まひるの名前を決めた、一年前の午後。朋美が聞いたんだ。これ、何? って。

 息苦しいほどの胸の痛みに襲われたと同時に、まひるが目を覚まし、再び泣き声を上げた。
 夕暮れの中を、まひるの声が響き渡る。何をしても、何を言っても泣き止んではくれない。ますます大きくなるその声は、何故か自分からだんだん遠のいていくような気がした。
 洗濯物、取り込むの忘れたな。
 哺乳瓶がキッチンの床に転がったままだ。持ち帰った仕事も山のようにある。月曜日、保育園へ予備の洋服を持って行かなくてはならない。保育ノートにハンコを押して、ひとこと書くのを忘れていた。そろそろ、おむつの買い置きが無い。また明日の明け方も、起こされるんだろうか。
 いつまでこんなことが続くんだろう。先が見えない。終わりもわからない。
 なんでこんなに泣くんだ? 黄昏泣きっていうのは、三か月くらいの赤ん坊に起きるものだと教えてもらった。でも、まひるはもう来月の終わりには一歳を迎える。どうしてこんなに小さいんだ。検診じゃ、体重が軽いと栄養指導までされてしまった。

 腕の中で泣き続けるまひるの顔を見下ろす。
「寂しいのか? まひる」
 ぽろぽろと零れ続ける涙を拭ってやろとうした自分の指先に、うまく力が入らない。
「俺じゃ、駄目なんだろ?」
 朋美がいた頃は、こんなことはなかった。
「お母さんに逢いたくて泣いてるんだろ? ずっと」
 ミルクも良く飲んで、よく太って、たくさん笑っていた。
「お父さんも、逢いたいよ」
 朋美を喪って、俺らはどうやって進んだらいい? どんな希望を、持てばいい?
「……逢いたい」
 まひるにも俺にも、お前が必要だったのに。
「もう一度お前に逢いたいんだよ、朋美」
 声が聴きたい。
 手をつないで、触れて、三人でまた笑いたい。

 土手を一歩、また一歩と下りていく。進むたびにそれは速度を増し、何かに引っ張られるように、無我夢中で静かに流れる大きな川へと走った。広い河川敷は土でならされた場所から、やがてごつごつとした砂利に覆われていく。何度もよろけて、それでも朋美の名前を呼びながら、緩やかな流れへと近づいた。
 靴の先から冷たさが染み込んだ。爪先から、くるぶしへ、少しずつ川の水が伝わっていく。ちゃぷちゃぷという音が、辺りへ静かに響いた。

「やすくん、待って」
「え?」
「……ごめんね」

 風に吹かれて飛んできた銀杏の葉が一枚、まひるの額に乗った。
 あんなにも激しく泣いていたまひるは、いつの間にか泣き止んで俺を見上げていた。じっと黙って、瞬きもせずに。
「まひる……」
 彼女にくっついている黄色の葉を指で摘まんだ。
「ごめん、まひる」
 小さな唇をぎゅっと閉じたまひるは、俺の顔を見詰め続けている。
「お父さん、悪いお父さんだなあ……。ごめん。朋美、ありがとう、ごめん」
 川から一歩退き、崩れるように砂利の上に膝を着いて抱っこひもの中にいる小さなまひるを抱き締めた。
「ご、ごめん。ごめんなさい。う、う……」
 ずっと、受け入れられなかった。
 目を逸らして、見ないふりをして、拒んで、襲ってくる感情に怯えて蓋をしていた。そうすれば歩いて行けるんじゃないかと、前に進んでいけるんじゃないかと、頑なに思い込んでいた。
 涙が……、朋美が亡くなってから閉じ込めて枯れてなくなったと思っていたものが、いっぺんに溢れ出して、乾いていた場所を湿らせていった。まひるの頬にも、ひとつふたつと落ちていく。朋美がお餅みたいだとよく笑っていた、その柔らかい頬に。

 周りは夕暮れの赤から群青色へと変わり、その色が瞳の中に心の奥に沁みていった。
 たとえそれが空耳でも。
 通り過ぎた風は二人にとても優しかった。




 朋美がまひるの名前を決めた時、歩き始めた二人の前に、銀杏の葉が集められて小さな山になっていたのを見つけた。

 ――これ、何?
 ――なんか、この銀杏の樹に一枚だけある銀色の葉を見付けると、逢いたい人に逢えるとかなんとかって、この前聞いたな。
 ――なあに? それ
 ――駅前の定食屋の子どもが言ってたんだよ。朋美が実家に帰ってる時に行ったんだけど。
 ――ふうん。そんな話があるんだ。じゃあこれ、その為に集められたのかな?
 ――子どもの言うことだしな。拾って集めて遊んでただけかもしれないし、燃えにくそうだけど、誰かがたき火でもするつもりだったんじゃないの。朋美みたいな焼き芋好きの奥さんとかがさ。

 ひどいと言って朋美が笑ったんだ。舞い落ちる銀杏の葉が光に照らされて、彼女の周りは金色に輝いていた。




 いつもと同じ色の葉を手にした次の日から、まひるの夕暮れ泣きは嘘のように治まった。




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